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第3話 琥珀色の羅針盤、愛しき隣人



翠松町の朝は、海からの霧が松林を優しく濡らし、街全体を深い青の静寂に染め上げる。


「箸と匙」の店長であり、株式会社『箸と匙のあわいで』の代表取締役社長である咲良さくら 理人りひとは、この静謐の中で、屋上のペントハウスで目を覚ます。


理人の人生には、あまり公にしていない大切な「あわい」がある。


彼には、咲良彩代(さくらかよ / 29)という妻がいるのだ。


彼女は理人の会社とは別法人で、県内に7店舗のカフェ『ぷちかれん』を展開する若き実業家。


眼鏡をかけたキュートな風貌からは想像もつかないほど、彼女もまた「食」と「居場所」の力を信じる、誇り高きプロフェッショナルである。






その日、沙藤さとう 燈子とうこはランチタイムのピークの中で、目に見えない「焦り」に飲み込まれそうになっていた。


「沙藤さん、あちらのテーブルにお冷をお願い」


美歩のたおやかな声に「はい!」と答えた燈子は、急ぐあまり、客席のテーブルに置かれた年配の女性の、高価そうなシルクのスカーフの上に、数滴の水をこぼしてしまった。


「あ……! 申し訳ございません!」


燈子の顔から一気に血の気が引く。


女性は驚き、困ったように濡れたスカーフを見つめた。


取り返しのつかないことをした――。


燈子の指先が震え、心臓の鼓動が耳元でうるさく響いたその時、すぐ傍らに柔らかな気配が立ち現れた。


「奥様、大変失礼いたしました。大切なお召し物を濡らしてしまいましたね」


理人が、音もなく女性の横に膝をついていた。


その視線は燈子を通り越し、真っ先にお客様の困惑を優しく受け止めている。


その所作の一つひとつが、まるで舞台の上で計算されたかのように美しく、そして誠実だった。


「……あら。でも、これ、水だからすぐ乾くかしら?」


「いえ。幸い、私共が信頼している名取なとりという職人が、すぐ上の階で工房を構えております。彼ならシルクの修復も専門です。もしよろしければ、お食事の間に私がお預かりし、責任を持ってお手入れをさせていただけないでしょうか?」


理人は女性の目を見つめ、安心させるように穏やかに微笑んだ。


その澱みのない、それでいて押し付けがましくない言葉は、荒れた感情の波を鎮める不思議な調べがあった。


「あら。そこまでしてくださるの? でも、このままでは首元が少し寂しいわね」


「ご安心ください。パティシエが、工房で使う最高級の絹のクロスの予備を持っております。清潔なものです、一時しのぎにお使いください」


理人が美歩へ目配せをすると、すぐに白く美しい布が届けられた。理人の流れるようなフォローによって、不測の事態は一瞬にして「手厚いサービス」の場へと塗り替えられた。


女性が満足げに食事を再開したのを見届け、理人はようやく燈子の方へ向き直った。


カウンターの端まで彼女を促すと、そっと肩に手を置き、静かな声で言った。


「沙藤さん、大丈夫だよ。失敗は、新しい『えにし』の入り口なんだ。君が一生懸命だったことは、お客様にも、僕にも伝わっているから」


理人の言葉に、燈子はこらえていた息をようやく吐き出した。


「……すみません。私、もっとちゃんとやらなきゃって……」


「そんなに自分を責めないで。お客様に、最高のコンソメスープを一杯、店長からのサービスだと言って運んで差し上げて。彼女の心が、スープの温かさで完全に解けるのを一緒に見守ろう」


燈子は深く息を吸い込み、酒井が丁寧に仕上げた黄金色のスープを運んだ。


スープを一口飲んだ女性は、深く、心地よさそうに吐息をついた。


「……なんて美味しいのかしら。さっきの驚きも、この温かさを知るためのスパイスだったのかもね。店長さん、あなたの魔法にかかったみたいだわ」


「いえ。魔法を使ったのは、彼女ですよ」


理人がさらりと、燈子を立てるように言ったその瞬間。


燈子の肩が、びくりと小さく跳ねた。


彼女の指先がエプロンのポケットの中で一瞬だけ強く握りしめられ、瞳の奥に、本人にしかわからない鋭い光が走る。


だが、その反応はあまりに微かなものだった。


理人はすでに他のお客様のオーダーに耳を傾けるために顔を向けており、スープを味わう女性も、店主の気の利いたお世辞だと思って上品に微笑んでいる。


燈子の内側に生じた一瞬の「揺らぎ」は、誰にも拾われることなく、ランチタイムの賑やかな喧騒の中へと霧のように溶けて消えていった。


「一生懸命に運ぼうとした彼女の想いが、このスープの味をいっそう深めたのです」


理人はその後も、当たり前の接客技術の一部として、その言葉を慈しみ深く補足した。



夕暮れ時、琥珀色の空の下、店の前に一台の落ち着いたセダンが停まった。


車から降りてきたのは、丸い眼鏡をかけた小柄でキュートな女性、彩代かよだった。


「理人さん、お疲れ様! 今日はどうだった?」


「ああ、彩代。おかえり」


理人の表情が、経営者の鋭い顔から、一人の男の柔和な顔へと溶けていく。


彩代は最近ハマっているアイドルグループ「PMI」の曲を小声で口ずさみながら、燈子に元気に挨拶した。


「初めまして、燈子ちゃん! 理人さんから聞いてるよ、輝き度抜群の新人さんだって。私も負けてられないな。私のカフェでも、燈子ちゃんみたいな子が欲しいくらい!」


彩代の明るいエネルギーは、一瞬で店内の空気をさらに温かく塗り替えた。


彼女は理人と並んでカウンターに座り、お気に入りの本を開きながら、みほが淹れたハーブティーを楽しむ。


理人は妻の隣で、静かに一日の反省を終えた。失敗を拒絶するのではなく、それを美しい物語の序章へと変える。


それが『株式会社 箸と匙のあわいで』の、そして咲良理人の生きる道なのだ。


燈子は帰路につく道すがら、自分の掌が、昼間の焦りとは違う、柔らかな温度に満ちているのを感じていた。


翠松町の夜空に、またひとつ、星が瞬いた。

第3話をご覧いただき、ありがとうございます。


理人店長の最愛のパートナー、彩代かよさんが登場しました。


彼女が持ち込む『ぷちかれん』の陽だまりのような明るさは、琥珀色の静寂に包まれたこの店にとって、欠かせない調律の役割を果たしています。


今回、理人がさらりと口にした『魔法』という言葉。


それにびくりと反応した燈子の指先には、誰にも言えない孤独と秘密が宿っています。


失敗を『えにし』に変えてしまう理人の優しさが、彼女の頑なな心を少しずつ解きほぐしていく……そんな『あわい』の時間を、これからも大切に描いていければと思います。


次回は、寡黙なピザ職人・ニノマエくんが登場します。


彼の守る『聖域』で起きる、ささやかな事件とは。


どうぞ、また箸と匙にお立ち寄りください。

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