第15話 深緑の川と蓮の舟
水の音が聞こえると、足の方まで自然とそちらへ向く。千吉が言っていた。分からなくなったら川へ行け、水が教えてくれる、と。
今の流れは、こっちだよ、と優しく呼んでいるようだった。
森へ入るにつれ、緑が濃くなった。
枝と枝が頭の遥か上で重なり、葉の間から見える空は小さくなってゆく。根元には羊歯が深々と広がり、朽ちた幹にも、岩の丸い肩にも、厚い苔が柔らかな緑を着せていた。
苔の先に残った雫が、細い光を受けて煌めく。
一つが落ちると、その下の葉が揺れ、そこにあったもう一つも落ちた。
ぽとり、ぽとり。
音は小さいのに、森の奥まで聞こえていくようだ。
せせらぎの音と葉擦れの音。重なる雫の音が玄妙な響きとなり、耳に躰に心に優しく染み渡る。
~本文より
「弥太坊っ」
朱金色の光が、雪の風を真っ二つに割った。
大きく拡げられた翼が目の前に迫り、弥太は嬉しくて両手を上げかけた。
いけない。氷のお花を落としてしまう。
慌てて胸へ抱え直すと、そのまま、ふわりと河原へ下ろされた。
雪の結晶たちは蘇芳の翼を避けるように遠ざかり、一度だけきらきらと光ると、白い風の中へ消えていった。
「すお姉ぇ、おいら――」
「どこへ行っていたのっ」
声が大きい。
弥太は甲羅をきゅっと縮めた。
「火の傍から離れないでって言ったでしょ。あんたがいないから、アタイ、そこら中探して、それでもいなくてっ」
蘇芳の躰から火花が散った。
勢いよく散ったそれは、弥太の顔近くまで来ると、慌てたように空へ昇って消える。
「ごめんねぇ。おいら、離れたんじゃなくて、動けなくなって」
「どこも痛くない? 凍ってない? その皿、大丈夫なの?」
「うん。もう大丈夫」
そう答えた途端、蘇芳がぐいと顔を寄せた。
どんぐり眼を覗き込み、命皿を見て、嘴の先まで確かめる。弥太が目をぱちぱちさせていると、今度は背中へ回って甲羅まで見ていた。
「……本当に、大丈夫そうね」
「うんっ」
「だったら、もっと早く呼びなさいよ」
さっきより小さな声だった。
弥太は蘇芳を見上げた。
輝く羽根の間から、お日様に温められた草のような、いい匂いがした。
戻って来た。
すお姉の傍へ、ちゃんと戻って来たのだ。
そう思ったら、嘴が震えた。
「おいら、呼ぼうと思ったけど、声も出なくて」
「ああ、もう。今は泣かなくていいから」
そう言う蘇芳も、まだ少し声が尖っていた。
ただ、その翼は弥太の前に広がり、吹き付けてくる冷たい風をすっかり遮っている。
弥太は鼻をすすり、氷の女の子のことを話した。
凍って動けなくなったこと。眠っていたら彩櫻姫が来てくれたこと。六連が大きな声で怒っていたこと。
「白い猫まで? あんた、どこをどう通ったのよ」
「分かんない。でも、お花があったから、寒くなくなったの」
弥太は命皿を指差し、右手に残っている二枚の桜の花びらも見せた。
蘇芳はしばらくそれを見ていたが、次に弥太の左手へ目を向けた。
「じゃあ、それは?」
「氷の子がくれたのっ。おいら、あの子が割れそうだったから、お水で治したら、持っていけって」
蘇芳は黙った。
氷の花の奥で、蒼い光が小さく揺れている。
見ていると、胸のどこかが妙に落ち着かない。冷たいものだから、というだけではない気がした。
「あんたを攫った相手を、治したの?」
「うん。痛そうだったよ」
「……弥太坊」
「うん?」
蘇芳は嘴を開きかけ、やめた。
怒ることなら沢山あるし、心配も、まだ沢山残っている。
でも、弥太の顔を見ていたら、何から言えばいいのか分からなくなった。
「次は、何をするにもアタイを呼んでからにして」
「うん。すお姉も一緒なら、もっと安心だよねえ」
迷いもなくそう言われ、蘇芳は長く息を吐いた。
「そうよ。だから、勝手にいなくならないこと」
弥太はしっかり頷いた。
今度こそ、約束を守りたい。
それから、氷の花をもう一度見た。
「これね、炙っちゃだめなんだって」
「炙らないわよっ」
返事が余りにも早かったので、弥太は少しだけ笑った。
白い氷原は、川を少し下ると急に遠ざかった。
水際の石に薄く残っていた氷が消え、土の匂いが戻り、草の間から小さな虫が飛び立つ。
振り返ると、樹々の向こうに白い靄がある。
あれだけ寒かったところが、今は遠い夢のようだ。
蘇芳は何度か後ろを見たが、追ってくるものはなかった。
「先を急ぐわよ。三香月山の麓まで行って、鯉が淵の集落の先。七日のうちって約束、忘れてないでしょうね」
「忘れてないよぉ。白い猫、さっきも早く来いって怒ってたもの」
「だったら、尚更急ぐの」
弥太はぺたぺた歩いた。
川は昇るお日様の方へ向かって、森の間を曲がっている。
水の音が聞こえると、足の方まで自然とそちらへ向く。千吉が言っていた。分からなくなったら川へ行け、水が教えてくれる、と。
今の流れは、こっちだよ、と優しく呼んでいるようだった。
森へ入るにつれ、緑が濃くなった。
枝と枝が頭の遥か上で重なり、葉の間から見える空は小さくなってゆく。根元には羊歯が深々と広がり、朽ちた幹にも、岩の丸い肩にも、厚い苔が柔らかな緑を着せていた。
苔の先に残った雫が、細い光を受けて煌めく。
一つが落ちると、その下の葉が揺れ、そこにあったもう一つも落ちた。
ぽとり、ぽとり。
音は小さいのに、森の奥まで聞こえていくようだ。
せせらぎの音と葉擦れの音。重なる雫の音が玄妙な響きとなり、耳に躰に心に優しく染み渡る。
川はその深い緑の間を、静かに流れていた。
淵では翡翠の色を湛え、浅いところでは水底の砂粒まで透かしている。枝の影が水面に黒く伸び、その間を日の光が金の細片となって漂っていた。
水が揺れると、光も揺れる。
揺れた光は岸の岩へ這い上がり、岩から下がった草の裏を、ちらちらと明るくした。
「はぇー……綺麗だねぇ」
弥太は立ち止まった。
蘇芳も、今度ばかりは急げと言わなかった。
羽根の朱金色が水に映り、緑の流れの上を長く伸びている。
その光の下を、小さな魚が群れでくぐった。
魚たちの腹が一瞬銀色に光ると、群れはまた深い水の色へ溶け込んでゆく。
弥太は魚たちへ、小さく手を振った。
「きらきらして、綺麗だねぇ」
岸には木の実の落ちた殻があった。
それを見た途端、弥太のお腹が、くう、と鳴った。
「木の実、まだどこかにあるかなぁ。ナスも食べたいなぁ」
「景色を見てるかと思ったら、もうおやつの話?」
「だって、お腹空いたよ。寒いところにいたから、いっぱい食べたいの」
蘇芳は弥太の情けない顔を見て、少し笑った。
川幅が広がるところに、蓮が生えていた。
岸から入り込んだ静かな水に、丸い葉が幾つも重なっている。小さなものは弥太の命皿くらい、大きなものは甲羅を三つ並べても、まだ余るほどあった。
葉の上には、ころころした水の珠が載っている。
風が通る度、珠は転がり、くっついて大きくなって、葉の縁から流れへ落ちた。
弥太は目を輝かせた。
「すお姉、おいら、あれに乗りたいっ」
「沈むんじゃないの?」
「沈んだら、泳ぐ」
水のことになると、返事はすこぶる明るい。
弥太は岸へ寄って来た大きな葉に、そっと手を掛けた。
茎を探したが、その葉はもう水底へ繋がっていなかった。上流から流れて来て、ここで他の葉に引っ掛かっていたらしい。
傷んだところはなく、表は青々として、縁まできちんと張っている。
「乗ってもいい?」
葉は、川の揺れに合わせて、ゆっくり上下した。
いいよ、と言ってくれた気がした。
弥太は嬉しくなって、まず残っていた桜の花びらを命皿へ浮かべ、氷の花を胸元で両手に包んだ。それから甲羅を横にして、そろりと葉の上へ躰を預ける。
葉が少し沈んだ。
弥太は足を縮めた。
葉の縁が水を押し返し、ふわりと浮き上がる。
「乗れたぁ」
その拍子に、他の葉から離れた。
緩やかな流れが丸い葉を引き寄せ、弥太を載せたまま、森の川へと送り出してゆく。
「待ちなさいよ。先に行かないの」
「すお姉、楽しいよこれ」
「ほら、行くわよ。ちゃんと見てるから」
蘇芳は低く羽ばたき、川の上へ出た。
強い風を起こさないように、翼をそっと動かしている。
弥太はそれを見て安心すると、大きな葉にごろんと寝そべった。
甲羅の下が、ひんやりする。
葉は硬すぎず、柔らかすぎず、小さな躰を受け止めてくれる。足を伸ばすと水掻きの先が少しだけ水へ出て、その爪先を流れがくすぐった。
「あひゃひゃ、気持ちぃいい」
真上に、森があった。
幾重にも重なった緑の葉。その向こうに、もっと高い枝。そのまた向こうに、透き通った青い空。
葉は一枚一枚、違う色をしている。
日の光をいっぱい受けた若葉は明るい黄緑、重なったところは深い緑、枝の奥では夜の手前のような暗い色になっていた。
その全てが、風に揺れている。
明るくなり、暗くなり、また明るくなる。
木漏れ日が弥太の嘴へ落ち、頬を撫で、命皿の水に小さな空を作った。
桜の花びらを浮かべた水が、きらりと光る。
握っていた氷の花もまた、指の間で蒼く光った。
弥太はそれを胸の上へ載せ、両手を添えた。
「氷のお花も見える? ここ、すんごく綺麗だよ」
返事はない。
ただ、答えるかのように、花の真ん中の光が、ほんの少し揺れた。
弥太はニコニコしていた。
大事なものと、一緒に綺麗な景色を見る。
それだけで、何だかとてもとても嬉しい。
葉の舟は、ゆっくり回った。
右に見えていた大樹が左へ移り、蘇芳の金色の姿が頭の上を通る。
枝から垂れた蔓が、緑の簾のように水の近くまで下がっていた。葉の舟がその下をくぐると、滴が一つ、弥太の嘴の先へ落ちた。
「うひゃあ」
嘴を舐める。
森の味がした。
土と葉と、まだ名も知らない花の、清々しい匂い。
水面の近くは、森の上とは違う風が吹いていた。濡れた石の冷たさと、葉の裏に隠れていた柔らかな匂いを乗せて、弥太の頬をそっと通り過ぎる。
低い枝に青い羽の鳥が止まり、舟を覗き込んだ。
弥太が小さく手を振ると、鳥は首を傾げ、細い声を一つ残して森へ飛んでいった。
その声を追うように、奥から別の鳥が答える。
見えないところにも、沢山いる。
大きな幹の陰にも、苔の下にも、枝のずっと高いところにも。
弥太は聞こえてくる音に、耳を澄ませた。
小さな翅の音。葉を踏む音。遠くで木の実が落ちる音。
川のせせらぎは、それらを消さずに、全ての音の下を静かに流れていた。
葉の舟の傍らでは、細い泡が一列になって進んでいる。泡の一つ一つに、森が丸く映っていた。
ぱちんと一つ消えても、次の泡にまた同じ空がある。
弥太はそれを見て、へにゃりと笑った。
さっきまで、冷たくて、痛くて、どうなるか分からなかった。
今は、川がちゃんと躰の下にある。
すお姉も、ちゃんと傍にいる。
「弥太坊。寝ないでよ」
「寝てないよぉ」
「目が半分閉じてるわ」
「気持ちいいから、ちょっとだけ細くしてるの」
蘇芳は水際の枝へ舞い降りた。
葉の舟が追い付くと、また一つ先の枝へ移る。
急がなくてはいけない。
そのことは忘れていないが、ここで葉の舟をひっくり返してまで急かす気にもなれなかった。
何より、流れは見た目より速い。
歩けば足を取られる根や岩も、川の上では次々に後ろへ遠ざかってゆく。
「このまま行けそうね」
「うん。川が連れていってくれるみたい」
弥太は葉の縁へ水掻きの手を伸ばした。
指の間を、水がさらさらと通る。
もっと先へ。
あの森の、まだ見えない向こうへ。
白い猫が待っているところまで。
川が教えてくれるのなら、怖がりのおいらでも、ちゃんと行ける。
「おいら、着いたら、待たせてごめんねって言うの」
「怒鳴られる前にね」
「うん。でも、その前に、お腹空いてるか聞いてみる」
「どうして?」
「お腹空いてると、もっと怒っちゃうもの」
蘇芳は少し考え、それから笑った。
「それは、あんたでしょう」
「おいらは、怒らないよ」
森の川に、二人の声が流れた。
木漏れ日を載せた蓮の葉は、深い緑の間を進んでゆく。
上流の冷たい靄は、もう見えなかった。
弥太は氷の花を両手で包み直し、もう一度、頭の上の空を見た。
小さく切り取られた青さの向こうを、白い雲がゆっくり渡っている。
いつか、あの向こうへ。
ふと胸に浮かんだ想いを、今は言葉にしなかった。
目の前にも、行かなくてはいけないところがある。
弥太は足をぱしゃりと動かした。
丸い葉が揺れ、水面に小さな輪が広がる。
その輪の先で、蘇芳の金色の影が、川と一緒に揺れていた。
次回、人のいた痕跡に遭遇し、心が乱れるさまを描きます。
此処まで読んで頂きありがとうございます。
また是非ご一読ください。




