第4話 願いの大樹と紅天銀花の櫛
大きく嘴をあけて笑えば、あふれた大きな泡がこぽりとこれまた珍妙に鼻の孔に張り付いて、力の抜けた顔が泡にゆられてますます締まりのないものになって映る。
弥太の締まりのない顔と嬉しそうな奇声につられ、女の子がころころと鈴の音のような笑い声をあげた。
「童っ子、主は面白いな。言の葉を交わすのも久しいが、こんなに心地よく愉快に笑うは尚久しい」
~本文より
「えぁっ」
弥太はまたまた驚いて頭を上げ過ぎ、命皿をしこたま樹にぶつけてしまった。
「いっ、痛たー」
頭を抱える弥太に、女の子はニコニコしながら
「新しい遊び方か? 童っ子。ただ命あるものが自分で自分を痛めるのは、幾ら遊びでも感心せんぞ。それは駄目であろ」
と言い終わらないうちに弥太の命皿のふちを撫でる。白くてきれいな手に撫でられると、痛みはさっぱりと四散した。
それどころかとても気持ちがいい。
撫でられた所から、すーっと爽やかで優しいものが流れ込んでくる。
清々しく、ひたすらに清々しく癒される。
気持ちのよさが頭から身体中に拡がり駆け巡り、もうたまらない。
弥太は甲羅と尻尾をぶるぶるさせて
「うひょひょひょひょ」
と嬉しそうに奇声をあげてしまった。
大きく嘴をあけて笑えば、あふれた大きな泡がこぽりとこれまた珍妙に鼻の孔に張り付いて、力の抜けた顔が泡にゆられてますます締まりのないものになって映る。
弥太の締まりのない顔と嬉しそうな奇声につられ、女の子がころころと鈴の音のような笑い声をあげた。
「童っ子、主は面白いな。言の葉を交わすのも久しいが、こんなに心地よく愉快に笑うは尚久しい」
またまた愛らしく笑うその笑顔とその声に泉の水が応えてきらめく。
弥太はその笑顔を眺めてすっかり安心した。
痛いのを治してくれたし怖いものではない。
それどころかすごく優しそうだ。ここの守り主様か水神様かもしれない。姿や形ではない立ち昇る何かを嗅ぎ取って弥太は思った。
「あの、勝手に入ってごめんなさい。おいら、そのー」
と伏し目がちになって言いかけた嘴を、白くてきれいな手がそっと塞ぐ。
「わかっておるよ、童っ子。心配せんでも良い。その前に腹ごしらえをせねば、な」
安心するのと同時に、腹がぐぐぅと唸っていた。聴かれていたらしい。弥太はちょっぴり恥ずかしくて、もじもじした。
不思議な女の子はそれを見透かして、
「命あるものは食すこともまた大事。恥ずかしがる事等何ぞあろう。そら、この樹のうろがあそこに見える。そこを探ると良かろ。主の願いが形となるゆえ」
にっこりとしながら一点を指し示す。指さされた先に確かにうろがある。うろは弥太の手が丁度入るくらいの大きさで、深くて中は暗くよく見えない。
弥太は、やっぱり此処の守り主様か水神様だ、などと思いながら、言われるがまま片手を入れて探ってみる。
すると丸みを帯びた何かが指先に触れた。決して間違えようのないこの感触。欲してやまなかったあれだ。弥太の顔がぱぁっと輝く。
「やったぁっ。やったっやったぁ」
待ち焦がれていたものが目の前に。
このために瀧から流れたようなものだ。
濃い紫色をした小ぶりだが丸っとした茄子。小ぶりといっても弥太の掌一杯の大きさで、しかも一個だけでなく、うろの中にはまだ幾つか入っている。
弥太は団栗眼を嬉しさの余りに丸くしながら、女の子を見た。
女の子はそんな弥太に、ニコニコしながら小さく頷く。
(これも持って行け……)
弥太は声を聴いた気がして横たわる巨樹に耳をあてている。すると何やら聞こえているらしくウンウン頷き、またそれに答えながらうろをまさぐっているようだ。
女の子は、弥太が樹に話している様子を驚きの表情で見ていた。それが感心に変わり、ついには華も恥じらうような大輪の笑顔で弥太を見守っていた。
結果、弥太は五つの茄子を手に入れた。
女の子の傍までくると両手で抱えた茄子を見せた。
「主様か水神様っ。有難う。ほらっこれっ」
「遠慮などせんとは思うが、それは主の望みが形を成したもの。味も童っ子の好み通り。気兼ねなく食せ」
と笑う女の子に、
「ちょっと待ってね。ハイ、これは水神様の分」
茄子を一旦足元に置いて、弥太は甲羅の隙間から、両手でも足りないくらいの大ぶりの熟れた柿の実を一つ取り出した。
水神様だと弥太が勝手に決めた不思議な女の子はそれを受け取りながら驚いた表情で尋ねる。
「これはあのうろから出したのか?」
「うんっ」
身体中から茄子を食べられる嬉しさをこぼしながら弥太が喋る。
「まだ入っていたけど全部持てないから取りあえず一個だけ。水神様が好きな物でしょ? 足りない? それとも間違えた?」
不安気な弥太の顔を尻目に、女の子はころころと晴れやかに笑った。
「これは確かに吾の好物であった。永らく味わえておらぬもの。童っ子、思い出させてくれて心より礼を言う。吾のために願ってくれるとは。この通りだ」
女の子は雅やかにお辞儀した。
弥太はまたまたもじもじした。ただ柿を持ってきただけでここまで感謝されるなど、きゅうりの針ほどにも思っていなかったし全力で照れた。
すごく綺麗なお辞儀には全力でお辞儀返しするしかない。
「どういたしましてっ」
身体中の力を使って深々とお辞儀する。膝に眉尻をぶつけるくらいの勢いだった。
弥太のお辞儀の勢いに押された水がほんの少し渦巻く。するとその流れに煽られてゆらゆらと甲羅の隙間から水の中を泳ぎだす物がある。それは流れる髪を美しく飾る櫛であった。
今作られたかのような輝きの螺鈿細工の珊瑚の櫛で、黒漆の金の蒔絵にはめ込まれた銀色ながら虹色に光る貝殻の花々が南天の実を象った紅い珊瑚を取り囲むように配された豪華な細工物だ。
およそ弥太には似つかわしくないその櫛は、ゆらゆらと牽かれるように女の子の掌にそっととまった。
弥太はぽりぽりと皿のふちを掻いた。折角の隠し玉が大失敗だ。一緒に美味しく食べた後にお礼だと渡そうと思っていた。あの樹もその方がいいといってくれたのに。
誰かを驚かせようとしても、いつも上手くいかない。まぁこればっかりは仕方がないか。
「柿を取り出す時に水神様が喜ぶもの何か頂戴って言ったら、あの樹がそれを持ってけって。ご馳走様した後に渡そうとこっそり隠してたの――あれ、水神様?」
弥太は慌てた。
水神様の表情は一変していた。瞳に憂いを帯び、櫛に心を奪われたようにじっと見入っている。
弥太の声もその耳には届いていない。
その姿は、下唇を噛みしめ、泣くのをこらえている只の少女だ。
先程までの神々しさが、女の子の儚げな美しさに変わっていた。
哀しみと嬉しさが交互にその眼に宿る。女の子は小さく震えて、ふぅと小さく息をつくと、その櫛を愛しげに指先でそっとなぞる。
「南天は希望の徴。朽ちることなき珊瑚のたわわな実に祈りを結び、親から子へ、母から子への想いを紡ぐ。万世種根に伝える云わずの紅天銀花の櫛なれば。その祈りを結び伝えよ。想いの櫛と共に」
女の子は謡うように呟き、すいっと音も泡も立てず、巨樹の上に舞を舞うように降り立つと、櫛と柿を両の手に押抱きながら水面を仰ぎ見た。
青く澄み切った水に降り注ぐ日の光が、祈る女の子の横顔を眩く照らす。いや女の子自体が輝いているのかもしれない。
ほんのりと微笑みを浮かべたまま瞳を閉じ、薄雪色の横顔に、水の流れにたなびく黒髪がくっきりと陰影を刻みこむ。どこまでも神秘的でそして切なくそしてまたとても言い尽くせない程の艶姿。荘厳にて華麗であった。
「うわぁー」
弥太の素直な気持ちが言葉になって零れる。茄子のことさえ忘れてしまう程その姿に見とれていた。
弥太の歓声が聞こえたのか、我に返った女の子は弥太に片手を差し伸べる。
と、下から見上げていたはずが、弥太の目の前に女の子が立っていた。いつの間にか自分が樹の上に立っている。
水神様に呼ばれた。
弥太はそのことにドキドキしていた。
澄み切った瞳にどことなく不思議な儚げな光を湛え、真っ直ぐに自分を見ている。
しかも食べることと遊ぶこと以外あまり考えない弥太が歓声を上げる程に、端麗なその見目姿は神々しさも取り戻しているのだ。
「済まなんだな。吾としたことが自分を見失うとは。吾は主のような、いや主の到来を待ち望んでおった。満天の星々に暁天に何度願うたであろ」
女の子は胸に櫛と柿をしっかりと押抱いたまま、弥太を見据えていた。
「吾は今より主を言祝ぐ。よいか何も考えずとも好い。吾の目を真っ直ぐに見よ。よいか」
弥太は水神様――女の子の勢威にただただ頷いた。
「浄玻璃の泉の中に在ることが適うその魂に染みの無き純なるもの」
女の子がゆるりと歩み寄る。
「浄玻璃の泉に在りて他のものを想い、そのものの『願い』を大樹に問えるもの」
白魚のような指を揃えて弥太の水掻きのついた手をそっと取り会釈した。
「そして何より、浄玻璃の泉に在りて願いの大樹の声を聴き届けるに至る真のあるもの。汝の願い、かなえの吾が聞き届ける」
女の子は弥太の手を取ったまま、ふわりと泉の上へ上へと昇ってゆく。ついには水面に出ると、泉の水が青碧の巨大な龍となり女の子と弥太を頭上に載せて更に高きに昇る。
見る見るうちに大樹の背をポンと越え、森の樹々を眼下に収めるほどの高さまで昇り、遥か遠くまで見通せる。こんな高さの景色など見たことはない。
「はわぁーわぁわぁわぁー」
と弥太は悲鳴にも似た感嘆の声を上げた。
「童っ子、主が戻りたい処はあれにある」
女の子の指し示す方向に大きな川が白い雪原と水たまりのような緑を割るように流れており、その先に切り立つ断崖が周りを囲み金色の雲に覆われている部分がある。
弥太が川になって見たあの雲だ。あの雲の下に産霊の森がある。
目を凝らして見回すと、あった。千丈の瀧が、とっても小さくて見過ごしてしまいそうだが、あった。
森の樹々を遥か眼下に見下ろす高さなのだから、小さく見えるのは当たり前だが、遠いとか近いとか実感は全くわかない。
弥太の目が白黒している。
「よく見やれ、童っ子。この泉の隣に流れるあの大川を上流に溯れば、産霊の森の神域に戻ることが出来る」
女の子はどことなく寂しげな顔に微笑みを浮かべながら弥太に伝えた。
「主は主の望む処へ帰れるよ。山神様にも使いを出した故、迎えの者も来るであろ。吾もまた主が迷わぬよう案内のものをつける。これで心配は無かろ」
訊かれた弥太は「うんっ」と元気に返事をしたは良いが、目線は余りの高さで地表に釘づけになっている。
女の子はそれを見て少し笑うとくるりと舞を舞うが如く弥太に背を向けた。
瞬く間に辺りは青く輝く水で満たされていく。気が付いたら元の泉の中に戻り大樹の上に立っている。
「はうっ」
高い空かと思ったら、動いた覚えもないのに水の中へ。流石の弥太も驚き、目がちかちかする。
お蔭で大きな団栗眼をぱちくりぱちくりする羽目になり、その様が面白かったのか、
「すまぬ、すまぬ。相すまぬ」
と鈴のような笑い声を立てながら女の子は弥太に謝る。
弥太も女の子につられて声を立てて笑った。
弥太はこの不思議な水神様をすっかり大好きになっていた。心根の一番の奥深くの大事なところが通じ合っている。理屈ではなく弥太は強く感じていた。
「童っ子、吾の頼みを聞いてくれるか?」
「はいっ。水神様」
急に女の子――弥太の言う水神様が改まるのでドギマギしながら返事をした。
そんな弥太を知ってか知らずか、女の子の口調は少し重々しい。
「主が顕したこの櫛をな、吾が手にしたことを産霊の森の山神様に伝えて欲しいのだ。吾からの申しつけとして『ぜっか』とだけ一言付け加えて。主に頼みたい。聞き入れてくれようか?」
「うんっ。それだけ?」
水神様は笑うと
「実はな、もう一つある。出立までの間、主の話を聞きながらこの柿を食したい。如何であろ?」
「うんっ。おいらも食べていい?」
弥太は抱えた茄子を見せながら尋ねる。
「無論。共に食せばより楽しかろ」
弥太と女の子は仲良く巨樹に並んで腰かける。
「そういえば主の名を聞きそびれておった。吾が名は瑠璃という。主は?」
「るりひめさま? へぇえー名前も綺麗だぁ。おいら、弥太。子河童っ。でね、おいらの名前は千吉が付けてくれたんだ。千吉っていうのはおいらの相棒で――千吉の名前はおいらが……」
弥太は茄子を頬張りながら自分の身の上や見たことを一生懸命、身振り手振りや表情まで付け加えて瑠璃姫に話した。心を込めて。
そしてその心は、瑠璃姫に深く響いた。
時に笑い、時に驚き、声をあげ表情をかえながら、瑠璃姫は弥太の話に聞き入った。その表情は神の如きではなく、楽しそうな女の子の表情であった。ただ、その表情のなんと活き活きしていることか。
このお話は、派手な戦闘場面はありません。
主人公のやたがその純粋さで向かっていく物語です。
ここまでお付き合いくださりありがとうございます。
また是非、ご一読ください。




