第220話
衝撃が襲ってくることはなく、俺はただこらえるように顔を守っているだけである。明らかに時間が経ちすぎているのだ。数秒もないような、そんな時間でしかないが、一秒もかからないで移動できるのであれば、これだけの時間を無音で経過しているというのが、あまりにも不気味に感じてならないのである。しんと静まり返っているかのようなのだ。息も、なにもないのである。これほどまでに静かな世界というのはあるのかと思わずにはいられない。
そっと、顔から腕を離して、周囲を確認してみればわかる。俺の目の前には一人の男が立っているのだ。一目見れば、明らかに年老いた男性。今すぐ死んだとしても誰も驚きはしないほどにしわの深い男性。そんな人が、肉の塊の前に立ち片腕で押さえつけているのである。体格差から考えても、吹き飛ばされるであろうというほどの質量の兵器を相手にして、全く動揺も見せることはないのだから、どれほどであろうか。少なくとも、彼は俺以上の実力者であろう。勝ち目が全くない。唯一の救いといえるのは、俺と彼とが敵対しているわけではなさそうだということである。そうでなければ、俺を守るようにして立っているわけなどないのだから。
困惑が支配していく。いつの間に来たのか。いつからいたのか。どうして俺を助けているのか。その全てが疑問として頭の中に浮かんでいるわけである。だが、それを応えてくれそうな人間はいない。それどころか、それを応える状況ではない。今この空間全体が驚愕と困惑の中に埋もれてしまっているというところもあるわけなのだから。
足を振り上げて、その軌道上にあった敵の顎を打ち砕いた。骨が砕けるような轟音を鳴らして、上空へと飛んでしまった。そして、数メートル離れた所へと落下していく。もう十分なのである。たったそれだけで実力差をわからせるだけには十分なのである。ただ、彼は、相手を逃がすつもりは全くないだろうが。当然なわけだが。キメラなんていう存在はこの世に残してはならないのである。今すぐにも出抹消しなければならないものなのだから。
女の顔には明らかな動揺が見て取れる。先ほどまでの勝ち目しかないような戦いからは一転してしまったのだから。今はただ、目の前にいる老人になす術もなく蹂躙されてしまうさましか思い浮かばないのだろう。それだけ格が違うのである。ただ立っているだけでしかないというのに、それだけで十分に俺たちに力を見せつけることが可能なのだ。手を出そうなどとは思いはしない。絶対に不可侵なものとして君臨しているであろう存在なのだから。
「もう一人増えましたね……。最悪極めていますよ。しかも、今一番来てはならないような存在が。どうして彼がこの場所に来ているというのか。世界に興味をなくしたのではなかったのでしょうか。そうでなければならないというのに……。世界のバランスを崩壊させているということを理解しなければならないということを、いまだに理解できていないようですね」
「ふ、ほざくのは大概にしろよ、雌。なにやら下位の者が危険な目にあっているような気がしたものだから、来てみれば、これほどまでに貧弱な肉に負けそうになっているとは思わなんだ。最近の奴らは、これほどの相手にまで手も足も出ないほどに弱い存在になり果てているというのかのう。それは、決してあってはならない。ならないのだ。仙人は、この世全ての世界の調和と自然を管理しなくてはならぬ。不自然の存在を、完全にそして完膚なきまでに叩き潰さなくてはならないというのに、一体これほどの体たらくとは、何事だろうか」
彼は俺の方を向いて、不満を漏らしているようであった。そして、彼が仙人であるということもわかった。なるほどならば、俺を助けに来るというのもわかる。ただ、俺に文句を垂れながらというのはやめてほしいところであった。なにせ、明らかに俺と彼とでは生きている時間も、仙人としての時間も大きく違うと思う。彼が容易に処理できる位まで行くには、俺はどれだけの時間を生きなければならないのだろうか。そう思うわけなのだ。だからとは言わないが、目の前の相手を倒すには、今はまだ実力不足なのだというのも仕方のないことなのではないかと、思わないではないのであった。
ただ、それを許容したとしても、今目の前の敵を相手にして倒すことが出来なかった、実力不足であったということを悔やまないというわけではない。必ず、俺の手でつぶしてやりたいという思いがないわけではない。しかし、それが出来ない。あまりにも未熟であるから。力がないから。足掻こうにも、それを乗り越えられないだけの力しか持ち合わせていないのだ。それが悲しくて、虚しい。拳を握り締めることだけが精いっぱいなのである。
目を閉じている。あまりにも無防備である。それでは攻められるのではないかと思うほどに隙だらけなのだ。一見すれば。ただ、そのたたずまいから、隙を感じることは出来ない。むしろ、絶対的な力の差しか感じることはない。筋肉の一つが、調和しているように、しんと静まり返っているのだから。完全に力を外に見せていない。動きの一つも見せていない。実力の底が見えない。それがどれだけ恐ろしい事か。敵ではなかったということにこれほどまでの感謝をしたことはないかもしれない。
それと同じくらい、彼の存在している位置にたどり着くことが出来るのかという不安が生まれる。彼は仙人なのだ。いずれは、俺もその頂、そしてその先へと登りたいと思うのは当然だろう。しかし、そこへ行くまでのビジョンが完全に霧の中に覆われていて隠れているのである。探すことすらも困難に変えてしまうような、夢幻の霧なのである。現の世界に存在しているのか。
こっそりと逃げ出そうとしている相手に一瞬で詰め寄りそのまま地面にたたき伏せる。ただ速い。それだけで十分なのである。たったその表現のみが、彼の実力を証明する一つの言葉であり絶対なのである。絶対的な速さというものを持っているのだ。相対的なものであれば、誰でも持ち得るだろうが、それすらも追い抜くかのような絶対なのである。何も言えはしない。考えの更に一つ上に位置しているのだから。勝ち目がないなんて言うものは、そもそも起こりはしない。同じ土俵にまず立てなければ勝ち負けが生まれないのだから。それに立たせてもらえることすらできていないのである。
「く、はっ! くそったれが!」
「下品な言葉を使ってはならぬぞ。それは人の品格を貶める。貴様は今まさに、自らの手によって自身の魂を汚しているわけだ。そんな浮上の存在に対して敗北してしまうほど弱い存在ではないからな。覚悟して、今までの人生と、これからの数分もない人生、そして来世へと思いを馳せてみるがいい」
「くたばれ、仙人ども! 貴様らの生を冒涜する魂をわたしたちは決して認めたりはしない。どれだけの輪廻を繰り返そうとも、確実に撃滅してやる!」
罵る言葉が飛んでいる。しかし、それも気にすることはなく、押さえつけているだけである。ただ、当然のようにキメラは佇んでいてこちらを見ている。いつ動き出すのか。その前に倒しておかなければならないのではないか。そう思う。そして、彼女の方が一瞬早くキメラに助けを求めたわけであった。
助け出そうと肉の塊は動き出すのだが、それもまた遅い。彼の前では止まっているようにしか見えないのだろう。一つの拳が前に出されて、その一撃のみで腹に大きな穴が開いたのである。俺の体に開けられた大穴を容易に超えるだけの穴なのである。それほどの衝撃が打ち込まれたということなのだろう。俺にまで突風が襲い掛かってきてしまうほどなのだから。目の前で食らったのだとしたら、俺ならば、肉片が残ることすらも怪しいかもしれない。
ただ、キメラは穴が一つ空いたからといって死ぬわけではない。すぐさま修正を行う。たとえそれが、命の無理やりに消費するものであったとしても。キメラにとって生きるべき時間は未来にはないのだ。今この瞬間を万全に戦える状態でい続ける。それが彼の本能として組み込まれているものなのだから。ボコボコと肉が蠢いていて、再生しているのである。気味が悪い。俺の腹の肉もそうやって再生したのかと思うと、顔をしかめるほどではあるが、それが最も効率のいい再生の仕方なのだろう。それに、今の俺の腹は綺麗に治っていて、大穴が空いていたとは誰も思うまい。
ただ、彼はそれを待っているわけはない。相手が完全になる前に潰すのは当然であり、もう一度拳を突き出して、再び穴はあけられる。それと同時に、もう片方の拳が脊柱を沿うようにして振りあげられるのであった。衝撃は上へと飛んでいく。顔面が吹き飛んだのだ。肉の残骸へとなり果てて散り散りになってしまったのである。眼球が俺の目の前にべちゃりと落ちてきて、それを証明しているようである。もぞもぞとかろうじて生を渇望していたのだが、俺はすぐさま叩き潰すことで、それも完全に潰えてしまう。今では、かろうじて手足が残っているというのみになったのである。
彼女はその光景を目の当たりにして、唖然としたように口を開けてただ見ているだけであった。何も言うことは出来ない。意識が飛んでしまったかのように固まってしまっているのだから。圧倒的な暴力を見せつけられるというのは、こういうことなのだろうとわかるのだ。それだけなのだ。形容する必要はない。その形容が彼の強さを弱めてしまうように思えてならないのだから。
だんだんと彼女にかけていく力の量が増えていく。悲鳴を上げることが精いっぱいで、逃げ出すことは出来ていない。顔を涙と鼻水とやらで、ぐしゃぐしゃに濡らしているばかりであって、必死に命乞いをしているのだから、それは相手には通用しないのである。少しも心が動いていないのである。ただ目の前にいる敵を殺すことのみを考えているというような、そんな目つきであった。
たしかに、キメラを生み出した存在というのがそう簡単に許されるものではなく、今のように殺されたとしても文句を言う筋合いはない。そのために、同情なんてものはないのだが、ただあまりにもじわじわと痛めつけるように殺していくというさまが残酷だと思わないわけではなかった。死ぬまでの間、ひたすらに叫び嘆き、自分の生を呪うようにしながら、命が潰えていくのだ。もっと楽に殺してあげればいいのではないかと、思わないでもない。例え敵でも愛をもって殺してあげなくてはならないのではないかと、思わないでもないのだ。
しかし、俺に手を出させないようにある程度の警戒を見せている。敵ではないだろう。仲間か、味方なのだとは思うが、それだとしても、仇を見るかのような警戒心を向けているというのはこちらとしても気が気ではない。何がきっかけで、俺も敵になってしまうのかと怯えてしまうほどであるのだから。仙人同士だというのに、そういった警戒心が心の奥底に湧いているのである。
一つ、軽いようなそして爽やかな音が響いた。めったに聞くことはないような、それでいて、心地よいと錯覚するほどに軽やかな音色なのである。彼女の骨という骨がすべて砕けた音であった。今まさに彼女は死んだのである。全身が複雑に骨折して、そして内臓を傷つけまくっている。口から血を吹き出しながら、命を終えたのだ。安らかな顔か。いいや、そんなわけはない、この世の全てを恨むかのような亡者の顔だ。俺は、彼女がこの地に残り続けることはないようにと、祈りを捧げる。少なくとも、死んだあと、生まれ変わった後の世界では幸せを満喫することが出来るようにと、祈るわけである。
すると、この場所は幻であったかのように崩れ去り、ただの下水道へと変わっていった。今までの大きな広場の様子は完全になくなったのである。一つの道でしかなくなったのである。幻覚でありながら、それを本物としてこの世界に固定していたということになる。恐ろしい実力者だ。こちらにはそれを使うことはなかったが。もしかしたら使えなかったのかもしれないが、どちらにせよ、その気になれば、もっと自分たちが優位になれる環境で戦うことが出来たということなのだろうから。
なにやら、俺のことをじっと見ているようで、目の前の老人は視線を固定しているのである。どうしたものかと疑問に思わないわけがなかった。答えてくれるかはわからないが、それでも聞いてみる。
答えてくれはしない。何か濁すようにそっぽを向いてしまった。一体何があったのだろうか。ただ疑問だけが増えるばかりであるのだ。あまりにも知らないことが多すぎるのだと思わずにはいられない。




