階段の白い影
高梨葵は、今日も図書室にはいなかった。
それでも――本が落ちた瞬間、私はなぜか、あの噂のことを思い出していた。
*
図書室に入ると、いつもと変わらない静けさが広がっていた。
窓際の席も、向かいの長机も、空いている。
――やっぱり、いない。
わかっていたはずなのに、胸の奥がわずかに沈む。
私は自分の席に向かい、いつものように本を開いた。
そのときだった。
ふと、空気が揺れた気がして、顔を上げる。
視線の先――書棚の高い位置に差し込まれていた薄い一冊が、
誰かに引き抜かれたように、すっと外れた。
音もなく、床に落ちる。
――え?
頭が追いつかず、しばらくその場に立ち尽くす。
やがて我に返り、床に落ちた本へと歩み寄った。
拾い上げると、ページの間に古いしおりが挟まっている。
自然と開かれたその箇所に、目が吸い寄せられた。
そこに記されていたのは、町の外れにある
風守神社の由来だった。
――災厄を鎮めるため、娘を神に捧げた。
たった一行。
それだけで、胸の奥がざわつく。
どこかで見たことのある神社。
耳の奥で、現実のものではない風の音が、ざわざわと鳴り始めた。
*
放課後。
自転車を走らせていた私は、気づけばその神社の前でブレーキをかけていた。
風守神社――
本の中で見た写真と、目の前の風景がぴたりと重なる。
境内へ続く石段は苔むし、上のほうは霞んで見えるほど長い。
「……これ、登るのか」
小さく呟き、顔を上げた。
そのとき、頂上近くに人影が見えた。
ロングヘアの少女。白いセーラー服。
「……葵?」
見間違いかもしれない。
けれど、目を離せなかった。
自転車を脇に寄せ、私は石段を登り始めた。
息が上がり、視界が開ける。
木々に囲まれた境内には、小さな本殿が静かに佇んでいた。
風の音だけが響く場所。
その奥へ、葵らしき少女が、すっと消えていく。
「待って……!」
声がこぼれ、私は駆け出した。
本殿の裏手へ回り込んだ、その瞬間――
「あぶない!」
鋭い声。
反射的に足を止める。
ほんの一歩先は、崖だった。
ぞっとして、あたりを見回す。
けれど、そこには誰の姿もない。
さっきの声は――
葵だったのだろうか。
混乱したまま、私は境内を離れ、石段を駆け下りた。
自転車に跨り、無我夢中で家路につく。
*
境内に響いた、あの声は――
幻聴だったのかもしれない。
それでも私は、確かに彼女を追っていた。
あの夏服の背中を。
風だけが知っている何かが、
いま、私を導こうとしている。
そんな気がしてならなかった。




