第35話 強欲な主様の正式命令、およびピンヒールで踏みにじるワルツ
カイルが屋敷を去った途端、待機していたハイエナのように義母とジェシカが詰め寄ってきた。
「ダンスのステップも踏めない無能を、王城へ出すわけにはいきませんわ」
義母は扇子を鋭く打ち鳴らし、冷ややかに言い放つ。
「アストレイン家の泥を塗り、わたくしたちまで恥をかかせるつもり? 本当、面の皮が厚いわね。殿下にまで迷惑をかける気かしら?」
「そうよ! 野良魔導士のお義姉様には相応しくないわ!」
ジェシカがいびつな笑みを浮かべ、エルレアの手から招待状をひったくるように奪い取った。
だが、エルレアは怒るどころか、その瞳に深い嘲笑を湛える。
(結構。せいぜいその紙切れに縋って、束の間の夢を見ていなさい)
カイルから貰った「本当の武器」は、すでにポケットの中にあるのだから。
その翌日から屋敷は慌ただしくなっていった。
「お母様、ドレスのオーダーは間に合うかしら?」
「そうね、ジェシカ。特急で間に合わせましょう。追加代金はいくらでもいいわ」
彼女たちが舞踏会の準備に狂奔し、アストレイン家の金庫がさらに削れていく。
だが、注意が完全に逸れたこの隙こそが、最大の「買い場」だ。
(――その間に、この屋敷に眠る“母の遺産”をすべて強制回収してあげるわ)
エルレアがほくそ笑んでいると、背後から長身の影が近づいてくる。
振り向くと、そこには相変わらず胡散臭いほど上機嫌な笑みを浮かべたディートリヒがいた。
彼は、舞踏会準備のため数日前からアストレイン家に滞在していたのだ。
「おや。ずいぶん楽しそうな顔をしていますね、エルレア」
夜の闇を纏ったような黒髪を揺らし、彼は優雅に一礼する。
「ダンスが苦手だとか。ならば、私が手取り足取り教えましょう。愛しい婚約者のためです、遠慮はいりませんよ」
(……面倒な『事故物件』に捕まったわね)
エルレアは内心で舌打ちしたが、即座にその状況を「利益」へ変換する。
(――いいわ。私がこの男の相手をしている間こそ、屋敷の監視の目が消える一番の死角)
「わかりました。では、着替えてまいりますわ。ホールでお会いしましょう」
澄ました顔で言い放つと、エルレアは足早に自室へ向かった。
部屋へ入ると、ソファに寝そべったままのネムが気だるげに手を上げた。
「ああ、おかえり。エルレ……」
「ひっひっひっ……」
エルレアが不敵な笑みを浮かべて肉薄すると、不穏な気配を察したネムが跳ね起き、ソファの端に縮こまった。
「わわっ、ついに本物の悪魔が出たかと思ったよ」
「お仕事よ、ネム。屋敷の中から、お母様の遺品をすべて掘り起こしてきなさい。……これは指輪の主としての正式な『命令』よ」
その瞬間、指輪を通じてエルレアの魔力がネムを縛っていた見えない枷を外す。
聖属性の結界はなお彼を拒絶していたが、主命を帯びた契約はその拒絶の中に細い道をこじ開けた。
一拍置いて、ネムの眠たげな瞳に冷徹な光が宿る。
彼はゆっくりとソファから立ち上がった。
「もう、夢魔使いが荒いんだから……。終わったら、たくさん食べさせてよ?」
ネムはエルレアを誘うような甘い笑みを浮かべ、唇の端を蠱惑的に舐めた。
「はいはい。期待してるわよ、有能な電池さん」
「仰せのままに。強欲な主様」
ネムが目を細めた瞬間、その輪郭は音もなく足元の影へと溶け落ち、闇の中へと消えていった。
応接室に流れる流麗な旋律。
だが、そこで始まったのは優雅なレッスンなどではなく、熾烈な『格闘』だった。
「さあ、エルレア。もっとわたしに身を預けて」
「――死んでも御免ですわ!」
エルレアは令嬢の笑みを浮かべながら殺意を込めて、鋭利なピンヒールをディートリヒの足へ叩き込む。
だが、彼はまるで重さの概念が破綻しているかのような異様な身のこなしでそれを躱し、さらに強引に彼女の腰を引き寄せた。
「おやおや。ずいぶん激しい」
ディートリヒが嬉しそうに笑う。
向けられる敵意も殺意も、彼にとっては甘美な愛撫でも受けるように受容している。
「……っ、この変態物件……!」
密着する距離。コルセット越しに肺が圧迫され、意識が白濁しかける。それでもエルレアは容赦なく次撃を狙った。
「もっと強く。遠慮はいりませんよ、私のエルレア」
ディートリヒの瞳の奥で、漆黒の光が爆ぜる。
ピンヒールが彼の足を掠めるたび、その火花は黄金色の魔力となって舞い散り、エルレアを包み込んだ。
呼吸が速くなるにつれて、不思議と思考がまとまらなくなっていく。
「あは……最高だ」
ディートリヒが熱に浮かされたように笑った。
「君の殺意は、どんな宝石よりも私を昂ぶらせる。もっと私を壊して。君のその強欲な指先で、私の奥底まで暴いてごらん?」
彼がはしゃぐようにステップを速めるたび、応接室の床板がその異常な質量に耐えかねて悲鳴を上げる。
それはもはやダンスではない。己を捧げようとする獣と、それを踏みにじろうとする女王の、美しくも悍ましい儀式。
掠める爪、突き立てられるヒール。そのたびに彼は喉の奥で「くくく」と笑う。もっと深く、もっと残酷に自分を削り取ってくれと乞う、飢えた獣の甘え声だ。
(何なの、この男……)
肌が触れ合うたび、異質な魔力がまとわりついてくる。不快感と畏怖が混ざり合ったような、ちぐはぐな気配だった。
ディートリヒの瞳が金色に揺らめき、禍々しくも神聖な魔力がエルレアのブローチに少しずつ流れ込む。
(『異常物件』すぎる……でも吸える魔力の質は一級品だ)
肌が触れ合うたびに流れ込む、純度の高すぎる神聖な魔力。それがエルレアの神経を、麻薬のように痺れさせていた。
何かがおかしい。けれど、頭が重くて思考がまとまらない。魔力を練ろうとするたびに、忌々しい魔力封じの腕輪が鈍く光るからだろうか。
(白銀の髪……? そんなはずは。彼は黒髪の……)
疑念が形を成そうとするたび、脳の奥で甘い痺れが走り、思考が砂のように崩れ落ちる。
まるで、正解に辿り着くこと自体を、彼女の生存本能が、あるいはディートリヒの魔力が拒絶しているかのようだった。
「貴方は……一体……?」
エルレアの脳裏で、何かが繋がりかける。
だがその瞬間、ディートリヒは逃がさないと言わんばかりに彼女を強く抱き寄せた。
同時に、エルレアの渾身の一撃が男の足を正面から踏み抜く。鈍い衝撃が、ピンヒール越しに伝わった。ワルツの優雅な旋律が終わりを告げる。
「ああ……」
漏れたのは悲鳴ではない。脳が溶けるような恍惚の吐息だった。
「素晴らしい……。君に踏みつけられる感覚は、どんな音楽よりも心地いい」
至近距離でうっとりとエルレアを見つめる瞳は、いたずらが成功した子供のように純粋で、それゆえに狂気を感じさせた。
「エルレア、とても楽しいよ。ずっとこうしていたいな」
愛おしげに腰を抱いたまま、頬へ触れる指先。そのまま、するりと首筋を撫でていく。
――刻印の上を、なぞるように。
「……二度と御免よ」
エルレアは冷徹な仮面を崩さず答えた。
だが、視界の端でゆらめく白銀の残像が、どうしても意識の表層に浮上してこない。
(……魔力の摂りすぎかしら。喉の奥まで、甘ったるい香りが染み付いて離れない……)
纏わりつく魔力のせいで、霞がかった頭の奥がざわついていた。
それは、目の前の『投資対象』が、実は世界を滅ぼしかねない『毒』であるという警報だったが、今の彼女には、心地よい酔いのようにしか感じられなかった。




