風の音だけが聞こえる
彼女がいないと、胸の奥が少しざわつく。
ただ静かに、そこにいてくれれば、それでよかったのに。
*
雨の間に差し込む日差しが濡れた木々の葉をキラキラと照らしている。
中庭から吹き込む風はひんやりと心地よかった。
図書室を後に、教室へ向かう足取りは少し軽くなっていた。
その日から──
私は、昼休みになると教室を抜け出し、中庭の隅で簡単な昼食をとってから、図書室へ向かうようになった。
夏服の彼女は、いつもの席で静かに本を読んでいた。
転校から一週間経っても、学校で夏服を着ているのは彼女だけだった。
私は向かいの端に腰を下ろし、小説を開く。
静かな空気が二人の間に落ちる。
その空気を共有している心地よさが私の中に広がっていった。
(この子も、教室から逃げてきているのかもしれない。)
そう思うと、胸の奥が、少しだけ温かくなる。
名前は知らない。
それでも私は、心の中で彼女を「高梨葵」と呼んでいた。
本当の名前は、違うかもしれない。
それでも私は、心の中でそう呼んでいた。
*
中庭の木々には黄緑色の新芽が芽吹き始め、やがて濃い緑色の葉が覆いつくすようになった。
生徒たちの制服も、すっかり夏服へと変わった。
私は、紺色の襟と袖口に紺色のラインの入った新しい白いセーラーに袖を通した。
鏡に映る自分を見て、思う。
これで、ようやく学校の風景に溶け込める。
図書室の司書は、この学校の卒業生で椎名先生という。
最近は、少し言葉を交わすようになった。
「好きなジャンルの本はあるの?」
そう尋ねられて、私は首をかしげた。
「特に、ジャンルにこだわりはありません」
そのときの気分で、気になったものを読むだけだ。
今は志賀直哉を読んでいるけれど、少し前まではライトノベルに夢中だった。
──正直、現実から目をそらせるなら、何を読むかは重要じゃない。
できるだけ目立たず、
人間関係も最小限にして過ごす。
それが、風守での私のルールだった。
ある日、椎名先生にすすめられた薄い小説を手に、いつもの席へ向かった。
けれど、そこに彼女の姿はなかった。
(あぁ、今日はいないんだ…)
冷たい風が吹き抜けた気がした。
私は、いつもの席に座り新しい小説のページをめくる。
──ヒュー。
高い、口笛のような音が、どこからともなく聞こえる。
音の方角に目をやったが、青白く光る蛍光灯と本棚の白いプレートがそこにあるだけだった。
帰り際、カウンターで椎名先生に、何気なく声をかけた。
「今日、いつもの子、いませんでしたね」
椎名先生は、少し間を置いてから、眉をひそめた。
「……え?
昼休みに来ているのは、あなたひとりだけよ?」
彼女は、まっすぐに私を見て言った。
──キーン。
私と先生は同時に空中を見上げたが、音の出どころはわからなかった。
先生の視線は、本棚の白いプレートのあたりに向けられているようだった。
少しだけ目が合い、私たちは何も言わず、図書室を後にした。
私の耳の奥には、かすかに金属音が残っている。
一歩外に出ると、生暖かい風が首筋と足元に絡みながら吹き抜けた。




