第40話 【過去編】白亜の塔が、すべてを飲み込む前に
――五年前。
それは、エルレアが白亜の塔のすべてを信じ、そしてすべてを奪われる前。エルレア=アストレインがまだ、ただの「研究バカ」だった頃の話だ。
かつて、白亜の塔の「第八研究室」には、何気ない、しかし確実に輝いていた日常があった。
「絶対に『丸型』だ。部屋の隅は手動でやればいい。角にぶつかって止まる魔道具なんて、実用に耐えん」
「いいえ、隅の埃こそ自動で吸うべきです。ですから絶対に『四角』。これはアストレインの誇りにかけて譲れません!」
誰かが飲み忘れたコーヒーが冷えきっていて、床には徹夜明けの計算紙が散乱している。
そんな研究室の床に謎の木製模型を並べ、グレイとエルレアが不毛な口論を繰り広げていた。
「丸型」「四角」と一歩も引かない二人の間へ、呆れ果てた溜め息と共に冷えた炭酸水を差し入れたのは、当時まだ十代だった第五王子カイルだった。
「……あのさ。四角にすると回転時に家具を傷つけるし、丸型だと隅に届かない。なら、間を取って『三角形(おにぎり型)』にすれば旋回時に角まで届くんじゃないかい? あと、夜中に大声を出すのはやめてくれ、近所迷惑だ」
「「それだ!!」」
いつだって、彼らの暴走にブレーキをかけ、私生活の面倒を見るのはカイルの役目だった。
深夜、他の研究員が全員帰ったあとも、エルレアの席には魔導ランプの灯りが残り続ける。
カイルは、彼女の「部屋の鍵の予備、そのさらに予備」という、もはやストーカー一歩手前の特権(※あまりに部屋に引きこもって餓死しかけるため、グレイから緊急用として渡されたものだ)を駆使して、深夜の差し入れに赴くのが日課だった。
案の定、研究の山場を迎えたエルレアは、寝食を忘れてボロボロになっていた。魔導ランプの熱で温められた室内には、紙とインクと焦げた魔石の匂いが染みついている。
「おいおい……また服のボタンが掛け違っているよ。髪もボサボサだ。一応、これでも貴族の令嬢だろう?」
「うるさいわね、今それどころじゃないのよ! カイル、そこにあるサンドイッチを私の口に放り込みなさい、両手が塞がってるの!」
あーあ、と零しながらも、カイルは言われた通りに彼女の口へ食事を運んでやる。
もぐもぐと咀嚼しながら、エルレアは目の下に色濃いクマを作り、およそ魔女としか言えないマッドな笑みを浮かべた。
「ふっふっふっ……もう少し、あと少しなのよカイル。この術式が完成すれば、温室の温度を完全に一定に保てる。南国から北国まで、どんな気候の希少薬草だってアストレインの庭で栽培できるようになるわ! 世界の医療を牛耳る、救世主と呼ばれる日も近いわね! ひっひっひ!」
怪しげな笑い声をあげる彼女は、客観的に見れば完全に危険人物だった。
けれど。その翠色の瞳だけは、濁りのない純粋な「希望」にギラギラと輝いていて。
魔導ランプの光が、汗で張り付いた彼女の髪と、インクで汚れた指先と、それでも止まらない計算の手つきを照らし続けている。
その瞳が曇る瞬間だけは、絶対に見たくないと思った。
だからつい、嫌な顔をしながらも世話を焼くのをやめられないのだ。
そんなカイルの献身は、悲しいかな、彼女には一ミリも伝わっていなかった。
ある日の午後、カイルが資料室の廊下を通りかかった時のことだ。
本棚の隙間から、エルレアと同僚の女子魔導士が、何やら「恋バナ」らしきものをしているのが聞こえてきた。カイルは思わず、壁の影に身を隠して聞き耳を立てる。
『ねえねえエルレア、カイル殿下って本当に素敵よねぇ。第五王子で、あの顔で、いつも優しくて。貴女、妙に仲が良いじゃない? ……まさか、そういう関係だったりする!?』
壁の裏で、カイルの心臓が不自然に跳ね上がった。固唾を呑んで、エルレアの返答を待つ。
『いやいや、ナナってば、そりゃあり得ないわ。勘違いしないで。あれはただの"生活指導部"よ……?』
エルレアは手に持った資料をめくりながら淡々と言った。
『えっ、生活指導部……?』
ナナは青い花のついた髪飾りを直す手を止めて、頭に疑問符を浮かべながら首を傾げてエルレアを見る。
『そうよ。ボタンがズレてたらうるさいし、部屋が汚かったら片付けろって怒るし、夜更かししてたら早く寝ろって部屋に踏み込んでくるもの。実質、実家のお母さんか風紀委員みたいなものよ。異性として意識する要素がどこにあるの?』
『私、その生活指導なら毎日受けたーい!』
『ずいぶん物好きなのね……。お母さんが増えるだけなのに……』
ハハ、とカイルは乾いた笑いを漏らした。
王子としての身分も、世の令嬢を虜にするはずの笑顔も、彼女の中ではすべて「生活指導の人」に変換されていた。
――そう理解してしまった瞬間、カイルは静かに天を仰いだ。
廊下の魔導ランプが、等間隔に石床に橙の輪を落としていた。涙が出そうになるほどの圧倒的無自覚。
それでも、そんな彼女の隣にいる時間が、カイルにとっては間違いなく幸福な日常だった。
――あの頃の彼らは、まだ知らなかった。
やがて白亜の塔そのものが、彼らの幸福ごと飲み込むことを。




