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第4話 揺れる焔(ほのお)、沈黙の守護者



翠松町の空が、昼と夜の「あわい」である薄群青うすぐんじょうに染まる頃、『箸と匙』の店内には薪がぜる心地よい音が響き始める。


この店の象徴的な風景のひとつが、ピザ場に立つにのまえ さくの姿だ。彫刻のように整った横顔、白皙の肌に映える黒いエプロン。


彼が焼くピザは、翠松町のみならず遠方からも客を呼ぶほどの絶品であり、その端正な容姿から、彼を目当てに訪れる女性ファンも少なくない。


その日、ピザ場の前には数人の女性客が集まり、熱心に彼の動きを見つめていた。


ニノマエはASDの特性上、他者の視線や予期せぬ接触に強い緊張を覚える。


通常であれば、ホールの美歩や華純かずみが、彼の周囲に「聖域」のような穏やかな境界線を引き、集中を乱されないよう細心の注意を払っている。


しかし、その瞬間に限って、美歩は急ぎの電話対応でオフィスへ、華純は大量のオーダーを運ぶためにバックヤードへと席を外していた。魔の悪い「空白」が生まれた瞬間だった。


「ねえ、ニノマエくん。こっち向いて! 一緒に写真撮ってもいいかな?」


一人の女性が、高揚した声と共にスマホを手に取り、境界線を越えて彼の至近距離まで踏み込んだ。


「……っ」


ニノマエの指先が、目に見えて震えた。生地を伸ばす淀みのないリズムが狂い、彼の瞳から光が消え、視線が泳ぎ始める。


彼にとって、心の準備がないまま他者が「パーソナルスペース」に侵入してくることは、静かな湖面に巨大な岩を投げ込まれるほどの衝撃だった。


女性客は彼の困惑に気づかず、さらに距離を詰めようとする。


直後、戻ってきた美歩が「お客様、申し訳ございませんが……」とたおやかに、かつ毅然と割って入ったが、彼の中に生じた「不穏」は、すでにおりのように沈殿してしまった。


その後、ニノマエの調子は戻らなかった。



ピザを焼く動作はかろうじて維持しているものの、彼の呼吸は浅く、普段なら決して行わないような不安定な薪の調整を繰り返していた。


燈子はカウンターの隅から、その危うい空気を感じ取っていた。


ニノマエの周囲だけ、時間が歪んでしまったかのような違和感。

彼が窯の奥の薪を激しく突いたその時、激しい上昇気流と共に、無数の真っ赤な火粉が舞い上がった。


それは、まるで意志を持った蛍のように宙を踊り、ピザ場のカウンターに置かれていた一枚のメモ紙の上に舞い落ちた。


ニノマエはそのことに気づかず、虚空を睨むようにして窯と対峙し続けている。


火粉が紙の繊維に触れた瞬間、パッと青白い火が上がり、メモが勢いよく燃え上がった。


「あ――」


ニノマエがようやく気づき、驚愕に目を見開いた。


反射的に体が硬直する。


火を扱うプロでありながら、予期せぬ場所で起きた「秩序のない火」に、彼の思考は完全にフリーズしてしまった。 


燈子は反射的に動いた。


「危ない!」と叫ぶよりも早く、彼女は無意識に指先をそっと伸ばし、空気を撫でるように滑らせた。


(消えて)


燈子の掌から、見えない微かな透明の波動が放たれた。


それは吸い込まれるように燃え上がるメモを包み込み、次の瞬間、まるで最初から火などなかったかのように、炎は音もなく一瞬で立ち消えた。


炭化したメモの端が、僅かに煙を上げているだけだった。


「……え?」


「あら、今の……火の粉が落ちたのかしら。すぐ消えてよかったわね」


近くにいた客が、事も無げに笑って食事を続ける。


ニノマエは、燃え尽きたメモを見つめたまま、立ち尽くしていた。自分の目の前で何が起きたのか、彼にも理解できなかった。


火は確かに大きく燃え上がろうとした。


けれど、次の瞬間には奇妙な「静寂」によって封じ込められたのだ。


理人がカウンターの奥から、ゆっくりと燈子の方へ視線を向けた。


その瞳はいつもより深く、何かを確かめるように静かだったが、彼は何も言わずにニノマエのそばへ歩み寄った。


「ニノマエくん。深呼吸だ。火はもう消えたよ。……沙藤さん、少し風を通してくれないかな。彼のために」


「は、はい!」


燈子は自分の指先に残る、刺すような熱を隠すようにして窓を開けた。


翠松町の夜風が店内に流れ込み、ニノマエの荒い呼吸を整えていく。


魔法を使った実感を抱え、燈子は冷たい夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。


誰も見ていなかった。


誰も、気づかなかった。


けれど、翠松町の夜の満ちみちしおだけは、彼女が起こした小さな奇跡を、優しく飲み込んでいった。




一連の騒動が落ち着き、夜の部も終盤に差し掛かった頃、店内にいつもの穏やかな日常が戻ってきた。


「はい、理人さん。今夜の『お疲れ様ティー』はデビーのところの新作、月光ハーブよ」


カウンターにひょいと顔を出したのは、妻の彩代かよだった。


彼女は眼鏡をクイッと上げると、お気に入りの「PMI」のライブ映像を音を消してスマホで眺めながら、理人のためにハーブティーを淹れる。


「ありがとう。……藤田くん、そこまで磨かなくても十分綺麗だよ」


理人が苦笑しながら声をかけた先では、副店長の藤田が「掃除能力検定1級」の血が騒ぐのか、ニノマエくんが小火を出しそうになったカウンターの隅を、ディーラーのような華麗な手捌きで磨き上げていた。


「いやあ店長、ここは『あわい』の要ですからね。塵一つ残してはいけません」


藤田の冗談に、キッチンチーフの酒井がパスタを茹でながら低く笑う。


ふと見ると、華純が燈子に


「さっきはナイスフォロー!」


と、中身が全く違う意味であることを知らないまま、明るく親指を立てて見せた。


「沙藤さん、今日はもう上がっていいわよ。帰り道、名取さんの工房から面白い音が聞こえるかもしれないから、少し耳を澄ませてみて」


美歩の優しい言葉に送られ、燈子は店を後にした。


マンションの廊下を歩くと、4階から名取が修復しているヴィンテージチェロの、深みのある音が漏れ聞こえてくる。


翠松町の夜。


完璧なプロたちが集い、それぞれの「あわい」を守りながら、誰にも知られない魔法が静かに溶け合う港。


燈子は自分の掌を見つめ、ふふっと小さく笑った。


この街の住人たちは、今日もまた、誰一人欠けることなく、星巡る夜の静寂しじまに包まれていた。


第4話をご覧いただき、ありがとうございます。


寡黙なピザ職人、ニノマエくんの『聖域』に起きた小さな異変。


彼のパニックを静かに鎮めたのは、理人の深い信頼と、燈子の無意識の祈りが形になった、ささやかな魔法でした。


『消えて』と願った瞬間に訪れた、あの奇妙な静寂。


誰にも気づかれないように炎を封じ込めるその力は、果たして救いなのか、それとも。


燈子の魔法を確かめるような、理人店長の深く、射抜くような眼差しが印象的な夜となりました。


プロフェッショナルの技術と、日常に溶け込む不思議。


その境界線が少しずつ、けれど確実に揺らぎ始めています。


次回は、翠松町に響く『チェロの調べ』をお届けします。


心に刺さった棘を抜く、新たな隣人の登場をどうぞお楽しみに。

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