第37話 実家が虚栄に酔う中央で、私は壁際から査定する。〜殿下の寵愛すらただの取引条件です〜
――舞踏会の夜。
当然のような顔をして受付に招待状を差し出し、会場の中央を堂々と歩いていくのは、まばゆいばかりの新調ドレスに身を包んだ義母とジェシカだ。
「皆様、ごきげんよう」
義母は扇子の影で嫌味な笑みを浮かべ、ジェシカもまた、勝ち誇ったように高位令嬢たちの輪へ入っていった。
エルレアを置き去りにし、その席を奪い取ったハイエナたちの顔は、醜い優越感に歪んでいる。
「ジェシカ様、先ほどの招待状、王家の紋章が入っていらしたわね?」
「ええ。カイル殿下が、私どものためにわざわざ。……殿下とは、少々懇意にさせていただいておりますの」
ジェシカの傲慢な嘘に、取り巻きの令嬢たちが羨望の混ざった小さな悲鳴をあげる。
アストレイン家の虚栄心が、会場の中央で最骨頂に達した――その時だった。
大広間の重厚な扉が静かに開かれ、会場のすべてが息を呑んだ。
仮面で顔は隠れている。
しかし、その深い琥珀色の髪をなびかせ、目の眩むような細密で贅沢なゴールドの刺繍が施された深緑のドレスを纏う『彼女』が歩くたび、会場の空気が文字通り『買い替えられていく』ようだった。
そして何より、彼女の胸元には、見る者を圧倒する国宝級の赤い魔石のブローチが輝いていた。
「どこの高貴な姫君だ……?」
「馬鹿な、あのブローチ……先代の王妃様が愛用されていた、王家の秘宝ではないか!?」
にわかに沸き立つ驚愕のざわめきを、エルレアは仮面の奥で冷ややかに楽しんでいた。
(当然よ。カイルとの『偽装デート』で、彼の財布――もとい経費から一括徴収した高級ドレスだもの。不良債権を叩き潰すための戦闘服としては、これ以上ないわ)
ざわめきの中、仮面の令嬢の傍らに寄り添う従者が、優雅に手を差し伸べた。
夜の闇を溶かしたような漆黒の衣装に身を包んだその男は、まるで極上の絵画から抜け出してきたかのように、人間離れした美貌を誇っている。
「エルレア、あっち。一番空気の澱んでいない場所へ行こう」
ネムの低く気怠げな声に、エルレアは当然のようにその手を取った。
ネムは群がる貴族たちを「石ころ」か何かのように一瞥すると、エルレアを促して会場の喧騒から鮮やかに離れていく。
エルレアが壁際へとポジションを移すと同時に、会場の空気が完全に変質した。
華やかな中央広場を飾るどの令嬢よりも、圧倒的な存在感を放つ謎の美女。壁際に立つ彼女の側には、正体不明の、しかし誰もが本能的にひれ伏したくなるほど美しい「黒の従者」が影のように控えている。
「……ねえ、あのお方、一体どこの名門の?」
「あんな美貌の従者、見たことがないわ。お仕えする主の格も、推して知るべしね……」
嘲笑と虚栄に満ちていた貴族たちは、そのあまりの格の違いに次第に困惑し、気圧され始めた。
中央で派手に振る舞っていたはずの義母やジェシカが、急速に「安っぽい舞台役者」に成り下がっていく。
対して、壁際でネムを従え、仮面の奥の澄んだ翠色の瞳で冷静に会場を査定するエルレアは――まるでこれから、この会場にいるすべてを安値で買い叩こうとする、若き支配者のような威厳を放っていた。
エルレアは、ネムに向かって小さく唇を吊り上げる。
「さて、ネム。ここからが一番よく見えるわ。……誰が買いで、誰が売りか、じっくり見定めさせてもらうわよ」
「カイル様、今宵の――」
「失礼。……見つけた」
群がる高位貴族たちの慇懃な言葉を容赦なく遮り、カイルが歩き出す。
その視線は、会場の華やかな中心部ではなく、あえて影を選んで静かに佇んでいた一人の令嬢に固定されていた。
カイルが進むたびに、人波がモーゼの十戒さながらに割れていく。気高き王族が放つ圧倒的な「光の暴力」に、誰もがひれ伏すように道を開けざるを得なかった。
エルレアの数歩手前で、カイルは立ち止まる。
仮面越しでもわかるほど、その瞳は熱を帯びていた。
「……やっと捕まえた。今夜の君は、どの宝石よりも私の目を焼くね」
カイルは迷いなくエルレアの手を取り、その指先に、至上の誓いを立てるような深く長い接吻を落とした。
その瞬間、大広間から短い悲鳴のような溜息が漏れ出す。
「な、……カイル様が、あの方の手に口づけを……!?」
「そんな、一体どこの令嬢にこれほどまでの信愛を……!」
周囲の困惑を、カイルは愉しげに無視した。彼はエルレアの手を握ったまま、彼女の耳元に、熱を帯びた声で低く囁く。
「私が贈ったドレスを着てくれたんだね。……やはり、私の見立てに狂いはなかった。とてもよく似合っているよ」
カイルは愛おしげに目を細めると、彼女の顔を覆っていた仮面へそっと指をかけ、優雅な仕草でそれを外した。
その下からから現れたのは、誰もが「無能」と見下していたはずの、あの深い琥珀色の髪と、鋭く澄んだ翠色の瞳。
「――っ、お、お義姉様……!? なぜ、なぜ貴女がここに……っ!?」
屋敷に置き去りにし、今頃のこのこ来ては門前払いされているはずのエルレアの素顔が現れた瞬間、ジェシカが裏返った悲鳴をあげた。
先ほどまで「カイル殿下と懇意にしている」と周囲に大嘘を吐いていたジェシカの顔から、一気に血の気が引いていく。
カイルはジェシカの下俗な動揺など視界にも入れず、エルレアだけを見つめて微笑んだ。
「君を縛っているものは、今夜すべて私が引き受けよう。……君が自由に動けるように」
極上のエスコートの言葉に対してエルレアは、いっそ冷酷なほど不敵な笑みを返した。
「殿下、それは誤解ですわ。……私は守られに来たのではありません。自らこの場所を『買収』しに来たのです。貴方はその立会人を務めて下されば十分ですわ。……せいぜい最前列で見届けてちょうだい」
王族の寵愛すら「契約の有利な条件」として受け流す、密やかで不穏な「取引」。
遠巻きに見守る義母とジェシカは、ただ真っ青になって立ち尽くすしかなかった。
自分たちが泥を塗り、ハメ殺したはずのエルレアが、この国で最も価値ある男を、対等な「ビジネスパートナー」として従えている。
その厳然たる事実が、彼女たちの積み上げてきた薄っぺらな優越感を、音を立てて粉々に砕き始めていた。




