第36話 実家の地獄への片道切符と、強欲な主のどす黒い歓喜
その頃、ネムは人ならざる静謐な足取りで、屋敷の最奥へと進んでいた。
エルレアのブローチに染みついた、リリアーヌの魔力の残滓を辿って辿り着いたのは、亡きリリアーヌの旧私室。
長年閉ざされていたその場所には、死の静寂と埃が積もっている。
ネムが指を弾くと、現実と夢の境界が曖昧になったかのように部屋が歪んだ。
――幼いエルレアが母を呼ぶ悲痛な声が響く。
『お母様! お母様! 私、いい子にするから! 目を開けて!』
『エルレア……貴女は私の宝物……私の全て……』
苦しげな吐息で縋り付くエルレアを抱きしめるリリアーヌは、まるでネムが見えているかのように一点を差す。
――その瞬間、霞のように二人の幻はかき消えた。
ネムがリリアーヌが指さした先を辿ると、そこには部屋の中央で微笑む、リリアーヌの肖像画がある。
『貴方は、エルレアの資産価値に叶うものかしら?』
リリアーヌの声が、肖像画から響いた。まるで地獄の審判のように。
ネムのアメジスト色の瞳が、妖しい光を湛えた。
「ふふ、試してみてよ……僕はきっと『お母様』のお眼鏡に叶うんじゃないかな?」
ネムの不敵な笑みに呼応するように、肖像画の瞳がアメジスト色の光を反射して、一瞬だけ鋭く細められる。
(合格、ということだね――)
ネムの指先が肖像画に触れた瞬間、キャンバスの絵の具が生き物のように蠢き、空間が波打つように歪んだ。
夢魔の力が、リリアーヌが遺した強固な残留思念の鍵をこじ開けた。現れたのは、物質的な重さを持ちながらも、実体がないかのように透き通った“夢の隠し金庫”だ。
「用心深いお母様だねぇ。婿養子のくせに乗っ取りを企てた父親を、よほど信用してなかったんだ。……この『愛』は、確かに高くつく」
ネムはくすりと笑い、そこから冷たい熱を放つ一振りの鍵と――アストレイン家当主の証たる『金印』を掴み出す。
目的を果たしたネムは、一度だけリリアーヌの肖像画に、主人の母への敬意を込めて優雅に一礼をした。
静寂を取り戻した部屋で、肖像画は変わらず聖母のような微笑みを浮かべ、その瞳は去りゆく「新たな守護者」の背を見送っていた。
数時間後。
自室に戻ったエルレアは、扉を閉めるなりベッドへ倒れ込んだ。全身が悲鳴をあげている。
「……二度と、あんな男と踊るものですか……」
「お疲れ様。収穫は上々だよ」
かけられた声に、首だけをのろのろと回すと、ネムが優雅に椅子へ腰掛けていた。
テーブルの上には、鈍い黄金色を放つ印章が無造作に置かれている。
エルレアは弾かれたように身を起こし、その重みを掌で確かめた。
「魔法の才能のない者には一生かけても見つからない場所にあったよ」
「そう……。お母様はもう少し夫の顔だけじゃなくて、『中身』も精査すべきだったわね」
エルレアは重厚に光る金印を、ぎゅっと握りしめた。
これこそ、父が血眼になって探し続けていた、本物の「支配権」だ。
「ふふ……。いい仕事をするじゃない、ネム」
「最高の褒め言葉だね」
「さすがは私専属の、有能な電池だわ」
エルレアは鏡の中の自分を見つめ、冷酷に笑った。
乱れた髪。締め上げられた痕。
だがその瞳は、巨額の利益を確信した商人のように爛々と輝いている。
「――さあ、準備は整ったわ」
彼女は金印を頭上に掲げ、静かに宣告した。
「舞踏会の夜。アストレイン家という名の不良債権を、まとめて“強制執行”してあげる」
その時、部屋の扉が小さく叩かれた。
「……っ!」
ネムは気配を確かめるように目を細めた後、その瞳を冷酷なアメジスト色に光らせながら扉を開く。
そこにいたのは、以前エルレアが助けたあの年若き侍女だった。
「お嬢様……お呼び立てして申し訳ありません」
少女はガタガタと膝を震わせながらも、必死に周囲を警戒し、胸元から一通の封筒を取り出した。
それは、先ほどジェシカが奪い去ったはずの、王家の紋章が刻まれた招待状だった。
「あの……私、偶然聞いてしまったんです……」
侍女はスカートの裾をギュッと握りしめながら、顔を上げる。
「……ジェシカ様が本物を使って王城へ行き、お嬢様には偽物を掴ませて、門前払いの恥をかかせる計画だと……それで、私、この本物とすりかえました」
侍女は招待状をエルレアに差し出すと、深々と頭を下げた。
「お嬢様が救ってくださったあの時のご恩、一生忘れません。……どうか、これをお持ちになってください」
エルレアは、震える少女の手から「本物」の招待状を受け取った。
指先で王家の紋章をなぞる。昨日の「投資」が、想定より早く、正確なリターンとして戻ってきたのだ。
「……有益な働きね」
不敵に微笑み、戸棚から一粒の飴のような魔石を取り出して侍女の掌に置く。
「これは追加の報酬よ。それと――」
エルレアは本物の招待状を見つめ、楽しげに片眉を上げた。
「ねえ、その計画。逆に利用しましょう」
机の引き出しから高級羊皮紙を取り出し、魔導鞄から一本の魔導筆を迷いなく抜き取る。
「わぁ、エルレア。それ、絶対まともな使い方じゃないよね」
影から覗くネムの呆れた声に、エルレアは筆を滑らせながら、心外そうに唇を尖らせた。
「失礼ね。グレイ先輩の書記能力が役に立たなくて、ちょーっと上長に予算を通す時に使っただけよ」
呆然と見守る侍女の前で、エルレアの魔導筆が踊る。
紋章。筆跡。魔力波長。王家特有の認証術式までもが、寸分違わず羊皮紙へ刻み込まれていく。
最後にアストレイン家の印章をぽんと押した瞬間、ただの紙切れだったはずのものが、ぞくりとするほど本物と同じ魔力を帯びた。
「……はい、完成」
インクを乾かすように、ひらひらとそれを振る。
「城の外門程度なら笑顔で通れるわ。まあ――」
愉快そうに、口元を歪めた。
「王族用の鑑定魔道具にかければ、一発で警鐘が鳴り響く特級呪物だけれどね」
侍女はゴクリと息を呑んだ。
恐ろしい。底知れなくて、ゾクゾクする。
だというのに、胸の奥が熱かった。
理不尽に虐げられていたはずの令嬢が、今や笑いながら、実家はおろか貴族社会そのものを手のひらで転がそうとしている。
「これを持ち帰って、金庫にあるジェシカの粗悪な偽物とすり替えてちょうだい」
「はい……! 喜んで、すり替えてまいります!」
少女は新たな偽物を胸に抱き、廊下の闇へと静かに紛れていった。
その背中を見送りながら、ネムが肩をすくめて蠱惑的に笑う。
「ふふ、えげつないねぇ……。君、たまに倫理観を質屋に入れてくるよね」
「失礼ね、今回はちゃんと利息を払って手元に戻してあるわよ?」
エルレアの翠色の瞳が、夜の闇の中で最高に「強欲」な輝きを放っていた。




