第29話 契約完了、撤収――のはずが、視界が歪む
昼下がりの陽光は、不気味なほど穏やかだった。
エルレアはアストレイン家の門前に立ち、静かに屋敷を見上げる。
小ぶりながらも古い格式を感じさせる屋敷。だが、その空気は彼女が知るものより、どこか濁っていた。
重厚な門の呼び鈴へ手を伸ばした瞬間、指先に絡みつく魔導結界の気配に、ネムがわずかに目を細める。
「……へぇ。無能な父親のくせに、『結界』だけは随分と金をかけたみたいだね」
ネムがひどく低く、気怠げに笑う。
聖属性を帯びた神代の結界術。
力を削がれた今のネムにとって相性が悪く、主の明確な命なしに迂闊に本来の魔力を放てば、“夢魔”としての存在ごと結界に炙り出されかねない術式だ。
その気鬱そうな横顔に気づくこともなく、エルレアは不敵に口角を吊り上げた。
「そりゃあ魔導士の家系だもの。当然でしょ」
魔道具を鳴らして出てきたのは、エルレアの知らない使用人だった。
女は、実用一点張りの旅装束に身を包んだエルレアを上から下まで、ゴミを見るような目で値踏みする。
しかし、その背後に控える、暴力的なまでに目を引く美貌の従者――ネム――を視界に入れた瞬間、その目が卑屈な好奇心に揺れた。
「……どちら様でしょうか?」
「エルレア=アストレインよ。不当な『回収依頼』を受けて来てあげたと、父に伝えて」
エルレアが投げ出すように依頼書を差し出すと、使用人は冷たい手つきで彼女を中へと導いた。
「ああらぁ、お義姉様じゃなぁい? 少し見ない間に、すっかり下賤な野良魔導士の姿がお似合いになりますわねぇ」
背後から突き刺さる甲高い声に、エルレアは盛大なため息をついて足を止めた。
振り返れば、案の定、義妹のジェシカが分不相応に高価な――そして驚くほど似合っていない――ドレスを膨らませて、取りまきの令嬢達とふんぞり返っている。
「あら、その布切れ、維持費だけは高そうね。宝石のカットが甘いわよ、二流ね」
「なっ……! お義姉様、下品な所は相変わらずですわね!だいたい、その男はなんです!? 未婚の令嬢が色男を囲うなんて、はしたないにも程がありますわ!!」
憤慨しながらも、ジェシカと取り巻きの令嬢たちの視線は、磁石に吸い寄せられる鉄屑のようにネムへ釘付けになっていた。
エルレアはネムの顎をクイと持ち上げて見せた。
「ああ、コレ? ただの『債務者』よ。私の貴重な魔石を不当に消費したお詫びに、こき使っているの。……ほらネム、荷物を持ちなさい。一歩歩くごとに、利息を銀貨一枚分負けてあげるわよ」
「えー、雑だなぁ。……でも、お嬢様の言うことなら仕方ないね」
ネムは、あえて甘く蕩けるような微笑をジェシカたちに振りまいた。
彼女たちが頬を染め、息を呑むのを横目に、ネムは「忠実なしもべ」を演じながらエルレアの後に続いた。
通された応接室は、以前よりも悪趣味な装飾で塗り固められていた。
エルレアは、ため息を吐きながら出されたティーカップに指を添えて、口へ運ぶ。
ネムの視線が一瞬だけ茶へ落ちた。
「……それ、飲むんだ」
ネムの低く沈んだ呟きと同時に茶を一口啜れば、顔を顰めるほどに渋い。
「エルレア、やっと来たか」
ノックもなしに現れたのは、顔だけが取り柄の無能な父と、扇子で口元を隠した義母だった。
父はソファに沈み込むなり、挨拶もなく一通の釣書を卓上に叩きつける。
「ディートリヒ=フォン=エヴァンス伯爵だ。新興の商団を率いる若き天才実業家。魔導研究に理解が深く、お前に白羽の矢を立てられた」
「魔塔を追放された訳あり物件でも構わないとおっしゃる奇特な方ですわ。光栄に思いなさいな」
義母の扇子の下で、歪んだ失笑が漏れる。
エルレアは釣書を一瞥した。整ってはいるが、どこか作り物めいた、底の知れない男の肖像がそこにあった。
「……で、お母様のブローチは? 商談は現物を見てからよ」
「おい、父に対してその態度は何だ! ふん、リリアーヌそっくりで可愛げのない……」
エルレアの瞳の奥に、凍てついた怒りの光が宿る。
彼女がすっくと立ち上がろうとすると、父は忌々しげに舌打ちをし、ポケットから『銀細工のオルゴールブローチ』を乱暴に放り出した。
鈍い銀色の光が、卓上で小さく跳ね、エルレアは息を止める。
母の膝の上で何度も眺めた繊細な細工。
蓋を開けずとも、リリアーヌの魔力を帯びた琥珀色の残滓が、微かに、だが確かに震えていた。
エルレアは震える指先でそれをひったくるように掴むと、ブローチからわずかな熱を感じた。
彼女はそのまますぐに鞄の奥底へ押し込んでいく。二度と、誰の手にも触れさせないために。
「現物の確認は終わったわ。じゃ、商談は終了よ」
「……は?」
今度こそ立ち上がったエルレアを、父はぽかんとした顔で見る。
「依頼内容は“帰還せよ”だったわね。私は帰還した。報酬も受け取った。はい、契約完了。撤収よ」
「なっ、約束が違うぞ!」
バンッと、威圧するようにテーブルを叩くが、エルレアは微塵も怯まない。
「婚姻儀礼? 知らないわね。依頼書に“強制参加”なんて文言、一文字もなかったもの。法的拘束力はゼロよ」
エルレアは勝ち誇った笑みを浮かべ、くるりと踵を返した。――その瞬間だった。
「……エルレア」
ネムが、ひどく低い、冷え切った声を出した。
アストレインの結界内に「客人」として在る以上、主の明確な命令なしに魔力を振るえば、結界に弾かれ実体を保てなくなる。
彼は膝の上で固まった手を、苛立ちを押し殺すように強く握りしめた。
「え?」
視界が不自然に揺れ、床が顔に向かって迫ってくる。
手から力が抜け、予備の魔石が甲高い音を立てて転がっていった。
「……お茶」
義母の、愉悦に満ちた笑い声が聞こえる。
「ようやく効いてきたようですわね。魔力循環を強制停止させる『静寂の毒』が」
「貴族令嬢ともあろう者が、出された茶を無警戒に飲むとは。教育の行き届いていない娘だ」
(――まずい。父の無能さに、油断してた……っ)
朦朧とする視界の中、ソファに座ったままのネムが映った。
彼はいつもの気怠げな顔で、だがそのアメジストの瞳だけは鋭く細めながら呟く。
「……だから言ったのに。エルレアって、お母さん絡みになると、びっくりするくらい隙だらけだよねぇ」
ネムの声は、己の制約への苛立ちを隠すかのように冷たく、乾いていた。
「その男は客人として大人しくしてもらう。……エルレア、お前は明日、あの伯爵に差し出す『商品』になれ」
急速に遠のく意識の中、ネムは咄嗟に手を伸ばしかけ――だが途中で止め、倒れ込んできたエルレアをその胸元で静かに受け止めた。
最後に見えたのは、彼女を抱き留めたネムの瞳。
そこには愉悦とも、諦めでもない、ひどく静かな光が揺れていた。




