第31話 まだ清算の時じゃない(※なお、隣の人外は殺る気満々です)
翌朝。
長いテーブルの上には、焼き立てのパンの香ばしい匂いと、香草をまぶした肉料理の脂の爆ぜる音が満ちていた。
だが、エルレアの前にだけ置かれたのは、湯気すら乏しい、具のない薄いスープが一皿。
「……随分と慎ましい朝食ね。アストレイン家の財政状況は、ついにそこまで悪化したのかしら?」
エルレアが冷え切った声で言うと、向かいに座る継母は優雅にティーカップを傾けながら、わざとらしくため息をついた。
「当然でしょう? 街で野良犬のように好き放題に飲み食いしていたのでしょうけれど、これからは違います。令嬢には、令嬢に相応しい『管理』がありますわ。……これから婚約者様にお見せする身体なのですから」
扇子の奥で、ねっとりと湿った笑いが漏れる。
「へぇ。餌代の削減を“淑女教育”って言い換えるのね。その無能な会計能力、投資家としては破格のセンスだわ」
「まあ。口だけは達者なこと」
継母の視線が、エルレアの右腕――黒銀の腕輪へ落ちた。その目に滲むのは、露骨な安堵と歪んだ優越感だ。
エルレアはスープを一口だけ含み、鉄の味がするそれを飲み干すと、無表情のままスプーンを置いた。
「奥様、お客様がお見えです」
使用人の声に、継母がぱっと表情を明るくする。
「ちょうどよかったわ。エルレア、きちんとご挨拶なさい」
それから侍女たちへ顎をしゃくる。
「――コルセットを」
「は?」
次の瞬間、背後へ回った侍女たちが、容赦なく紐を引いた。
「っ、……!?」
肺が潰れるような圧迫感。息を吸うたび肋骨が軋む。
「ちょ、っと……締めすぎ……」
「我慢なさい。みっともない身体を矯正するのも、淑女教育のうちです」
継母は涼しい顔で微笑んでいた。
魔力を封じられている今、身体強化による防衛も叶わない。
エルレアは意識が白濁しそうな苦痛の中、細く長く、汚濁を吐き出すように息を継いだ。
(……この貸し、利息だけで家が潰れるまで膨らませてやるわ)
内心で静かに、そして苛烈に誓いながら、エルレアは呼吸を整えて応接室へと足を進めた。
応接室へ入った瞬間、エルレアの眉が不快感にぴくりと動いた。ソファに浅く腰掛け、下卑た笑みを浮かべていた男――。
「久しぶりだな、エルレア」
ブライアン。父方の従兄弟であり、幼い頃から魔力の強いエルレアを疎み、陰湿な嫌がらせを繰り返していた卑小な男だ。
他人を見下し、自分より弱い相手をいたぶる時だけ機嫌が良くなる顔も変わらない。
「……何しに来たの」
「そんな警戒するなよ。可愛い従妹が帰ってきたって聞いたから、顔を見に来ただけだ」
ブライアンの視線がエルレアの腕に固定され、満足げに口角が吊り上がった。
「ちゃんと効いてるみたいだな。その魔封じ」
エルレアの目が細まる。
「……あんたなの」
「ああ、アストレイン夫人に頼まれてね。特注品だよ。お前みたいな『凶器』を大人しくさせるには、普通の拘束具じゃ足りないからな」
愉快そうに笑いながら、ブライアンは懐から小袋を取り出した。そして、中身をテーブルへぶちまける。
カラン、カラン、と澄んだ音が響いた。
卓上にぶちまけられたのは、高純度魔石。それも、かなり質がいい。エルレアの視線が反射的に吸い寄せられる。
その瞬間、ブライアンは嗤った。
「ひひっ、やっぱり反応した」
獲物を見つけたハイエナみたいな目だった。
「金が欲しいんだろう? 街で這いつくばって小銭を稼いでた君には、これが何よりのご馳走だろ」
ブライアンは指先で魔石を弄び、わざとらしく陽光に透かしてみせた。
「いいぞ。俺の言うことを聞くなら、食べさせてやっても」
その時――部屋の隅で従者として静止していたネムから、不意に気配が消えた。
肌を刺すような冷たい魔圧が室内に満ち、燭台の火が、恐怖に震えるように揺れる。
エルレアがハッと視線を向けると、ネムのアメジスト色の瞳が、爬虫類のように細く、鋭く、縦へ裂けていた。
ブライアンは気づいていない。だが、エルレアには痛いほど伝わって来た。
(あ、これ本気で殺す気だ)
エルレアはネムへ視線を固定したまま、ごく微かに首を振る。
(手を出すな、ネム。……まだ『清算』の時じゃない)
無言の制止。ネムは黙ったまま目を細めたが、その唇に浮かんだ笑みは、いつもの気怠げなものではない。
標的の喉首を噛みちぎる瞬間を、愉悦の中で待つ獣の貌だった。




