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天の仙人様  作者: 海沼偲
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第221話

 二人の死体が転がっている。死体というのはあまりにもむごたらしく放置されているわけだが。一人に至ってはそれが人間なのかどうかすら怪しい。ただ、肉塊としてしか認識することは出来ない様なものでしかない。そんな肉の塊たちにぞろぞろと小動物が集まってきており、放っておいたら、彼女たちは彼らの胃袋の中へと納まってしまうことであろう。それはそれで、自然の循環の中での真理でもある。俺はそれに対して手を出してはならないし、出すことは出来まい。であれば、それを放置することは当然であろう。確かに、自分と同じ姿かたちの存在が食われている光景というのは、あまり好ましくないかもしれない。だがそれ以上に、彼らの生を妨げてはならないのだという思いもあるわけであった。全ての生物は生きる以上の理由で食事を取ることはない。生存意欲がある限り、食事というものをする。表向きでは違う理由であろうとも、真には生存しかない。であれば。彼らの食事をどうして邪魔できるのかという話なわけである。

 老人はこちらを見ている。止めたりはしないのかと言わんばかりの反応であろうが、俺はそういうことをする人間ではないのだ。それを知らないようであった。仙人なのだろうが、お師匠様からは話を聞いていないのかもしれない。俺は新人も新人なのだから、彼のような絶対的な実力者の耳に入らないのだとしても仕方のないことかもしれない。

 ぼりぼりという咀嚼音が背景に流れている世界であった。気持ちのいい音ではない。やはり、同族が食われている音というのは何度聞いていたって、気持ちいいわけがない。ただ、その音から背けてもならないわけである。じっと聞いている。それが終わるまで。演奏会はまだ続いているのだから。

 しんと静まり返った。全てが終わって、逃げるようにどこかへとせこせこと走っていく。そちらへとわずかに目線を向けるが、それだけである。俺たちは背中を向けて外に出る。ここにずっといてもいいことではない。ただ臭気が漂ったままにして、不快感をこみ上げてくるかのようであるのだから。鼻がばかになってしまうかもしれないだろう。それほどまでの臭いなのだから。

 すぐ出てきたというのにずいぶん前から中に潜っていたかのような錯覚を覚える。それほどである。時間の感覚がずれているのかもしれないと思わずにはいられない。なにせ、星の位置が微動だにしていないのだから。数時間以上は下水道の中に入っていたというのに。それが気味が悪くてならないのだ。

 おそらくだが、幻で出来た広場の中にいたというのが原因なのだろう。夢と現を合わせるような、歪んだ世界の中にいてしまえば、時間の流れは全ての信用を裏切ることは当たり前であるのだから。それは絶対にして不変であろう。そもそも、時間という概念そのものが我々の信頼を真に応えてくれるようなものではないのだが。これほどまでに曖昧な世界の中にしか生きることは出来ない。完全は存在しないのだ。どれだけあがこうとも、そこにはたどり着いた物質は存在しない。

 隣にいる存在がそれに近づいているかもしれないけれども。老人という明らかに完全とは程遠いかもしれない姿ではあるが、それが彼にとって最も優れた姿であるかもしれないのだから。老化が止まっているのだ。衰えることはない。人間は永遠の成長と、それ以上の老化によって支配された存在なのだから、今まさに老化のない彼が、どうなっているのだろうか。


「どうした? そんなにわしの顔に何かがついているというのかのう。別に、七十の時に体の劣化が止まったきりじゃから、不気味な怪物のような顔つきにはなっておらんと思っておるのじゃが」

「いえ、そういうわけではありません。ただ、どれほどの月日を生きているのか、存在しているのかというのが気になったものですから。まだまだ、百年も生きていないような自分のような存在には高い存在でありますから。どれほどのものかと気になってしまうというものでございます」

「そういうものか……とはいうが、貴様の魂はもう何年生きておる。生まれ変わり流れも、魂の浄化を必要とせず存在し続けられるというのは、これほどまでにあり得ぬであろう、魂であろうからな。前世ではいくつの歳じゃ。くく、どちらにせよ、成人してその先を行っている魂が穢れをため込むことがないということがどれほどものか……。天人様の御子息様であろうとも驚きはしないのう」


 その言葉には恐ろしいほどに真っ直ぐな気持ちが込められている。正面からぶつけられたのだ。そんなことがあるのかと思わずにはいられない。それだけの衝撃が俺に襲い掛かってきたのである。ガツンと脳みそごと揺さぶられるようなそんな力なのである。

 彼はどれだけ俺のことを評価しているというのか。そんな人間でもないというのに。俺ではまだまだその頂にたどり着くことも、ふもとに立つことすら許されてはいないというのに。自分自身がそんな存在と比べられるということですら、体が震えているのだから、冗談とはいえ彼らの子供なのではないかなんて言わないでほしいところだ。吐き気を催してしまうのだ。体が極度の緊張で震えてしまうのだから。

 頬を思い切り叩く。そうでもしなければ意識が消え去ってしまうのだ。どこかへといなくなってしまうのだ。どれだけの望みがあろうともそれを全て捨て去って、いなくなってしまえるのだ。それだけなのだから。許されはしないさ。全てを諦めて逃げ出してしまうのだから。許されることは決してあり得はしないのだ。生きることに全力でなくてはならない。俺はそれが出来たりはしないのだが。死がなくなれば、それと同時に生もなくなるのだ。今まさにそれが起きてしまっているようで、気持ち悪くはあるが、それが俺なのだから、受け入れなければならない。それが絶対なのである。

 彼の言葉が変に引っかかってしまう。心臓に食い込んで離れそうにない。どれだけ意識を追いやろうとも、そちらへと傾いてしまう。それだけの力を持っているのであった。どうしようもないのかもしれない。しかし、どうにかして振り払いたいと努力をしているのだ。それがほとんどすべて無駄になるのだとしても。むず痒くて仕方がない。それだけの言葉の重みがある。そして、彼はその言葉を冗談であるかのように言わなかった。それが、今俺の体を蝕んでいるわけである。冗談であれば、簡単に流せるような話を、そうではないように言ってしまえば、言霊の重みはより増してしまい、俺のような未熟者では追い払うことが出来ないわけであった。

 ぱちんと乾いた音が響いた。すうと通り抜けていくかのように綺麗な響きなのである。一瞬の音がこの町全体を覆って、そして通り抜けていった。それのおかげで俺の意識がまるできれいさっぱり消えてなくなったかのようである。今までこびりついていたものが全て剥がれ落ちてしまったのである。それだけ軽く感じるのだ。清浄にこびりついた正常、それを完全に落とすことが出来たのである。俺は音のなったほうへと視線を向ける。誰が鳴らしたのかという疑問であった。

 黒の中から何かが蠢いているように見える。そちらへと目を凝らすと、そこにはお師匠様が立っているのである。こちらへと歩いてきているのだ。何かをしてしまったのかと思えるほどに鋭い目つきなのである。一瞬ちらりとみるだけでは、何度見たって自分が怒られるのではないかと思ってしまう。そうではないのだとわかっていようとも、体はなぜだか反射的に避けてしまうのだ。

 お師匠様は、俺の隣にいる老人の姿を見ると驚いたように目を見開いたのである。やはり、驚くだけの大御所が俺を助けに来てくれたということなのだろう。であれば、どんな顔をすればいいのか。お師匠様の程度でも畏れ多いというのに、それよりも上の存在なんて見つめることすら目を焼き尽くしてしまうだけの大逆なのではないかと思わないでもないのだから。実際そういうわけではないのだろうが、気持ちの問題としてそう簡単に整理できるものではありはしない。


「まさか、あなたがここに来ているとは思いませんでしたよ、老師様。普段ならば、自分の居場所にでんと座って動くことなどあまりないというのに」

「下の人間が危険な状況にある中で、自分しか気づいていないということがわかれば、助けに行こうというのは当然じゃろうて。まあ、出来ることならば、あの結界の中身も完全に理解できるようになってもらえると嬉しいのじゃが」

「そうは言いましても……完璧に歪みを歪みとして放出することなく、世界の一部として溶け込ましていたものですから、気づくことはないでしょうよ。俺よりも上の存在が簡単に気づくことはなく、ただくつろいでいたものでございますから……。俺だって、無のところからあいつが出てきたことを不審に思ってやってきた次第でございます」


 老師様は仕方ないというような、そんな砕けた表情を見せている。それを見てほっと一息吐き出すのである。お師匠様にだけ恐ろしいだけの圧力をかけていたのかもしれない。羽根の一枚一枚がリラックスしているように軽くなっているように感じるのだから。どれだけ恐ろしいのか。俺は永遠に味わいたくはないものである。

 とはいえ、俺はお師匠様たちですらも気づかないような世界の歪みを生み出してしまうような存在を相手にしていたということである。よく存在を消し去られることがなかったと思う。奇跡に近い話だろう。普通ならば、存在がこの世に一片も残ることはないだろうから。それが出来るだけの力を持っていたわけであり、抗えるだけの力を俺が持っていなかったというのもある。そして、存在が消えるというのは今世のみではなく前世も含めてのことである。記憶を残した存在というのは、今世はもちろんのこと、前世の存在も受け持ってしまうのだ。浄化をすることによって、彼岸へと預けることの出来る前世の存在すらも持ち込んでいるのだから。

 存在が消えてしまえばどうなるだろうか。少なくとも、ハルたちは俺たちのことを記憶のかけらにもなくなる。俺と夫婦であったということすらも忘れる。兄さんたちだって、父さんたちだって、そうだ。俺が家族に存在していたことは忘却される。俺が残っていた痕跡はすべて消滅する。もしかしたら、聖域までもが消え去ってしまうかもしれない。それが、前世の世界にまで及んでしまうのだ。俺は、どれだけの人間を悲しみのそこへと落とせばいいのだろうか。それも、彼らの深層には気づかれることのない方法でもって。これこそ、大逆の極みであることは間違いない。

 そうではない。今はそうはなっていない。奇跡的な確率でもって、そうなることは免れたのだ。歪みに取り残されることはなく、閉じ込められることはなく。今もまだこの世界に足をつけて存在していることを許されている。それがたまらなくうれしいのである。世界に見放されてしまうということこそ、俺が避けなければならないことなのだから。仙人として生きていけなくなれば、どうなるのか。恐ろしくて考えたくもないのだから。今までもそういう人はいないことを願うばかりである。


「それにしても、貴様は狙われやすいな。敵対勢力のほぼすべてが、俺たちの弱点として貴様を狙うことは間違いないかもしれないだろうよ。いつかは殺されてしまうかもしれない。今日もまたその危険になったのだからな」

「いやあ、それはないじゃろう。決してないと胸を張って言うことが出来ようぞ」

「どういうことでしょうか? まだまだ彼は未熟者です。いついかなる時であろうとも、相手からしてみれば簡単に消し去ることの出来る存在として目をつけられていることでしょう。常に誰かが守っていられるわけではないのですから」

「いいや、そんなことはないじゃろうのう。こいつは、恐ろしい。恐ろしいのじゃからな。今はまだわかりはしないじゃろうが、それにたどり着いてしまったとき、誰も手には負えんよ。世界が一つ壊れ、そして生まれる。一つの世界が、自然が味方をする。これじゃあ、勝ち目はありはしない。むしろ、それが起きる前にわしらで助けなければならないのじゃからな」


 すうと、血の気が引いていく。そんな感覚である。今発せられた言葉が、あまりにも不気味なものとして俺の体で渦巻いてしまっているのだから。

 お師匠様はそんなことはないだろうという不信感を持って、見つめているが、あまりの真剣な目つきに気圧されてしまったようで、何も言うことは出来ずにいるのであった。それがたまらなく俺を不安にさせているということを十分に理解してほしいのだが、それが出来そうな様子ではない。

 ただひたすらに、俺の心を虐めるかのように、圧力をかけている。二人してだ。そうでなければこの場にいることだけで、苦しいなんて感情が生まれるはずがないのだから。どれだけ、重圧をかけて、人を怯えさせようなんて思っていようとも。


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