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第1話 翠松町の凪、美しき隣人たちの迷宮



清泉県せいせんけん潮凪区しおなぎく翠松町すいしょうまち


都心の激務を終えた大人たちが、海からの凪と共に一日の疲れを癒やしに帰ってくるこの街は、澄んだ小川と深い松の木立ちに守られた、静かな誇りに満ちている。


その中心に佇む五階建てのヴィンテージマンション。


その一階すべてを占める『茶寮酒膳 箸とさりょうしゅぜん はしとさじ』の重厚な木製扉の前に、沙藤さとう 燈子とうこは立っていた。


20歳、現役の大学生。今日から、彼女の新しい挑戦がここから始まる。


午前10時。


扉を押し開ける手前、燈子は思わず足を止めた。


入り口のすぐ脇、大きなガラス張りの空間の中で、真っ白なコックコートを着た女性が、繊細な手つきでケーキを仕上げている。


そこは「製菓工房」。

店内外の双方からその鮮やかな手仕事が見える、この店の「顔」とも言えるエンターテインメント・ステージだ。


「彼女は、パティシエの五月七日つゆり ゆいさん。この店の甘い魔法のあるじなのよ」


扉を開けると、店長の咲良理人さくらりひとと、モデルのような高身長の女性、待島 美歩まちしまみほが燈子を温かく迎えた。


「え?ま、魔法??」


燈子は思わず足を止め、目を丸くして聞き返した。その声が少しだけ裏返ったのを、自分でも自覚して頬を赤らめる。


そんな燈子の動揺を、美歩は「なんて瑞々しい反応かしら」とでも言いたげに、優雅な微笑みで受け流した。


「ええ。一口食べれば、それまでの悲しみがどこかへ消えてしまう……彼女の作るお菓子には、そんな力があるんですもの。私たちにとっては、敬意を込めた最高の呼び名なんですのよ」



燈子が照れ隠しに小さく頭を下げると、ガラスの向こう側でそのやり取りを見ていた結が、薄く唇を綻ばせた。


30歳の結は、大学生の燈子から見れば神聖な職人のように映り、ガラス越しに優雅に会釈をした。


「おはよう、沙藤さん。まずは、ここを通るのがこの店の『儀式』だ」


理人が指差したのは、最新のタブレット端末だ。燈子が緊張しながら顔を向けると、瞬時にスキャンが完了した。


画面に『本日の沙藤 燈子:適性ポジション/ホール(輝き度85%)』と表示された。


「えっ……輝き度、85パーセント?」


燈子は思わず声を上げた。


「ふふ、驚かせてしまったかしら。

これはね、燈子さんの今のコンディションを数値化したものなの。

85パーセントもあれば十分だわ。

今日のホールは、きっと素敵な空気になるわね。よろしくね」


美歩は燈子の目を見て柔らかく微笑むと、

「さあ、ご案内いたしますね」

と、流れるような所作で店の奥へと燈子を導いた。


燈子はまずメインホールの中心部へ。


目の前に広がったのは、外観からは想像もできないほど広大で、静謐な空間だった。


配置された50席のテーブルは、隣の会話が全く気にならないほど贅沢な距離を保ってレイアウトされており、まるで一つひとつのテーブルが独立した島のように、ゆったりとした時を刻んでいる。


その中心、10席を備えた重厚なカウンターキッチンの横には、石造りの本格的な「ピザ場」があった。


そこで黙々と薪を組み、窯の温度を確かめていたのは、彫刻のように整った顔立ちの26歳の青年、にのまえ さくだった。


「彼はピザ職人のにのまえくん。

自閉スペクトラム症(ASD)という特性を持っていて、少し寡黙だけれど、火と生地に向き合う姿勢は誰よりも誠実なの。理人さんが運営するグループホームの住人でもあるのよ。彼が来ない日は、このお店でピザをお出しすることはないわ。最高の状態を知っているのは、彼だけだから」


美歩が耳元でそっと教えてくれた。


「ここからは、私たちの『迷宮』をご案内するわ」


美歩に導かれ、厨房の脇からバックヤードの長い廊下へ。

右手には理人のオフィス、左手には結さんが籠もる工房の裏口、さらに進むと盆栽や家具を保管する「ギャラリールーム」が整然と並んでいる。


「お手洗いも覚えておいてくださいね。女性用はこの廊下の左の突き当たり、男性用は右の突き当たりですの。かなり離れているでしょう? 理人さんが、お使いになる方のプライバシーと、この空間の静寂を何よりも大切にしていらっしゃるからなのよ」


廊下からは巨大な食品庫や冷蔵・冷凍室へもアクセスできる。

贅沢な設計に圧倒されながら二階の休憩室とオフィスを確認し、ストアツアーを終えると、11時の開店直前。厨房にスタッフたちが集まった。


この店のキッチンチーフは、酒井さかい 善章よしあきだ。


「さて、今日のキッチンサポート二人……やりたい人!」


酒井が短く声をかけると、間髪入れずにその場にいた全員が「はい!」と勢いよく右手を挙げた。副店長の藤田ふじた 悠司ゆうじも、佐野さの 充寛みつしろも、卜部うらべ 華純かずみも、そして美歩までも。 


「よし、じゃんけんだ!」


理人の合図で、大人たちの真剣すぎるじゃんけんが始まる。


「沙藤さん、驚かれたかしら? うちはみんな、お料理を作るのが大好きなの。誰が担当しても完璧にこなせるから、最後は運に任せるのが一番公平なんですのよ」


美歩は楽しそうに目を細め、じゃんけんに勝った佐野さんと華純を見届け、燈子に最初のお冷を託した。 


11時半、開店。


燈子は最初のお客様へお冷を運ぶため、緊張で指先に力を込めてトレイを握りしめた。


だが、慣れない所作に、サイドテーブルに積み上げられていたアンティークのパン皿へ、不注意にも袖を引っ掛けてしまう。


「あっ……!」


 スローモーションのように、一番上の皿が宙を舞った。


 燈子は目を見開いたまま固まる。


それが床に激突し、粉々に砕け散る未来が、はっきりと脳裏をよぎった――。


 だが、衝撃音は響かなかった。


 気づけば、皿は美歩の手の中に、まるであつらえたかのように静かに収まっている。


「大丈夫ですよ、燈子さん。この子(お皿)も、今日は少し緊張していたみたいですわね」


 美歩は、まるで最初からそこに立っていたかのように、穏やかな微笑みを湛えて横にいた。


「……えっ? あ、すみません……! 」


 厨房の奥で、理人の瞳がふっと月光を吸い込んだような銀色に揺らぎ、すぐに元の穏やかな色に戻った。


「美歩さん……ありがとうございます」


 理人の静かな声に、美歩は「いいえ」と、いたずらっぽく小首をかしげて微笑んだ。


 燈子は自分の鼓動が早まるのを感じながら、深々と頭を下げた。



昼の部「茶寮さりょう」の主役は、真鍮のスプーンで味わう料理だ。


燈子が運んだのは、黄金色のオムライス。


「沙藤さん、匙は右、角度は十五度。光がお客様の手元を優しく照らすように置いて差し上げて」


美歩のたおやかな指示が、燈子の緊張を優しく解いていく。


正午を過ぎた頃、一台のテーブルに穏やかな笑みを浮かべた老夫婦が座っていた。


「お帰りなさい、奥様。退院、本当におめでとうございます」


理人が深く、敬意を込めた一礼をする。


燈子が運んだのは、美歩と酒井が、退院直後の奥様のために仕立てた特別なコンソメ・ロワイヤル。動物性の油脂を排し、代わりになめらかな大和芋のすり流しを加え、生姜で体温を温める工夫が施された一品だ。


一口啜った奥様の瞳に、涙が浮かんだ。


「……ああ、生きててよかった。主人が届けてくれた味に、今日はもっと優しい体温が通っている気がします」


二人が晴れやかな顔で店を後にされたあと、扉が閉まる音と共に店内に柔らかな余韻が広がった。


「……あんなに喜んでもらえるなんて。なんだか、こっちまで胸がいっぱいになっちゃいました」


燈子がトレイを抱えながら独り言のように呟くと、隣でテーブルを片付けていた華純かずみが、快活な笑顔を向けた。


「素敵だったでしょ? でもね、燈子ちゃん。あの笑顔には『二週間越しの作戦』があったのよ」


「二週間……ですか?」


驚く燈子を促し、華純はパントリーの入り口まで移動すると、少し声を潜めて教えてくれた。


「二週間くらい前かな、あのご主人がお一人でいらしたの。いつもは二人で仲良くコンソメを召し上がる常連さんなんだけど、その日はなんだか、一人の食事が味気なさそうで……。気になった理人さんが声をかけたら、奥様が入院しちゃったんだって。しかも『箸と匙のスープが飲みたい』って、病院のベッドでずっと仰ってたらしいの」


華純は、ピザ場で薪を整える一 にのまえさくの背中をちらりと見て続けた。


「普通なら『また退院されたらぜひ』で終わるじゃない? でも理人さんは違ったの。ご主人がいつも白湯を入れて持ち歩いている保温水筒があることに気づいて、こう仰ったのよ。

『もし病院の先生が許してくださるなら、今すぐ作りましょう。良かったら、いつもお湯を入れてお持ちのその水筒に、スープを詰めてお持ちになりませんか?』って」


燈子は、カウンターで静かにグラスを拭いている理人の背中を見つめた。


客が持ち歩く小さな水筒。


そんな細かな持ち物にまで、理人の目は届いていたのだ。


「ご主人が慌ててカバンから出した水筒に、酒井さんがなみなみと、出来立てのコンソメを注いだの。あの時のご主人の、救われたような顔……忘れられないわ。奥様も病院でそれを一口飲んで、『魔法の味がする』って泣いて喜んでくださったんですって」


燈子の視界が、少しだけ潤んだ。


ただ美味しい料理を出すだけではない。


客が口にできない願いすらも掬い上げ、全員がプロの技術でそれに応える。


「プロって、すごいです。私、昨日までの自分が見ていた『飲食店』のイメージが、今日一日で全部壊れちゃいました」


「あはは! 壊れていいのよ。ここは翠松町すいしょうまちの港なんだから」


華純は燈子の肩をポンと叩くと、「さあ、15時半よ。

私たちのお楽しみ、賄い(まかな)いの時間!」と弾んだ声を出した。


15時半。

二階の大きなテーブルで、スタッフ全員が土鍋ご飯を囲んだ。


昼の部を終えた心地よい疲労感。


だが、その場の空気は決して弛緩してはいなかった。


彼らにとって、これはゴールではなく、18時から始まる夜の部「酒膳しゅぜん」に向けた、束の間の休息であり、高揚感に満ちた作戦会議でもある。


「酒井さん、夜の仕込みは?」


理人が土鍋のご飯を頬張りながら、鋭い目で問いかける。


「完璧です。今夜は潮風が強いですから、少し塩味を立てた煮込みを主軸にします」


酒井が短く答え、藤田や美歩もそれに合わせて自身の役割を頭の中で更新していく。


一 朔は自分の役割を完璧にこなした安堵からか、少しだけ表情を和らげていたが、その目はすでに夜の「火」を見つめているようだった。


「沙藤さん、初日はどうだったかしら?」


美歩が優しく問いかける。燈子は深く頷いた。


「驚きっぱなしの一日でした。でも、ここはただの飲食店じゃない。誰かの人生が再び動き出すのを助ける、港のような場所なんですね」



16時。


交代のスタッフと入れ替わり、燈子は顔認証を終えて外に出た。


扉の向こうでは、すでに夜の営業に向けた静かな準備の音が響き始めている。


沙藤 燈子は、あの画面に映った「輝き度」を思い出し、背筋を伸ばす。


翠松町の夜が、より深く、温かな琥珀色の光と共に始まろうとしていた。


第1話をご覧いただき、ありがとうございます。


お客様の水筒に注がれた一杯のコンソメ。

その琥珀色の温かさこそが、咲良店長が大切にしている『もてなしのあわい』です。


大人たちが真剣に仕事を奪い合うじゃんけんのシーンも、実はこの街に生きるプロフェッショナルたちの、隠しきれない情熱の裏返しだったりします。


新人アルバイトの燈子が、この少し風変わりで、けれど誰よりも誠実な職人たちの迷宮で何を見つけるのか。


これから少しずつ、この港町に流れる穏やかな時間を綴ってまいります。


一日の終わりに、皆様の心がふっとなぎになるようなひとときをお届けできれば幸いです。


もしよろしければ、この先もお付き合いください。

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