第13話 世界一高価な『無料』と、都合のいい『タダ』
案内されたのは、王族専用テラス席だった。
記者達からは見上げるような位置にあり、会話の内容はおろか、絶妙な距離で顔の判別も出来ないだろう。
(……そう。下からは、親密そうに囁き合う二人のシルエットだけが見えていればいいのよ)
謎の女性が王子を独占していると見せつけて、嫉妬をあおるには絶好の場所だ。
「ここ、王城がよく見えるのね……風が気持ちいいわ」
サングラスを外したエルレアの耳元に、カイルの指先が触れる。そのたびに、微かな熱を持った魔力が肌を焼き、所有印を刻みつけていくような、静かな執着に満ちていた。
「君が望むなら、あそこに住むかい? ……一緒に」
その声は、耳元で奏でられる子守唄のように甘く――けれど、エルレアの魂を、王城という名の巨大な檻へ未来永劫繋ぎ止めかねない、重い鉄の呪いを孕んでいた
(偽装、デート……よね……? 演技にしては、アンタの目、底暗すぎて笑ってないわよ)
どきりと跳ねた鼓動を「これは恐怖よ、断じてときめきじゃないわ」と脳内で強引に『経費』の項目へ仕分け、エルレアは強気な笑みを貼り付けた。
「あら、それもいいわね」
甘い雰囲気を偽装していると、風にまぎれて「アイシテル……」と湿った不気味な声が再び聞こえてきた。
「……ひっ!」
カチャカチャと指が滑りそうな程にグラスが鳴る。
エルレアは必死にメニュー表のワインリストを睨みつけ、その音を打ち消すように脳内で換算レートを弾き出し始めた。
「……金貨、三枚……ぶつぶつ」
(大丈夫、この一杯で金貨三枚分……恐怖より利益の方が大きいはずよ……!)
だが、グラスから伝わる乾いた音だけはどうしても止められない。
「ねえ、エルレア。さっきから計算が合っていないみたいだよ」
カイルがグラスを手に取り、優雅に香りを楽しみながら言った。
「この店のグラスは一個で金貨五枚。もし君が震える度にそれを割ったら、僕の帳簿に『エルレアへの貸し』が積み重なっていくんだけど……気づいてる?」
「なっ……! アンタ、この状況でそんな細かいこと……っ」
「君がいつも僕に言ってることだよ。……ほら、そんなに怖いなら僕の手を握ればいい。それは『無料』で貸してあげるから」
カイルの指先が、エルレアの震える手に触れる。
『無料』。この世で一番高価で、一生かけても返せない『貸し』を、カイルは今、甘い顔で押し付けようとしていた。
余裕の笑みを浮かべるカイルの瞳が、獲物の反応を待つように妖しく光った。
「……あーあ。あんなに愛を振り撒いて、また思念体を大きくしちゃって」
物陰から様子を見ていたネムは、冷めた目線で、漂ってきた思念体の一部を掴み、握りつぶした。
「愛、ねぇ? ……あんな薄っぺらい魔力を餌にするから、こんな不味いバケモノが育つんだよ。ねぇカイル。君が本当にエルレアに差し出すべきなのは、もっとドロドロした『呪い』の方じゃない?」
ネムは心底退屈そうに息を吐き出すと、気配もなく暗がりへと消えていった。
夕方になり、王宮へ馬車で向かった。
「……はい、これ。流石に王宮にまで持ち込むのは、私の心臓に悪すぎるわ」
いくらなんでも、国宝級ブローチを子爵令嬢ごときがつけているわけにもいかず、引きちぎらんばかりの未練と共にカイルに差し出した。
けれど、カイルはその手を優しく包んで押し戻す。
「持っていなよ。……またあの『ゴミ』が君を狙わないとも限らない」
「でもこれ、王家の秘宝なんでしょう?」
「ああ。だから、失くしたり売ったりしたら大変なことになる。……一生、僕が君のそばで監視し続けなきゃいけないくらいにはね」
普段はエルレアに効果のないはずのカイルの完璧な微笑は、今は金貨のように黄金に輝いて見えた。
(……タダより高いものは無いっていうけど、これは高すぎて逆にタダみたいなものかしら?)
論理の破綻に気づかないふりをして、エルレアは優雅な令嬢の微笑みを浮かべた。
「そう、じゃあ厳重にしまっておかなきゃいけないわね。あ、私にしか開けられない魔道具があるから宝物庫級に安全だから」
言いながら都合のいい解釈でちゃっかり懐に収めてしまう。
エルレアは案内された離宮の庭園で、着替えのために席を外したカイルを待っていた。
あたりを見回しながら、山のようにある金になりそうな高級品の数々に、エルレアの脳内査定はフル回転していた。
(あの彫像、純銀製かしら。……こっちの噴水の魔石、剥ぎ取ったら幾らになるかしらね)
欲望という名の金額査定に没頭していた、その時。
「エルレア。……待たせたね」
甘い、聞き慣れた声。けれどその温度は、夕闇に沈む庭園の空気よりもずっと低かった。
「あ、早かったわ、ね――」
振り返るより早く、カイルがエルレアとの距離を詰めた。カイルの整った顔が眼前に迫る。
そのまま、熱っぽい陶酔を孕んだ指先が、彼女の細い喉を慈しむように、そして逃がさないように――強く締め付けた。
「な……っ、うぐっ!?」
(……こいつ、カイルの姿をした思念体か……!)
喉を締め上げられながら、エルレアは懐のブローチを握りしめた。だが、王家の秘宝は冷たく黙り込んだままだ。
(……どうして!? 不浄を退けるんじゃなかったの!?)
必死に抵抗しながら、エルレアは戦慄と共に悟った。
(そうか……! こいつがあまりにカイルの執念を濃く引き継ぎすぎているせいで、魔道具が『守るべき主人』の一部だと誤認しているんだわ!)
皮肉にも、彼女を守るはずの盾が、カイルの愛の深さゆえに機能を放棄していた。
「アイシテル……エルレア……モウ、ニドト、二度と、逃がさない。君を金貨に変えて、僕の宝物庫の奥で永遠に閉じ込めてあげる…………」
カイルの甘い声に、地を這うような死者の執念を混ぜ合わせた悍ましい響き。
さらに影の締め付けが強まり、魔石魔法を練るための思考が白濁していく。
首筋に絡みつく指先は、冷たい泥のようでありながら、万力のような力で逃げ道を塞いでいた。魔道具はそれを『主の愛撫』と判断したのか、無機質な沈黙を保ったままだ。
視界が火花を散らす中、エルレアは必死に手を伸ばす。魔石を掴もうとする指先が、影に触れた。氷のように冷たいのに、伝わってくる執念だけが、心臓を灼くように熱かった。
「……ぐ……残飯の……くせに……っ」
喉を締め上げる指の冷たさを、憤怒という名の熱量で強引に上書きする。
(……ドレスのクリーニング代、アンタに請求してやるわよ!)




