第15話 物価高騰につき魔導士休業?〜悪徳商会と巨大な財布の狙い方〜
エルレアは、愕然として立ち尽くした。
「……は? 銀貨三枚の石が、なぜ銀貨三十枚になってるの? 貨幣価値の崩壊かしら?」
目をこすり、何度金額の桁を数え直しても、非情な現実に変わりはない。指先ほどの低級魔石ですら、今や小国の国家予算みたいな面構えで並んでいる。
「最近、貴族様たちが魔石を買い占めててな。魔石を燃料にする魔道具の香炉? そんな類が流行ってるせいだよ」
魔石屋の店主は、需要と供給のバランスが崩壊した市場を楽しんでいるかのように、悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「あ……なるほど」
急にネムが神妙な顔をし出した。
「何よ?」
「……エルレアがこのまま魔石魔法が使えなくなったらさ……」
ネムは気づいてしまった真実に口ごもりながら、意を決したように言葉を続ける。
「……ただの口うるさい銭ゲバになっちゃうんだね」
「だまらっしゃい! この不良資産!」
不名誉な真実を口にしたネムを、エルレアは肘鉄で黙らせる。
(……とはいえ、笑い事じゃないわ。手持ちの魔石は底をつきかけてるし、この居候から無理やり搾り取れる魔力結晶にも限界がある……)
エルレアが最悪の収支報告書を突きつけられたような顔で逡巡していると、魔石屋のドアが悲鳴を上げるような勢いで開かれた。カランカランと、けたたましいベルの音が店内に響く。
「魔石……魔石を……早く出してくれ……ッ!」
肩を上下させ、狂気に駆られた目で飛び込んできたのは、身なりの良い恰幅な男だった。
仕立ての良いシャツは皮脂と脂汗で汚れ、髪は鳥の巣のように乱れている。何より、その目の下の隈は、グレイのそれよりもずっと禍々しい色に沈んでいた。
「こ、この店の魔石を、すべて、私が買い取る! すぐに、今すぐにだ……!」
男はカウンターへ駆け寄ると、震える手で金貨をぶちまけた。カウンターを転がる黄金の音が、虚しく店内に響く。
「あー……ハリス子爵。悪いが、うちの在庫はこれで全部だ」
店主が面倒そうに差し出した箱には、欠けた低級魔石がわずか五つ。
「……っ! 隠しているんだろう!? この私、ハリス子爵がわざわざこんな裏路地の汚い店まで足を運んでやったんだぞ!」
血走った目で店主に詰め寄る姿に、かつての貴族の矜持など微塵もない。
「いらないならお引き取りを。代わりを欲しがっている顧客なら、外に列を作ってるんでね」
「ち、ちっ……! いらないとは言っていないだろう!」
ハリスは金貨を叩きつけるように置き、魔石を奪い取ると、取り憑かれたような足取りで店を去っていった。
ドアが軋んだ音を立てて閉まり、不快な熱気が引いていく。
「はぁ、最近はあんな客ばっかりさ。ありゃ、あー、そうそう『夢香炉』の重度依存症患者だな」
店主がため息をつき、放り投げられた金貨を一枚ずつ丁寧に検品し始める。
「ねえ、店主さん。その『夢香炉』って、一体何なのよ?」
「俺も詳しくは知らねぇが、天使様がどんな欲望も快楽も叶えてくれるんだとさ。現実以上に『生きてる実感』が得られるらしいぜ」
「ふぅん……理解に苦しむわ。私は夢の中で天使を拝むより、現実でお金様の感触を味わっている方が、よっぽど生きてる実感が湧くけれど」
「……あ。隣に本物の夢魔がいることをお忘れなくー」
小声でアイデンティティを主張するネムを完全に無視して、エルレアは店を出る。
彼女の脳内では今、ハリス子爵という「腐りかけの巨大な財布」と、そこから流れ出る金の行先が、鮮やかな損益計算書として描き出されていた。
「何なのよ、この依頼のラインナップは……!」
次に訪れたギルドの依頼掲示板の前で、エルレアは再び愕然とした。
張り出されているのは、猫も杓子も魔物討伐――それも「魔石の納品」が条件のものばかりだ。
「いつからギルドは魔石採掘会社になったのよ!」
魔石を消費して魔法を放つエルレアにとって、今や銀貨三十枚にまで跳ね上がった魔石を燃料に使うのは命取りだ。
魔物を一匹狩って手に入る低級魔石よりも、仕入れ値のほうが圧倒的に高い。そんなの、利益の出ない最悪の自転車操業だ。
「……あれ、見てよエルレア。依頼主が全部同じだ。『黒銀商会』って書いてあるね」
「黒銀商会? 聞いたこともないわ。新興勢力の乗っ取りかしら」
エルレアが不快そうに眉を寄せると、ネムが退屈そうにその先の条項を読み上げた。
「えーっと……『討伐した魔物の魔石は、黒銀商会が市場価格の七割で買い取るものとする』だってさ」
ネムが読み上げた項目の下に書いてある、悪意すら感じる非常に小さな注意書きを、エルレアは見落とさなかった。
「ちょっと待って。鑑定料・運搬料・安全管理費は買取価格より差し引くものとする!? 暴利だわ。これはビジネスじゃない、ただの略奪よ!」
さらに、『※魔石品質により価格変動あり』の文字すらある。
魔石や魔獣素材は、毒や呪い、偽物まで紛れ込む厄介な代物だ。だから本来はギルドや然るべき機関での鑑定が必須で、無許可取引は御法度。
――結局のところ、冒険者は正規ルートに縛られるしかない。そういう“仕組み”を作られている。
エルレアが、商圏を荒らされた野良猫のように毛を逆立てていると、ギルドの重い扉が軋みながら開いた。すえた空気に不似合いな、場違いなほど爽やかな風が吹き込む。
入ってきたのは、長身に薄暗い色付きの認識阻害眼鏡をかけた、いかにも「訳あり」なオーラを放つ男だった。
男は迷いのない足取りでエルレアへ歩み寄ると、その目の前でピタリと足を止めた。
「……どちら様? 悪いけど、いま私は市場独占のクソ商会にキレているところよ。物乞いなら他を当たりなさい」
「僕だよ。僕」
「その手の詐欺はもう古典芸能の域だわ。出直しなさい」
「違うってば!」
男が眼鏡の端を少しずらすと、認識阻害の術式が解け、霧が晴れたようにその美貌が露わになった。
「なんだ、カイルか。紛らわしいわね! 認識阻害を使うなら、声をかける前に解除しなさいよ。私の思考リソースがもったいないわ」
「悪かったよ……。それより君、魔石の流通の件で困っているんじゃないかと思ってね」
エルレアの肩がぴくりと揺れる。
「……詳しく、聞かせてもらおうかしら?」




