第219話
幸いなことに、相手はキメラだけに戦わせるつもりで、自分では全く動くつもりがないということであろう。彼女自身の口から戦いが得意ではないという言葉が出ているので、それは事実なことなのだろう。そのおかげで、目の前にいる肉の怪物のみを相手すればいいのだから、警戒する相手が少なくなる。だが、それでも完全に意識の外に追いやることは出来ないのだが。ただ、相手が出張ってくる必要はないのだと思っている程度に、俺の実力を下の方向で評価しているということでもある。たとえ、下の実力であろうとも、二人に連携されるというのは想像以上の苦戦を強いられるのだから。それがないだけでも、ありがたいと思わなければならない。
空気を裂くような爆音とともに、キメラが拳を振りぬいてくる。余裕をもって避ける。動いたと思った瞬間にはもう完全に退避できていなければならない。そうでなければ間に合わないかもしれないほどの一撃である。拳圧で地面にひびが入ったのだ。ぞっとする。それが自分の体に当たらなくて良かったと心の底からほっとする。一撃で死ねるだろう。それだけの一撃なのである。
彼女はチラリとも視線をこちらに向けることはなく、何か作業をしているようである。完全に俺たちのことを意識の外に追いやっているように見えるのだ。だが、それに対して怒りであるとか、そういう感情が起きるわけではない。そんなことは決してない。それ以上に注意を向けなくてはならない存在が目の前に立っているのだから。少しの遅れが致命傷になるような相手が。
もう一撃が飛んでくる。瞬間の間に生まれている。もう目の前なのだ。瞬きすらしていないというのに、それでも認識できるギリギリの速度で移動しているわけである。大きな動きで避けなければならない。反撃のための体勢を保ちつつ、避けるなんて芸当が許されないだけの暴力の嵐が飛んでくるのだから。空圧の力も借りるようにしながらあえて、吹き飛んでキメラとの距離を取ったのである。そうでなければ間に合わなかったかもしれない。それほどなのである。恐ろしい力である。
彼女の慢心ともとれる態度、それは実際正しいことかもしれない。キメラの攻撃に対して、反応は出来ているものの、反撃に移ることは出来ていないのだから。避けるだけで精いっぱいなのである。それが今の限界なのだ。どうしようもない。攻撃を受け止めれば、なんとかなるかもしれないが、それをしてしまえばほぼ確実に俺の体が使い物にならない。一撃を出すこともできないことであろう。本末転倒である。なので、しっかりと様子を伺いつつも、攻撃を避けることに全力を出さなければならない。俺は仙人なのだから、疲れが出てくるということはないというのも、救いであろう。
轟音を伴って、突き出される拳を何とかして回避しているわけであるが、今まさにすれすれで通り過ぎる拳の圧力だけで、体が持っていかれてしまいそうになる。果てしない筋力であろう。さすがはキメラというだけはある。生きながらにして死んでいる、瞬間の生命体だ。俺は彼を絶対に認めてはならない。彼の存在を今すぐにでも抹消しなくてはならない。だというのに、実力がないために、出来ないでいるのだ。恐ろしい程の実力差のせいで、手を出せないでいるのだ。
キメラは組み合わせる前の生物の実力によって左右される。そして、どれだけの数の生物を融合させたかというのも決め手になる。ということは、仙人と対等、またはそれ以上の実力を持ち合わせたキメラというのは、どれほどの生物と実力者を取り込んだということになるのだろうか。考えたくはない。なにせ、彼は死を迎えることなく、無理やりに働かされているのだから。戦うことのみを出力しているのだ。それ以外の全ては今の彼には存在しないし、求めることはないのである。その素材となっている生物全てを冒涜しているわけなのだから。死にながら、死すらも弄んでいる存在なのである。
世界で最も醜い存在である。生き方が醜い。あってはならないのだ。生物を冒涜し続けるだけの欠陥のみで存在し続けるなんてことは、許されてはならない。というのに、それを実行できない自分自身の弱さにも怒りが湧いてくる。今この瞬間にこそ、仙人としての実力が試されるというのに、そうすることが出来ないでいるのだから。
彼の拳が俺の右腕をかすった。たったそれだけ。確かにすぐそばを通り、俺の肌をこすっていったとわかった。だというのに、あまりの衝撃に肉がえぐれる。肘から下の腕が完全に消滅してしまったのだ。ぞっとする。これが俺の胴体にぶつかってしまえば、俺のどちらかから一方は完全に消え去ることであろう。そしたら、死ぬのだろうか。途端に恐怖が湧き出てくる。今まで死ぬこととは縁がなさ過ぎたために、いざ目の前に出てきてしまえば、それを退けるだけの精神を構築出来ていない。
先ほどまでの石を殴っているような感触とはまた違った音を聞き取ったようで、彼女はこちらへと視線を向ける。目が合う。輝かせているのである。純粋無垢な子供であるかのように輝いた目をしている。先ほどまでの死に絶えているような目からは考えられないほどの美しさであろう。彼女もそれだけの瞳を持っていたのである。
ズシリと響くように一歩ずつ歩いてくる。キメラの足音は生を踏みつぶしているかのような幻覚の中にあった。恐ろしい。ただ歩いているだけですらも、根源からの恐怖と不快感を湧き上がらせてくれるのだから。とても醜悪な笑みを浮かべているというのも非常に優れていることだろう。相手が弱っている時に笑みを浮かべるというように教え込んだのかもしれないが、それだとしても、今の状況において、これほどまでに作用することはない。心の奥底、深くに訴えかけてくるようなものなのだから。
前の生と、今の生は違う。一度経験した死というものは前の生の終わりというだけである。生まれ変わった俺に死という恐怖が宿っても、死に対する耐性はありはしない。同じ俺でありながら、全く別のものとして存在しているのだから。そこを一つに繋げることなんて出来はしないだろう。だから、今目の前に現れてきた純然たる死という概念に恐怖を見てしまうのだ。
今までたくさんの人間を殺してきた。愛であったり生であったり、いろいろな名義の中でどれだけの数を殺したか。俺もいずれは殺されるかもしれないなんて言う思考はあった。それだとしても、いざ死ぬかもしれないとなれば怖いと思うのも当然だった。ただ、だからといって今まで殺してきた大多数に謝罪の気持ちはない。あれは俺の中での正解なのだ。そして今もまた正解。簡単な話として、殺されなければいい。恐怖は退けられるものでもある。ただ目を背けるという退避の仕方が出来ない。それだけ。ただ真正面から立ち向かうことでしか回避することの出来ない圧倒的な恐怖というだけなのだから。
ゆっくりと俺の右腕は再生していく。当然であろう。気の巡りの中で、俺は自然と一つになり、自然は元のあるべき姿へと形を取り戻そうとするのだ。それの影響において、俺も同じくあるべき姿として、腕の再生が行われる。ただ、自然再生には、時間がかかるので、魔法を使って早めてはいるが。そうでもしないと、ゆっくりとしすぎて長い時間を待たされるのだ。今まさに危険な状況でそうのんびりとはしていられない。今も近づいてきているキメラを相手にしてすぐに逃げられなくてはならないのだから。
自分の体を再生させるのは、ある程度の魔法を扱う腕があれば、この世界の人間は当たり前のように出来るので、相手には驚きは見られはしない。数秒もせずに完全に完治して、何事もなかったかのように立ち上がったとしてもだ。ただ、それをすると恐ろしい疲労感と倦怠感に襲われるから、そうはなっていない俺を、やせ我慢をしていないということがわかって、感心したような反応を見せてはいるが。これが魔力の消費すらもほとんどなくしてしまう仙人としての実力なのである。死というものから遠ざかってしまう存在なのである。遠ざかっていなくてはならない存在なのである。
彼女は大声を張って、キメラを止める。どうしてなのかがわかっていないようだが、どうやら俺と対話したいのだろうということが伝わってきた。今ここまで危険な状況で、圧倒的な優位な状況の中で、何を話したいというのだろうか。たまらなく不気味である。先ほどまでの澄んだ瞳は消え去って、くすんでしまっているということも残念でならない。
「いやあ、さすがですねえ。どうやって殺してやりましょうかねえ。そこまで強くはないと思うのですが、絶望的なまでに死ににくい。ゴキブリよりも生存能力が高いというのは嫌になりますねえ。頭だけにしても、数週間は生き延びそうなところが最高に厄介極まりますね。さて……完全に肉片にするくらいしか思い浮かばないのですが、まあ、うちの相棒ならば、出来そうな感じはありますかね」
「そうか……まあ、まだ負けたと決まったわけではないだろう。全ての流れにおいて、勝敗が決まる瞬間は、命が潰えた時だけなんだ。そうでない限り、俺に勝てる可能性は残り続けるわけだし、貴様たち二人が死ぬことだって、なくなりはしない。仙人の生命力を、力を舐めちゃあいけない」
すとんと、楽しくなさそうに顔から感情が抜け落ちる。怒っているのか、呆れているのか。それすらもわからない。人形みたいなほどに無機質な顔つきである。そんな彼女の合図で、キメラは再び動き出す。俺の急所へとむけられていた以前までの攻撃とは大きく違って、ただ一撃を当てるということのみに特化した軌道である。当たればどこかしらの肉が吹き飛んでくれるだろうという魂胆であろう。そして、それがあまりにも有効なのである。
俺の回避が間に合わなければどこかに当たる。完全に集中して避けるということのみに意識を使わなければなるまい。他のことは何一つとして考えてはならないのだ。今では、死の恐怖すらもどこかへと放り捨てなければならないというほどに、切羽詰まってしまっているのである。ここまで追い込まれたことなんて、あっただろうか。壁にぶつかっているのかもしれない。乗り越えなければならない絶対的な壁が、今目の前に立ちはだかっているのである。
拳の一振りだけで空間が歪んでいそうだ。たったその場所が悲鳴を上げているのである。女みたいにキンキンした声で嘆いている。叫んでいる。俺たちの耳を侵しているかのような絶叫をもたらすのだ。これほどの攻撃があるだろうか。キメラには感覚というものもほとんど捨て去られてしまっているので、どれだけの不快な音を鳴らそうとも、関係はない。全くの被害がないのだ。だからこそ、常に全力を出せる。その結果として、空間の歪みでどこかの世界へとつながったとしても関係はしない。
今も、彼の一振りが原因で、手足あわせて八本のトカゲが出てきた。目玉が飛び出ているようで、顔つきは一瞬だけだが出目金かと思ってしまったほどである。陸上の生物で、ここまで眼球を飛び出す意味はあるのかと思いたくなる。それだけ顔が小さいということもあるわけだ。眼球と顔の大きさが同じというのはどういうことであろうか。全くもって謎な進化を遂げている生物もいるものだ。少なくとも、この世界の生き物ではない。俺は、彼の攻撃を回避しながら、それを踏みつぶした。そうしなければなるまい。彼の存在が、この世界の自然を大きく破壊することはあり得ないことではない。
だが、その大きな隙は俺の胴体への一撃でもって伝えられる。俺の侵入者に対する対応を逆手に取られてしまったのかもしれない。ボカンというふざけたような爆音がさく裂し、俺は吹き飛んだ。壁にぶつかって止まるわけだが、十数メートルもの距離を一瞬で移動したというのは、恐ろしいところである。そして、俺の体がどうなってしまったのかというのを知るのもまた、恐ろしいことである。見たくないのだ。
だが、見なければなるまい。今まさに現状を確認しなければ、被害を確認しなければ、次に動くことは出来ないのだから。そこで逃げに走ってはならないのである。それが辛いところであろう。
どうやら俺は、意外と頑丈であるらしい。腹に大穴が開いている。ただ、それだけであった。衝撃で周りの肉も吹き飛んで、上半身と下半身がバラバラに飛び散ってしまうのかと思ったのだが、そうではないようだ。そこだけは喜ぶべきことであろう。穴さえふさげれば、問題ないということなのだから。
ただ、それをするだけの時間を相手はくれるだろうか。ほとんどあり得ないだろう。なにせ、ほとんど一直線に俺へと向かってきているのだから。今すぐに再生を開始しており、後数秒も経たないで、完全に回復できるのだが、その数秒があまりにも長く感じてしまうのだ。彼の視線と俺の視線は完全に合っている。俺の顔面を狙うのだということを目つきのみで完全に理解してしまう。
顔を守ろうという動きは意味のないものとなるかもしれない。どれだけの価値があるだろうか。それでもしないではいられない。意味がない事であろうとも、足掻こうという最後の生存意欲のみに引っ張られるようにして、魔力で、気でもって、顔面周辺を守っていくわけであった。




