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第2話 琥珀の熱、吉野杉の誘い



16時に顔認証を済ませ、一度は店を出たはずだった。


けれど、駅へと向かう松林の道すがら、沙藤燈子(20)はカバンの心許ない軽さに気づいた。


大学のレポートに必要な、びっしりと書き込みのされたノートを、2階の休憩室に置き忘れてきたのだ。


潮凪しおなぎの海から吹き付ける風は、数時間前よりも湿り気を帯び、冷たい。


街灯がひとつ、またひとつと灯り始め、翠松町の影を深くしていく。


マンションの1階。


昼間は陽光を透かして明るかった『茶寮酒膳 箸とさりょうしゅぜん はしとさじ』のガラス窓は、いまや深い琥珀色のヴェールを纏い、街の暗がりに沈んでいた。


その窓越しに見える光は、まるで夜の海を漂う小舟が最後に見つける灯台の光のように、切実で温かい。


「失礼します、沙藤です」


重厚な木製扉を押し開けた瞬間、燈子は息を呑んだ。


そこは、昼間とは全く別の場所だった。


清冽な太陽の光が支配していた清潔な空間は姿を消し、計算された暖色の間接照明と、各テーブルでゆらゆらと揺れるキャンドルの炎が、広大な迷宮に濃密な陰影を描き出している。


空気には、熟成されたワインの芳醇な香りと、薪の爆ぜる芳ばしい匂いが溶け合っていた。


カウンターの奥には、店長の理人が立っていた。


白シャツの袖を無造作ながらも美しく捲り上げ、黒いベストを羽織ったその姿は、昼間の穏やかな「店長」よりもどこか鋭利で、ミステリアスな色気を放っている。


その細い指先には、昼間の真鍮のさじではなく、削りたての清々しい香りを漂わせる吉野杉の箸が握られていた。


「おや、沙藤さん。輝き度が少し下がっているね。忘れ物かな?」


理人が顔を上げ、微かに口角を上げる。その眼差しは、すべてを見透かしているようでいて、


同時にすべてを赦しているようにも見えた。


「すみません、ノートを2階に……。でも、お店が、あまりに綺麗で」


「夜の部は『酒膳しゅぜん』。

昨日を脱ぎ捨てて、明日を掴むための時間だからね。ここでは光よりも影を大切にしているんだ」


そう言って理人が箸で差し示した先、ピザ場ではにのまえ さくが、昼間よりもいっそう激しい薪の炎と対峙していた。


昼間は「誠実さ」に見えた彼の驚異的な集中力は、夜の闇の中では、言葉を介さぬ「神聖な儀式」のような神々しさを放っている。


自閉スペクトラム症という彼の特性が、ここでは「炎と生地の完璧な調和」という圧倒的な才能として、誰の目にも明らかな尊厳を持って輝いていた。


「燈子ちゃん、おかえりなさい。夜の港へようこそ」


フロアを静かに、けれど昼間よりずっと優雅に歩み寄ってきたのは、美歩だった。


黒いタイトな制服を纏った彼女は、迷宮の案内人のような美しさで、「ノートなら、オフィスに届けておきましたわ」と、燈子の手元へそっとそれを差し出した。


管理栄養士であり、ワインソムリエの資格を持つ彼女の所作は、夜のとばりの中でいっそう研ぎ澄まされ、水面を滑る白鳥のように滑らかだ。


「せっかくですもの。夜の部だけの、特別な空気を見ていかれませんこと?」


美歩のたおやかな誘いに燈子が頷こうとした、その時。


扉が勢いよく開き、場にそぐわない華やかな、それでいてどこか切実な香水の残り香が、店内の静寂を塗り替えた。


「マスター! 我慢の限界だ。今すぐ、あのゆいの作った『極夜のチョコレートケーキ』を! ああ、あと昼のオムライスも一緒に持ってきてくれ!」


現れたのは、夜の砂漠を思わせる深いダークブラウンの髪に、『神の繊維』と謳われる世界最高峰のメリノウール――『ザ・ギフト・オブ・キングス』を纏った男だった。


その浮世離れした美貌は、至高の素材が放つ柔らかな光沢に縁取られ、見る者を圧倒する気品を湛えている。



5階の住人にして、このマンションの「特別」な留学生。



アラン・エル・ハルディン王子(35)


夜の部に昼のメニューを強請ねだるという無茶な注文。


けれど、カウンターに座る大人たちは誰一人として眉をひそめない。


この「美しき隣人」たちの港では、誰のわがままも、寄せては返す波の音のひとつとして受け入れられる。


理人は吉野杉の箸をそっと置き、穏やかだが有無を言わせぬ瞳で王子を見据えた。


「アラン様。ここは港です。船の出入りに合わせた『積み荷』しかございませんよ」


「そんな堅苦しいことを言うな! 私は今、猛烈に故郷を……ハルディンの冬を思い出して寂しいんだ! あの甘さと温かさがないと、今夜の私の心は凍えてしまう!」


アランが子供のようにカウンターに突っ伏すと、美歩が静かに動いた。


彼女は理人と一瞬だけ視線を交わし、微かに頷く。


「アラン様、そんなに寂しがらないで。酒井さんに、特別な『あわい』の一皿を作らせますわ」


美歩はキッチンチーフの酒井に歩み寄り、管理栄養士としての的確な指示を耳打ちした。


「酒井さん、カカオのポリフェノールでストレスを和らげ、赤ワインの深い香りで彼の昂ぶりを鎮めましょう。味付けは少し強めに。異国の夜を耐えるための、骨太な温かさが必要ですわ」


数分後、燈子の前に差し出されたのは、深いボルドーカラーのソースを纏った、芸術品のような一皿だった。


「お待たせいたしました、アラン様。今夜の積み荷……『赤ワインとカカオの、お箸でいただく夜更けのオムライス』でございます」


美歩が恭しく、一膳の吉野杉の箸を添える。


「アラン様。ソースには、結さんが工房で使う最高級のカカオを隠し味に忍ばせました。赤ワインでじっくりと煮込んだ牛頬肉を、お箸でほぐしてお召し上がりください。今のあなたには、匙ですくう受動的な癒やしよりも、自らの手でお箸を使い、明日を掴み取る強さが必要だと思いまして」


アランは不器用な手つきで、震える指先でお箸を伸ばした。


一口、その重厚な味を口に運ぶごとに、彼の肩の強張りがゆっくりと解けていく。


「……苦いな。だが、震えるほど温かい。……故郷のハルディンの、暖炉のそばで過ごした冬の夜の味がする」


王子の大きな瞳に、琥珀色の光を反射した涙が浮かぶ。


美歩はそれを見逃さず、ソムリエとして選んだ、彼と同じ故郷の土壌を感じさせる重厚な赤ワインを静かに注ぎ足した。


燈子は、カウンターの隅でその光景を食い入るように見つめていた。


美歩の言葉はどこまでも優しく、けれど専門家としての冷徹なまでの裏付けがあるからこそ、その一皿は最高の処方箋となって王子の孤独を溶かす。


「沙藤さん、これが私たちの誇る『あわい』の仕事よ。誰かの絶望と希望の、ちょうど真ん中に立って、手を差し伸べること」


美歩が燈子にだけ聞こえる囁きを残したとき、燈子は自身の指先が微かにチリリと熱を持つのを感じた。


内に秘めた力が、この場所の深い慈愛に共鳴している。


彼女は慌ててその手をポケットに隠した。


カウンターの奥で理人が一瞬、燈子の手元を「視た」ような気がしたが、彼はすぐに穏やかな顔で、まるで最初からそうであったかのようにグラスを拭き始めた。



燈子は、昼間の陽光の下では見えなかった、この港の真の深淵――悲しみさえも価値ある積み荷として受け入れる、この場所の懐の深さに触れた気がした。


翠松町の夜空には、数え切れないほどの星が静かに巡り始めていた。





アランは、美歩が注ぎ足した重厚な赤ワインのグラスを、愛おしそうに両手で包み込んだ。


「……不思議だ。この店に来ると、自分が『王子』であることを忘れていいような気がする。ただの、一人の腹を空かせた旅人に戻れるんだ」


そう言って、アランはカウンターの隅でずっと自分を見守っていた燈子に、柔らかな視線を向けた。


「君。さっきから、とても心地よい風が君の方から吹いてくるね。松林の匂いとも違う……もっと、何かが『調和』していくような匂いだ」


燈子は心臓が跳ねるのを感じた。


無意識にポケットの中で指先を丸める。


自分の体温がわずかに高まったのを、彼に嗅ぎ取られたのだろうか。


「私は、ただ、アラン様が元気になられたのが嬉しくて」


「ふふ、『アラン様』か。その呼び方も、ここでは少し大げさに聞こえるよ」


アランは吉野杉の箸をそっと置き、にのまえ さくが差し出したフォカッチャをちぎって口にした。


「ニノマエ、君の焼く生地は、火の魂がこもっているね。言葉はなくても、君が何を伝えたいのか、熱さで伝わってくるよ」


ニノマエは、作業の手を止めることなく、ただ一瞬だけ伏せがちな睫毛を上げた。


それは、彼なりの最大の謝意だった。


その時、理人が静かにカウンターを回り、燈子の隣に立った。


「沙藤さん。夜の港には、時折こうして『星の欠片かけら』を抱えたお客様が流れ着くんだ。

彼らがまた明日、自分の海へと漕ぎ出せるように、私たちはここで灯を絶やさない」


理人の言葉は、この場所の静寂そのもののように、燈子の心に染み渡った。


「さて、アラン。今夜の宿題は終わりだ。五階の自分の部屋へ戻って、深い眠りに就くといい。君の孤独は、今夜のソースと一緒にすべて酒井さんが煮溶かしてくれたからね」


「……ああ。そうするよ、マスター。おやすみ、美しき隣人たち」


立ち上がったアランは、コートの襟を立ててエレベーターへと向かう。


「神の繊維」がもたらす無重力のような軽やかさが、彼の足取りをいっそう浮世離れしたものに見せていた。


彼が消えた後には、至高の素材だけが持つ静かな気品だけが残された。


静寂が戻った店内で、美歩がふぅ、と小さく吐息をついた。


「燈子ちゃん、お疲れ様。ノートを取りに戻っただけなのに、大変な夜になっちゃったわね。……でも、今のあなたは、昼間よりもずっと良い『色』をしているわ」


美歩のたおやかな指先が、燈子の肩を優しく叩いた。


「さあ、本当にお帰りなさい。潮凪の夜風に吹かれながら、今日という日をゆっくり反芻はんすうしてね」


燈子は理人とみほに深く一礼し、重厚な扉を引いた。


外へ出ると、翠松町の夜気は昼間のそれとは違い、どこか甘く、けれど凛としていた。


ふと見上げると、五階のひとつの窓に灯りがともった。


沙藤 燈子は、自分の掌に残る微かな震えを見つめ、深呼吸した。


この「株式会社 箸と匙のあわいで」という場所は、すべての迷える隣人にとって、唯一無二の「聖域」なのだ。


そして、彼女自身もまた、その「あわい」に身を置く一人であることに、静かな喜びを感じていた。

第2話をご覧いただき、ありがとうございます。


故郷を想い、おぼつかない手つきで箸を握るアラン王子。


そんな彼に美歩みほが差し出したのは、優しく救い上げる『匙』ではなく、自らの手で明日を掴み取るための『吉野杉の箸』でした。


この店で供されるのは、単なる料理ではありません。


それは、専門家としての冷徹なまでの分析と、一人の人間としての深い慈愛が溶け合った、その人のためだけの『処方箋』です。


一皿の料理が、凍てついた心を少しずつほどき、再び明日への活力を呼び醒ましていく過程を、皆様と一緒に見守ることができれば嬉しいです。


次回は、理人店長の大切なパートナー、彩代かよさんが登場します。


翠松町が、また少し違った色に染まる瞬間を、どうぞお楽しみに。

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