第16話 焚火の痕と硬い皮の人間
弥太の進む先に、石が幾つか丸く並べられている。
その内側だけ、砂が黒かった。
細い枝が折り重なり、先は灰になり、太いものは黒く焦げたまま残っている。
灰の上には、風に吹かれてきた小さな葉が一枚載っていた。
焚火の痕であった。
弥太はしゃがみ込んで円らな瞳でじっと見ている。
~本文より
蓮の舟が岸へ寄ったのは、川が大きく曲がるところであった。
頭の上を覆っていた枝が途切れ、広い空が見えている。水際の白い砂にお日様が差し、そこだけが森の中に置かれた明るい座布団のようだった。
弥太のお腹が、くう、と鳴った。
「また?」
枝から舞い降りた蘇芳が言う。
「え? おなか空くのは元気な子だよ?」
弥太は蓮の葉の上で起き上がった。
とくに、寒い季節はお腹がよく空く。
それでなくても木の実や野菜は大好きなのだが、こうしてお腹が鳴り始めると、ナスの丸い艶や、キュウリを齧ったときのかりりとした歯応えが、次々に浮かんでくる。
千吉の傍に戻ったら、何か美味しいものを食べたい。
出来れば沢山。お腹いーっぱいに食べたい。
「ここで何か探してもいい?」
「少しだけよ。アタイの見えるところにいなさい」
「うんっ」
弥太は氷の花を持ったまま、背中へ手を回した。
甲羅の縁にそっと差し入れると、花はするりと収まった。桜の花びらは命皿の水に浮かべたままなので、もう両手が空いている。
「ちょっと、今どこへ入れたの?」
「甲羅だよ。落とすといけないからしまったの」
何でもないことのように答え、弥太は岸へ降りた。
蘇芳は小さな甲羅を見た。
躰へぴったり付いているのに、あの花が入る隙間などあっただろうか。
首を傾げている間に、弥太はぺたぺた歩き出していた。
蓮の葉へ振り返り、小さく手を振る。
「乗せてくれて、ありがとうねぇ」
丸い葉は水際で一度揺れ、流れへ戻っていった。
その縁が枝の影へ入ったとき、弥太は妙な匂いに気付いた。
森の匂いではない。
雨に濡れた土とも、朽ちた木とも違う。
何か、焦げている。
「すお姉、火を出した?」
「出してないわよ」
蘇芳も岸へ降りた。
弥太の進む先に、石が幾つか丸く並べられている。
その内側だけ、砂が黒かった。
細い枝が折り重なり、先は灰になり、太いものは黒く焦げたまま残っている。
灰の上には、風に吹かれてきた小さな葉が一枚載っていた。
焚火の痕であった。
弥太はしゃがみ込んで円らな瞳でじっと見ている。
「誰か、ここにいたんだね」
「そうみたいね。もう火は消えてるわ」
弥太が石の向こうを覗くと、細い棒が二本、砂へ投げ出されていた。
一本には、小さな頭が付いている。
魚の頭だった。
目のあったところが窪み、焼けた口が開いている。そこから棒が刺さり、黒くなった骨が幾つも残っていた。
もう一本の周りには、鱗と尾の欠片が散っている。
弥太は息を止めた。
さっきまで水の中に、銀色の魚たちが泳いでいた。
ひらりと向きを変えて、仲間と一緒に流れの下をくぐって楽しそうだった。
その魚を、棒に刺して、火で焼いて、することとと言えば……
「……食べたの?」
「そうでしょうね」
蘇芳が砂の上を見た。
水際から焚火まで、足の痕が幾つかある。爪の痕はなく、弥太の水掻きとも違う形だった。
「人間かしら」
弥太の甲羅が、びくりと揺れた。
人間。
その言葉と、焼けた魚の骨が、胸の中で一つになった。
その昔にきいて、忘れていた声が、耳の奥で急に大きくなる。
まあ、昔といってもさほど昔でもないのだが、弥太にとっては随分と昔の話だ。
『いいかい、河童の坊。人間には近付くんじゃあないよ』
前に、千吉と旅をしていたときのことであった。
日当たりのいい道端で、腹の大きな化け狸が木の実を齧っていた。
弥太がいいなぁと見ていたら、一つ分けてくれた。
その化け狸は、木の実を渡した手を引っ込めると、急に声を低くした。
『特に、皮の硬いのはいけない。どこもかしこも、がちゃがちゃ鳴るんだ。爪を立てたって歯を立てたって、びくともしない』
『石みたいなの?』
『石よりたちが悪い。石は刀を振り回さないからね』
化け狸は両手を広げ、そこに何かを握ったつもりで振り上げた。
弥太は木の実を持ったまま、ぱちぱちと瞬いた。
『刀って?』
『長くて、ぴかぴかしてて、当たるとすぱっと切れるものさ。あいつらはそれをぶんぶん振って、目についたものを何でも殺して食べて回る』
『何でも?』
『そうとも。魚だろうが、鳥だろうが、獣だろうが。捕まえて、棒を刺して、火で炙って、ばりばりだ』
化け狸は白い歯を見せて、わざと大きく口を開けた。
『河童の坊だって、うろうろしてたら――』
そこまで言ったとき、千吉がじろりと化け狸を見る。
化け狸はさっと口を閉じ、余計なことを言ったね、と笑った。
千吉は、全部を鵜呑みにするな、そういうものばかりではない、と言っていた。
だが、弥太にはその話が強すぎた。
硬い皮に、ぴかぴか光り何でもスパッと切る、長い刀。
何でも殺して、ばりばり。
「おいらも、人間に食べられちゃう」
弥太は小さく言った。
蘇芳が振り向く。
「何? どしたの?」
「人間、何でも食べるんだって。刀、振るんだって。硬くて、千吉みたいなのに、千吉じゃないって」
言葉がばらばらになるほどに、慌てた弥太は、焚火から離れようとして、砂に足を取られた。
尻餅をついて、白い砂が手の間へ入る。
そのすぐ傍に、魚の細い骨があった。
「ひゃあっ」
弥太は両手で命皿を押さえた。
もしおいらも、棒を刺されたら。
お皿のお水が全部零れたら。
火の上へ載せられたら。
甲羅は硬いけど、おいらの手も足も、ちっとも硬くない。
「すお姉ぇ……」
蘇芳の翼の陰へ潜り込んだ。
小さな躰が震えている。
「ちょっと、落ち着きなさい。今ここには誰もいないわよ」
川の向こうで枝が鳴って、弥太は声を呑んだ。
蘇芳がそちらを見る。
枝から枝へ渡った小さな鳥が、首を傾げていた。
「鳥よ」
「うん……」
今度は森の奥で、枯れ葉が擦れた。
風であった。
さっきまで優しく聞こえていた森の音が、全部、何かが近付いてくる音に変わってしまっている。
木の影の間に、がちゃがちゃしたものが隠れているかもしれない。
長いぴかぴかを持って、こちらを見ているかもしれない。
水際から続く足の痕は、弥太の足よりずっと大きかった。
踵のところが深く沈み、その傍に、細長いものを引いたような筋もある。
「これ、刀?」
弥太が震える指で示した。
「痕だけじゃ分からないわよ。枝を引っ張ったのかもしれないでしょう」
「そっか……枝かも、しれないねぇ」
そう言ってみたが、長いぴかぴかは頭から離れない。
足の痕の大きさに合わせて、想像の中の人間も大きくなる。木より大きく、岩より硬く、口まで大きくなる。
おいらなんか、一口かもしれない。
想像して、自分でますます怖くなった。
「アタイがいるでしょ」
蘇芳は声を低くした。
「何か来たら、アタイが先に見つける。あんたを連れていかせないわよ」
「焼いて、食べちゃう?」
「穢れならね。でも、これは魚を焼いた痕でしょ。ここにいたものが穢れかどうかは、見てみないと分からないわ」
蘇芳はもう一度、森へ目を向けた。
「兎に角、ここにいなくてもいいんだから。川へ戻りましょう」
「うん。水の中なら、隠れられるねぇ」
少しだけ声に力が戻って足を進める。それでも途中で一度、振り返った。
白い砂と、黒い焚火。
魚の骨は、石の陰になってもう見えなかった。
見えないからといって、なくなったわけではない。
弥太はそっと頭を下げた。
何と言えばいいのかは分からなかった。ただ、さっき見た魚の口が、いつまでも胸に残っていたのだ。
「行くわよ、弥太坊」
「うん」
水際へ着くと、弥太は膝まで川へ入った。
冷たい流れが足を包む。
水の下では、小さな魚が二匹、石の陰からこちらを見ていた。
弥太はしゃがみ込んだ。
「ここ、来ない方がいいよ。棒を刺すものが、いたから」
魚たちはひらりと尾を振った。
一匹は石の下へ隠れ、もう一匹は深いところへ泳いでいく。
弥太はそれを見送り、ようやく長く息を吐いた。
蘇芳は岸の高い石へ乗った。
「先の曲がり角まで見てくるわ。あんたは、その石の陰。いい?」
弥太が顔を上げる。
蘇芳はすぐに付け加えた。
「見えるところまでよ。見えなくなるほど遠くには行かない」
「うん……ちゃんと、戻って来てね」
「当たり前でしょ」
金色の翼が低く広がった。
蘇芳は川面すれすれを進み、次の曲がり角の上で大きく回った。金色の姿は、ずっと見えている。
弥太はその姿を目で追いながら、甲羅へ手を入れた。
指先に、氷の花が触れる。
そっと取り出すと、蒼い光は変わらず揺れていた。
「おいら、怖かったよ」
花に小さく話しかけた。
「おいら、ナスとかキュウリは好きだけど……食べられる方は、嫌だ」
花は何も言わない。
ただ、冷たく澄んだ感触が掌に残った。
あの白い女の子も、初めは怖かった。
今も、優しい言い方はしない。
でも、帰れと言ってくれて、花もくれた。
弥太は少しだけ、千吉の言葉を思い出した。
そういうものばかりではない。
人間にも、違うものがいるのかな。
そう考えかけたが、魚の骨を思い出すと、やっぱりまだ怖かった。
蘇芳が戻って来た。
「誰もいないわ。少し先に、岸の草が倒れてるところがあるけど、今は何も動いてない。ここでおやつを探すのはやめて、先へ行きましょう」
「うんっ」
返事をしたところで、お腹がくうと鳴った。
弥太はお腹を押さえ、蘇芳を見た。
「……怖くても、空くんだねぇ」
「生きてるんだから、空くんでしょうよ」
蘇芳が言った。
弥太はその言葉を、胸の中でもう一度繰り返した。
生きてるから。
手も足も動く。川の水も冷たい。すお姉の声も聞こえる。
そう思うと、震えていた嘴が少し止まった。
氷の花を甲羅へしまい、弥太は水へ潜った。
石の下を抜けると、森の影が水底まで深く届いていた。揺れる光の筋が、その暗がりの間に道を作っている。
陸では大きく見えた石も、水の中から見ると、ちゃんと隙間のある石だった。
指を掛けるところも、躰を隠せる窪みもある。
知っているものが、知っている形で傍にある。
弥太は石の横腹をそっと撫でた。
流れに磨かれた表が、すべすべしている。
頭の上で細い根が揺れ、根の先には、小さな泡が幾つも付いていた。
泡が離れ、水面へ昇ってゆく。
弥太もその後を追った。
少し進む度に顔を出す。
岸の枝に、金色の姿がある。
その日はもう、川岸の白い砂へ上がりたいとは思わなかった。
人の里に近づく子河童に思わぬ出会いが訪れます。
此処まで読んで頂きありがとうございます。
純和風ファンタジーにお付き合いいただきありがとうございました。
まだまだ続きます。
また是非ご一読ください。




