第10話 元同僚の王子の結界に潜入したら、正体バレと同時に「影の異常事態」が発生しました
撮影に熱が入り始めた頃、エルレアはその場を離れた。その隙にカイルの個人控室を見つけだす。
結界が張られているため、不用意には開けられないが、ジーンから預かった魔法鍵を使えば問題はない。
早速、その部屋の扉を開けると、エルレアは息を呑んだ。
「……相変わらず、神経質なくらい丁寧な術式ね。無駄がないわ」
部屋には、三重の防御陣が隙間なく張り巡らされ、濃密な魔力の檻が築かれている。
エルレアはそれを見ながら、顎に手をあて、首を傾げた。
「これを通るなら、物理的に魔塔を半壊させるレベルの魔力が要るわよね……」
かつての同僚の、魔導士としての腕前に感心しながらも、考えに耽っていた、その時。
「人の部屋で独り言とは。感心しないな」
背後から冷ややかな声がした。
振り返る間もなく、長い指がエルレアのサングラスに手がかけられた。
――その指先は、なぜか隠しきれない熱を持って微かに震えていた。まるで、五年という歳月の重みが、その指先にだけ零れ落ちているように。
「――隠せてないよ」
そのまま躊躇なく、ひょいとそれを奪い去った。
「あ……」
認識阻害が解け、深い琥珀色の髪がこぼれ落ちる。至近距離で、カイルの青い瞳がエルレアの翠色の瞳を射抜いた。
彼は無言のまま、壊れ物を確かめるようにエルレアの頬にかかる髪に指を伸ばし、そっと耳にかける。
「やっぱり。……潜入任務にしては、君の『がめつさ』はあまりにも分かりやすすぎるよ、エルレア」
「チッ。バレたなら仕方ないわね。挨拶は抜きよ、カイル。アンタの結界、完璧じゃない。これを通れる奴なんて――」
言いかけた言葉は、カイルの顔が間近に迫ったことで飲み込まれた。
カイルは目線を合わせるように少しかがみ、じっとエルレアの顔を覗き込んだ。一瞬だけ視線が熱をおびる。
「な、何よ」
カイルの澄んだ青い瞳が、心の奥まで覗くように真っ直ぐに向けられる。
魔塔時代には意識もしなかったが、改めて見ると、カイルの造形は暴力的なまでに整っている。
「……エルレア」
つややかな形の良い唇が吐息のように名前を呼び――
「……また、社畜スイッチ入ったでしょ」
(そっちは小姑スイッチ入ったわね……)
カイルの視線は、もはやエルレアの顔ではなく、彼女の目の下の隈や、今にも書類が雪崩を起こしそうなカバンに釘付けだった。
「はぁ、こっちは君が行方不明になってから心配してたのに……。君は、相変わらずだね」
呆れたようにため息を吐き、苦笑する。
「イヒヒ、お陰様で。カイルも随分と『高く』なったじゃない。時価、いくらよ」
「君こそ。随分と守銭奴に拍車がかかってるじゃないか、挨拶代わりに査定かい?……はぁ、もう。バッグ貸して。書類がさっきから落ちそうなんだよ」
「ああ!出たわね、世話焼きカイル!ちょっと……!」
カイルは手慣れた様子でエルレアのバッグを手に取ると、領収書と書類を迷いなく仕分け始めた。ついでにエルレアの乱れた髪を魔法で器用に整え直していく。
呆れた顔をしながらも、その指先はエルレアの髪に魔力を編み込むような、繊細で献身的な甘さを孕んでいた。
――その時、部屋の空気がわずかに震えた。
「!?」
エルレアは流れるような動作で魔石を構える。
隣にいるカイルの瞳もまた、溢れるような蒼い魔力の光を帯びていた。
直後、視界の端――カイルの机上にあった銀細工のペーパーナイフが、水に溶けるように音もなく消失した。
「! また……」
カイルが険しい顔をして辺りを素早く見回していく。その張り詰めた沈黙を破ったのは、ガチャリと遠慮なく開けられた扉の音だった。
「――ねえ。まだ難しい計算してるの?」
いつの間にか、撮影を終えたネムが部屋の入り口にふらりと立っていた。
「もう、マネージャーさんが居なくなっちゃうから、質問攻めでもうくたくただよ……」
「インタビューに答えるのも仕事のうちよ。で、ちゃんと追加ギャラの話はきちんとしたんでしょうね?」
「無茶言わないでよ……」
ネムはあくびをしながら室内に入り、迷いのない足取りで歩を進める。そしてカイルの足元――そこにある「影」を、靴の先で喉元を抉るように力強く踏み抜いた。
「ひゃうっ!?」
影から、女の悲鳴とも獣の咆哮ともつかぬ怪音が上がる。
同時に、カイルは自分の喉を強く押さえ、苦悶に顔を歪めた。
踏みつけられた影が、黒い泥のように盛り上がり、ネムの靴に絡みつこうと指のような形状に変化する。それはカイル自身の輪郭を歪に模しながら、音のない絶叫を上げているようだった
影は尚も「カイル……カイルゥ……」と、呪詛のような湿った声を漏らしている。
「……カイル。この部屋に、侵入者なんかいないよ」
ネムが踵で影を踏み躙ると、取り込まれていた魔力の残滓が火花のように飛び散り、空気に溶けた。
「君の完璧な結界をすり抜けて、君の一部を持ち去れる唯一の存在……。それが『何』か、君はもう気づいているはずだ」
「…………」
静寂が部屋を支配した。
部屋中の酸素が凍りついたような重圧。
カイルから放たれていた清廉な魔力が、一瞬で鋭利な冷気へと変質した。アイドルとしての『華』は消え失せ、そこにはただ、効率的に敵を屠るためだけに研ぎ澄まされた、魔塔の異端児が立っていた。
(……ああ、そうだったわね。こいつ、顔の良さで忘れられがちだけど、魔塔じゃ『触れるものすべてを凍らせる最悪の天才』って呼ばれてたんだった――)
カイルの伏せられた睫毛の奥から覗いたのは、慈愛の欠片もない、冷酷そのものの眼差し。
それはエルレアの貪欲な視線よりも遥かに鋭く、殺気を含んだ――魔導士の、真の眼光だった。




