異変 三田薩摩藩邸
時は慶応三年、再び薩摩浪士隊へと話を戻す。
大樹は江戸に来てから、鬼になると決めていた。
迷いを捨て、これこそが正義なのだと、大義を成すためには必要なことなのだと自分に言い聞かせた。
だからこそ、刃向かう者には一切躊躇しない。
相楽の邪魔をする者は、徹底的に排除した。
元々剣の才能に恵まれていた大樹は、いつしか人を斬らせれば浪士隊一とまで言われるようになった。
それと同時に、人々から恐れられる存在となっていった。
まるで、人を斬るためだけに生きているかのようだった。
大樹から笑顔が消えた。
人が変わったように人を斬り続ける大樹を心配する者もいた。
だが、彼を止める者は誰もいなかった。
それほどまでに、大樹は誰よりも頼れる存在となっていたのだ。
それからというもの、江戸市中の治安は急激に悪化していった。
火付けや辻斬りは当たり前。
御用盗を名乗り、罪のない人々を襲う偽物まで現れる始末だった。
その下手人達が堂々と薩摩藩邸に出入りしているという噂は瞬く間に広まり、薩摩が何かを企んでいるのではないかと、幕府も警戒を強めていった。
大樹達が薩摩藩邸に来てから、半月が過ぎた頃の夜のことである。
市中から戻ってきた大樹は、門番の姿が見当たらないことに気づき、眉間にシワを寄せる。
「何かあったのか……」
門の外に異常はなかった。
つい先ほど確認したばかりなのだから、間違いない。となると、問題は屋敷内ということになる。
大樹はしばらくの間、一人で屋敷内を見て回った。
屋敷内といっても、薩摩藩邸は莫大な広さを誇る。闇雲に探し回ったところで、一人では限界があった。
糾合所や、自分達が暮らしている屋敷の周辺を見回ってみても、異常は何も見つからない。
「あと考えられるのは、座敷牢か……」
座敷牢は、不逞浪士を捕らえた際に閉じ込めておく場所だ。
灯りもなく薄暗い座敷牢には、夜になるとめったに人が近づかない。
「おい!誰かいないのか!?」
遠くから、聞こえてきた大樹の声に反応した渋谷が、様子を見に彼の元へやって来た。
「大樹君、座敷牢に行くの? 一人であそこに行くのは危険だよ……僕も一緒に行こう」
「渋谷……ありがたい」
二人は、少し離れた場所にある座敷牢へ向かった。
座敷牢の近くには、隊規を犯した者を処刑する処刑場もある。
その奥には、処刑された者達を埋葬した墓が無数に並んでいた。
「いつ来ても気味の悪い所だよね……」
「だが、何かあるとしたら、ここくらいだろ?」
「何もなければいいんだけど……」
その時だった。
「嫌だ……誰か助けて……」
座敷牢の中から、女の悲痛な叫び声が聞こえてきた。
それを聞いた二人は、慌てて座敷牢の中へと駆け込んだ。
そこでは、二人の門番と数人の浪士達が、奇妙な着物を着た女の衣服を無理やり脱がせ、乱暴しようとしていた。
「助けて……お願い!」
女の衣服ははだけ、露わになった白く透き通るような肌が、月明かりに照らされてはっきりと見えた。
長い黒髪は乱れ、潤んだ瞳からは大粒の涙が零れ落ちている。
それを見た瞬間、大樹の中で何かが切れる音がした。
怒りで我を忘れ、気づいた時には女に群がる男達を引き剥がし、その場にいた者を一人残らず斬り捨てていた。
座敷牢に響き渡る断末魔の叫び。
辺り一面に立ち込める血の臭い。
そこは、まるで地獄のような光景だった。
「ハア、ハア……」
「お……大樹君……」
「……」
あまりにも一瞬の出来事に、渋谷は大樹を止めることも出来ず、ただ呆然と見ていることしか出来なかった。
女は目の前で起きた惨劇に意識を失い、ぐったりとしていた。
大樹は自分の羽織を女に掛けると、その身体を抱き抱えた。
「この娘さん、見たこともない着物を着ているね。袴もこんなに短くて……」
女が身につけている袴は膝上までしかなく、素足が露わになっている。
見慣れない光景に、渋谷は目のやり場に困った。
「どこから来たんだろう? あまり見かけない娘さんだよね? 年も僕達とそれほど変わらなさそうだ」
「……」
大樹は意識のない女の顔をじっと見つめた。
この女……どこかで会ったことがある?
いや、そんな筈はない。
江戸へ来てから、女とはほとんど関わりを持っていない。
こんな特徴的な女だったら、忘れる訳がない。
きっと、気のせいだろう。
目が覚めたら、すぐに家へ帰せばいい。
その時は、そう思っていた。




