第14話 宵闇に舞う白い羽根と、濾過された魂
意識が明滅し、膝が折れかけたその時。――空間が凍りついた。
「あーあ、だから言ったのに。ゴミを甘やかすからこうなる」
夕闇を切り裂くようなネムの冷ややかな声と共に、暴力的とも言える魔圧が空間を圧した。捕食する者の威圧に、影のカイルがヒュッと喉を鳴らして怯む。
影が解けた一瞬の隙に、エルレアはドレスの裾を蹴散らし、泥臭く地面を転がって距離をとった。
同時に、本物のカイルが躍り出る。
その手に握られたナイフ型魔道具が、光の鎖を纏って放たれ、影を地面に縫い留める。
自身の影魔法をすり抜ける可能性を考慮し、あらかじめ用意していた光属性の武装だった。
「……僕の姿で彼女に触れるなんて。万死に値するよ」
カイルの瞳には、アイドルとしての光など微塵もない。吐き捨てられた声は、それ自体が呪詛のように重い。カイルは自分の内面を具現化したような醜悪な怪物を、嫌悪も露わに睨みつけた。
「愛、なんて……効率なエネルギーで、私のクライアントを汚さないでくれる?」
エルレアは乱れた呼吸を整え、獲物を狙う鷹の目で魔石を構え直した。
手の甲に刻んだ魔術印が熱を持ち、首筋の刻印が鈍く疼く。
「アンタが食べてるのは愛じゃない。こいつが営業用に吐き出した『ただの魔力のごみ』。賞味期限切れの残飯に執着してんじゃないわよ……この、産廃!」
瞬間、エルレアの魔石が弾け、光の奔流が思念体を飲み込んだ。
影は細い悲鳴をあげ、自らの拠り所にしていた「偽りの愛」ごと空気に溶けて霧散していく。
概念ごと叩き壊された怪物は、質の悪いどす黒い魔石の欠片となって転がった。
かつてカイルの私物を奪い、彼を苦しめた怪物の成れの果てを、エルレアは冷めた目で見下ろす。
「査定終了……価値無し!」
冷たく言い放つと、彼女は最高級のヒールで、かつて人々を恐怖させた怪異の核を、ただの『産廃』として無慈悲に粉砕した。
足を上げると、砕けた魔石の破片に混じって、一枚の薄汚れた白い羽根が虚空を舞った。その瞬間、エルレアの瞳からギラついた金欲の色が引いていく。
……まるで、深淵を覗き込むような冷たい無表情。それはカイルすら知らない、彼女の本性だった。
――エクス。
その呟きは、宵闇の風に溶けて消えた。
「エルレア、大丈夫かい?」
駆け寄ってきたカイルの顔は、すでにいつもの『僕』に戻っている。
エルレアは即座に無表情を剥ぎ取り、用意していた紙をその鼻先に突きつけた。
「はい、請求書。今回の残業代とドレス代、締めて金貨50枚よ」
いつもと変わらない――あるいは、あえていつも通りに振る舞うエルレアに、カイルが苦笑する。
「いいよ。またデートしてくれるなら、次は倍払おう。……金で君を縛れるなら安いものだ」
余裕の王子スマイルで揶揄うように返す。
だがその言葉に含まれた「本気」の重さに、エルレアは背筋に微かな震えを感じた。
「……くっ!セレブめ……!」
何だか負けたような気分になった。
けれど、悔しさを飲み込み、エルレアは不敵にほくそ笑む。
(……次は、金貨100枚分、たっぷり搾り取ってやるんだから!)
彼女は次の商談を脳内演算しながら、夜の庭園を後にした。
「……全く、高くついたわ。精神的な慰謝料も上乗せしておけばよかった」
カイルの執務室から出ると、エルレアは懐の金貨袋の重みを確かめながら、不機嫌そうに、けれど足取りは軽く、王宮の裏門へと続く回廊を歩いていた。
その後ろを、いつものように眠そうにネムがついていく。
カイルはジーンとの事後処理――つまりは「王子と謎の女の密会」というスキャンダルの火消しに追われており、二人を見送る余裕はなかった。
「ねえ、エルレア。あいつ、最後の方は結構本気だったね」
ネムが欠伸をしながら、何気なく呟く。
「あいつって? カイルのこと? ……まあ、あいつは昔から完璧主義の小姑だもの。演技にも力が入るんでしょ」
「ふーん。……『演技』か。君、意外と鈍いよね」
ネムの冷めた視線が、エルレアの首筋に刻印された銀色の痕跡を掠める。
エルレアは気づいていない。
カイルがあの思念体に苦しめられた際、彼女がカイルに流し込んだ「強欲な魔力」が、一時的に彼の記憶の封印を激しく揺さぶっていたことに。
「……あ、ネム、先に行ってて。忘れ物したかも」
「えー? 早く帰って寝たいんだけど……」
「いいから! 宿代の分は働きなさい!」
エルレアが小走りにカイルの部屋の方へ戻っていく。彼女が角を曲がり、完全に姿が見えなくなったその時。
ネムの瞳から、やる気のない光が完全に消えた。
彼は誰もいない廊下の闇に向かって、そっと指を鳴らす。
「――おいで、迷子くん」
すると、先ほど消滅したはずの思念体。その“燃え残り”のような黒い澱みが、廊下の影から這い出し、ネムの足元で震えながら形を成した。
それはカイルの姿ではなく、形を保てないドロドロとした『恐怖の塊』。そしてその輪郭は、ネムの肌をちりちりと灼く、忌々しい白銀の光芒を微かにまとっている。
「君はカイルの一部でありながら、あの『審判の天使』……エクスの聖属性と共鳴しちゃったんだね。……かわいそうに。そんな不純物が混じったままだと、彼の『魂の味』が落ちちゃうじゃないか」
ネムは慈愛に満ちた、けれど心底冷徹な微笑を浮かべ、その影の塊を素手で掴み上げた。
ジ、と肉が焦げるような音がして、ネムの指先から紫煙が上がる。聖属性の拒絶反応。
だがネムは顔色ひとつ変えず、手のひらから溢れ出させた漆黒の魔力で、その汚染を文字通り『濾過』していった。
肉体の傷も、壊れた人生も治せない。ネムに触れられるのは、“魂の濁り”だけだ。
「……しーっ。あの子にバレたら、僕の三食昼寝付き生活が終わっちゃう。……だから、これは僕からのサービス。あの天使を撃ち落とすための、ちょっとした仕込みさ」
ネムは、濾過した後の「澄んだ魔力の雫」を、カイルが今いるであろう方向へ向かって、指先で弾き飛ばした。
それは物理的な距離を無視し、カイルの胸の奥――記憶の最深部にある『檻』へと吸い込まれていく。
その瞬間。
執務室で書類を整理していたカイルの手が、ぴたりと止まった。
「……、……あ」
カイルは締め付けられるような痛みを覚え、胸元を押さえた。窓に映る自分の姿を見ると、冷たい魔力の濁流を放っていた胸元の不吉な刻印が、浄化された煙のように引いていく。
同時に、脳裏の霧が急速に晴れ、強烈な色彩が戻ってくる。それは救済の光というよりは、傷口に突き刺さる冷たい針のようだった。
――地下十四階層の、血の匂いが混ざる実験室。
伸ばされた白い手と、感情を魔力に変換する巨大な装置。あの暴走の光に巻き込まれ、自分の記憶と魔素がぐちゃぐちゃに混ざり合っていく恐怖。
その地獄の中心で、自分よりもずっと小さかった彼女が、震える手を強く握りながら、濁りのない瞳で笑っていた。
『いい、カイル? 絶望なんてタダでも要らないわ。……生き残って、利息をたっぷり付けてあいつらに返してやるのよ』
五年前、世界への強欲だけを武器に立ち上がった、僕の――。
「……エル……レア……」
カイルは椅子から崩れ落ちるように膝をついた。バラバラと音を立てて、机から滑り落ちた書類が舞う。
今まで「何となく気になる、放っておけない元同僚」だと思っていた感情に、どろりとした、正体不明の熱が混ざり始める。
それは恋情ではない。まして忠義などという綺麗な言葉でもなかった。
もっと濁っていて、もっと救いがない。
五年前、彼女がすべてを奪われたあの実験を止められなかった、自分の無力さへの怒り。
そして、「彼女を失ったままでは終われない」という、忘却の檻を突き破った呪いじみた衝動だった。
「……思い出、した……。僕は、あの日……君に……」
カイルの瞳に、薄明のような青い光が宿る。
――戻ってきたのは、ほんの断片。
けれど、それで十分だった。
実験に歪められ、ネムに濾過された魂。
その色は、彼女の敵を追い詰めるためなら、神の結界を裏切り、いかなる闇にも手を染める執行官のそれへと、深く、深く沈んでいった。




