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天の仙人様  作者: 海沼偲
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第222話

 ベッドに横になって、天井を見つめているだけであった。それでありながらも、先日の言葉が頭から離れることはない。彼が……老師様が発したあの言葉の真意を掴むことが出来ずに、ぽっかりと空いているようであった。つかみどころもなく、ぼんやりとしているのだ。ふんわりと浮かんでいるような、それで地に足がついていない。そんな感覚の中でいるわけである。

 当然だが、この町から危険はなくなっている。奇怪な事件は起きることがなく平穏が訪れた。最初の方は今もまだ危険が残っていて、わざと事件を起こしていないだけなのではないかと思われていたそうだが、何日も起きなければ、そういうことはなくなった、いなくなったのだと処理したのだという。それまでは、ほとんど毎日のように起きていたのだから突然に事件が起きなくなったというのは不気味だろう。

 それが解決したことは素直に嬉しいことである。今この町には前までと同じような明るさが戻っているのである。窓から外をのぞき込むだけでわかる。人の笑顔の数が、質が、すべて元へと戻りつつあるのだ。この町は大きな不幸に何度も晒されているが、そのたんびに元へと戻りつつある。驚異的な力だと言えるだろう。それだけ優れた町でもあり、この人たちは、くじけることはそうそうないのだろうということもわかる。

 しかし、そうやって考えられるのは解決したということを表面的にしか受け取ることの出来ない人々のみである。誰が一体事件を起こしていたのかということすら知らないからこそ、そうやって切り替えられたのである。言ってはいなかったが、死体が見つからなかったのである。俺が途中で放置していた獣の死体。それが見つからなかったのである。血痕すらも消え去っていて、どこかへといつの間にかいなくなってしまったのだ。どうしたものかと秘かに探し回ってはいたのだが、それでも見つかりはしない。迷宮入りしてしまった。しかし、実際に事件は終わっている。だから、わからないということで、その事件は俺の中でも解決したのである。そうしなければならないのである。過去にとらわれ過ぎてしまうことを良しとしないのだから。

 とはいえ、俺はそれが解決したというのに、新たな謎に閉じ込められてしまったわけであった。人が死んだ事件とはまた別のところで生まれてしまった謎。それから逃げ出す術はありそうにはない。なにせ、俺の肉体は……いいや、魂だろう。魂が仙人である老師様に何かを恐れさせるだけの力を持っているということなのである。それがひと際恐ろしい。自分が唐突に自分でなくなってしまったように思えてならないのである。未知の怪物であるかのようだ。

 天井へ向けて手のひらを見せる。伸ばしても届きはしない。それがなぜだか恐ろしく感じてならないのである。何かが俺から離れていくように、遠ざかっていってしまうように感じてしまう。別にそういうことはないのだが、たったその一つの行動が、行うたびに気味が悪く、恐ろしいと思えてならないのであった。それから逃げられないのである。精神が汚染されているのかと錯覚するほどに。しかし、そういうわけではないと自分にしっかりと言い聞かせていく。そうしなければならない。そうしなければ自分がどこかへと消え去ってしまって、いなくなるのだから。自分が自分であることを保つために、自分の清浄さを訴えているのだ。

 無気力になっているのかもしれない。それが頭から離れることはないということで。自分がこの世界で生きるには、あまりにも窮屈なのかもしれないなんて、そう思っているからかもしれない。ただの、他人の一言でしかない。自分というものを持つのは自分でなくてはならないのに、その一言に翻弄されているのだ。バカバカしいだろう。だが、俺はそれがあまりにも本気であり、真剣であるのだ。自分が正しい事であり、間違っていることである。その二つの概念がぶつかり合って暴れまわっているのである。俺の体の中で。だからこそ、こうまで悩んでしまって逃げ出すことも出来ないでいるのだろうか。なんということか。どうしようもないのではないか。なんて思いたくもなる。

 がちゃりと扉が開いた。そこには、ハルが立っている。目をしかめているようである。彼女のその瞳が、俺には救ってくれるかのように思えてならない。今まさに、閉じこもっていた俺の心を壊してくれるような、そんな思いが溢れてくるわけである。それほどまでに追い込まれているのかと、思わずにはいられないほどに。

 一歩一歩と踏みしめられるように近づいてくる。それがいっそう強調されているのだ。俺の目の前には進んでいくほどに彼女しか映らないのだ。それ以外がぼやけていくかのようであり、それを望んでいるかのようである。俺は弱いからかもしれない。だから、そうすることで、逃げているのかもしれない。ダメであろう。それではいけないのだ。だが、今この瞬間だけは逃げ出したくて仕方がないのである。

 目の前にいる彼女が突然に俺の頬を思いきりひっぱたいた。ひっぱたいてくれたのだ。バチンと大きな音を鳴らして、世界がぼやけつつある中で、しゃんと鮮やかにしてはっきりと目に映るようにしてくれる。現実へと引き戻してくれるかのような、痛みと、感触であったのだ。

 俺は頬をさする。彼女の平手の痛みが熱となって伝わってくるのである。俺の心にはそれはしみる。存外に沁みてくる。涙をかすかに流してしまうほどに。情けない。だが、彼女の前だから、俺の愛する妻の前だからこそ、流すことの出来る涙なのだ。俺を出してしまっても、彼女ならば、愛してくれるのだと真に理解しているからこそ、目の前で泣くことを俺自身が許容できているのだから。


「……アラン。愛してるわ。永遠に。今も、未来も、過去も、それは輪廻を巡って永遠にね。そう滅多にあることじゃないわ。私のこれまでの人生、おそらくは前世とかもいろいろと考えていっても、あなたほど愛したいと、愛していたいと、愛させてほしいと思ったことはないわ。それほどの愛なの。こんな愛を持ってあなたに向き合えること、触れ合うことがどれほどの幸福なのか。そんなのも計り知れはしない。だって、比較できるものが何ひとつとしてないのだから。それだけなの。だから……アランは世界から逃げなくてもいいの。だって、世界は嫌うことはないのだから。あなたのことを、世界は受け入れてくれる。愛し続けてくれる。あなたが、世界を愛してくれるほどに、世界も同じだけの愛をぶつけてくれるの。裏切ることはないわ。世界なのだから。だから、怯えなくたっていいのよ」


 衝撃というべきか。心の奥底までに杭を打ち込まれてしまったかのように、ズシリと何か重いものがぶつかってくるのである。これが愛だろうか。いいや、そうではないかもしれない。そんなもので片づけられるほど簡単なものではないのだろうから。今この感覚を愛というたった一言で片づけてしまうのがあまりにも惜しい事でしかないように思えてならないのである。

 彼女はゆっくりと俺の背中に腕を回してくれる。抱きしめてくれるのである。やはり、彼女は俺の妻なのだと思うわけである。そうでなければ、こうして、抱きしめてくれることなんてないのだから。恋人ではないのだ。今まさに目の前にいる女性は、妻なのである。俺の永遠の伴侶であるのだ。だからこそ、彼女の気持ちがズシリとのしかかってくるわけである。それだけの重さを俺は受け入れて、抱きしめて、抱えなくてはならないのだから。そして、それが出来るからこそ、俺は彼女の夫になっているのだ。

 温かい。叫びたくなるほどに温かい。これほどまでに愛情というものの熱が嬉しく思うことはない。今目の前に、密着しているのである。彼女の愛がしっかりと俺に触れているのである。そして、破壊しているのである。俺が持っている、変に抱えてしまっている、気味の悪いものを完全に破壊してくれているのである。これほどまでに心強いことはない。嬉しくてたまらない。それしか言葉にも頭にも思い浮かびはしない。それだけでよかった。それ以上の感情も、無駄な修飾の言葉も必要なかった。シンプルに、そして大きく意味を乗せられるのである。それだけの価値があるのである。

 俺は大丈夫だろう。もう大丈夫だろう。なにせ、彼女がいるのだから。どれだけの目にあおうとも、少なくとも、彼女だけは世界の中にいて、そして中心でいてくれるのだ。それを実感する。だからこそ、安心できるのわけである。これほどの感覚なんて、人生で一度でも味わえればいいだろう。だが、俺はそれをこれから先永遠に味わい続けられるのだ。それほどに嬉しいことは、幸福なことはありはしないだろう。これ以上の幸せを望むというのは、それこそ大逆の徒となることに違いない。

 俺は彼女のことを抱きしめ返して、しっかりと力を入れて、彼女を愛していて、それが全てであった。それ以上の何もなくただ抱きしめているのである。それをわかってくれているのである。愛が伝わっているという感触を感じるのだから。それ以上の愛を返されながらも、浸り、溺れていくのである。今はそれに浸かっていたいのである。堕落していきたいのである。


「ありがとう……ありがとう……」

「ありがとうなんて言葉は必要ないわ。当然のことなのだから。なにせ、夫の苦悩を、辛さを、支えてあげるのは妻の仕事でしょ。それが出来ないのならば、それこそ私の価値はないわ。だけど……アランがその価値に感謝してくれるというのなら、とっても嬉しいことだわ。……ありがとう」


 ひときわ強く抱きしめてくれる。それだけで十分だ。もう俺は立ち上れる。外にだって出れる。閉じこもる必要なんてありはしない。真っ直ぐに進むことが出来るのだ。仙人でありながらも、変に落ち込んでしまうのはどうにかしたいところなのだが、これでいなくては、愛を求めることも与えることもできないだろう。だから、俺はそれでいなくてはならない。だけど、それでも、彼女が一緒にいてくれるのだ。それだけでも十分に力強いことは変わりはない。それだけで十分なのだ。

 外に出れば、三人も俺に飛び込んでくる。俺の体の横の広さでは三人全員を受け止めることは難しいのだが、それでも気合で無理やりに腕を横に広げて抱きしめるわけであった。三人も、やはり俺のことを心配してくれているのだろう。嬉しいことだ。これほどまでに恵まれた男なんて存在しないのだろう。俺こそがこの世で最も恵まれているのだ。それを今まさに実感しているわけである。

 俺は全員の頭をゆっくりと撫でていく。柔らかな感触である。温かな熱を感じてならない。俺では抱えきれないほどである。それを何とかするのが俺の役目でもあるのだが。幸せの波に呑み込まれて溺れているわけである。そこから顔を出して、何とか死なないようにしている。幸せ過ぎて死んでしまうというのは一度は味わってみたいが、永遠に生き続ける中で幸せに浸っていたいという願望のために、まだ生きようと思うわけなのである。

 だが、それが終わると彼女たちもまた一言ずつ説教というかお叱りというか、そういう言葉を言われるわけである。それだけ俺が彼女たちに心配をかけていたということの証明でもあるわけだが。その言葉一つ一つが美しく飾られているわけである。それがわかるからこそ、彼女たちが発する一言がしっかりと身に染みて俺の中へと入り込んでくるのである。


「まあ、これでもう変に悩んだりはしないでしょうね。何せ私たちの愛を一身に受け止めたのだから。これを知ったというのに、再び変なことでうじうじと悩むようでは、もう一発二発ひっぱたいても構わないでしょうからね」

「そうかもしれませんが、わたくしは出来ればアランしゃんに暴力的なことはしたくはありませんからね。出来ることならば、そういう方面ではないほうが良いのですが」

「あれ、こうやって自分は暴力をふるうことのない優しい女だってアピールしているのかな? そうすることで、好感度を稼ごうとしているのかな? いやらしいねえ。自分ばかりいい格好死体なんて、下心丸見えだよお?」

「いえっ、そういうわけでは……」


 彼女たちの雰囲気がだんだんとよろしくない方向へと向かっているような気がする。だが、それを見ることが出来ているのだ。俺がしっかりとしているからこそ、彼女たちの中で、じゃれ合うように争うことが出来るのだから。

 そのあと、五人で幸せに浸っていたところに、アキが帰ってきて仲間外れにされたのだと文句を言ってきてはいたが。彼女の存在も確かに大きいだろうが、妻ではないからと、四人に追い出されていて、めそめそと大げさに泣いている。そんな彼女にも手を差し伸べたくなるというのが俺の本質であり、そのせいで、俺も説教を受ける羽目になってしまったのであった。


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