↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天衣の向こうに  作者: しきもとえいき


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/17

第15話 深緑の川と蓮の舟

 水の音が聞こえると、足の方まで自然とそちらへ向く。千吉が言っていた。分からなくなったら川へ行け、水が教えてくれる、と。

 今の流れは、こっちだよ、と優しく呼んでいるようだった。


 森へ入るにつれ、緑が濃くなった。


 枝と枝が頭の遥か上で重なり、葉の間から見える空は小さくなってゆく。根元には羊歯が深々と広がり、朽ちた幹にも、岩の丸い肩にも、厚い苔が柔らかな緑を着せていた。


 苔の先に残った雫が、細い光を受けて煌めく。

 一つが落ちると、その下の葉が揺れ、そこにあったもう一つも落ちた。

 ぽとり、ぽとり。

 音は小さいのに、森の奥まで聞こえていくようだ。

 せせらぎの音と葉擦れの音。重なる雫の音が玄妙な響きとなり、耳に躰に心に優しく染み渡る。


~本文より

「弥太坊っ」


 朱金色の光が、雪の風を真っ二つに割った。

 大きく拡げられた翼が目の前に迫り、弥太は嬉しくて両手を上げかけた。


 いけない。氷のお花を落としてしまう。


 慌てて胸へ抱え直すと、そのまま、ふわりと河原へ下ろされた。

 雪の結晶たちは蘇芳の翼を避けるように遠ざかり、一度だけきらきらと光ると、白い風の中へ消えていった。


「すお姉ぇ、おいら――」


「どこへ行っていたのっ」


 声が大きい。

 弥太は甲羅をきゅっと縮めた。


「火の傍から離れないでって言ったでしょ。あんたがいないから、アタイ、そこら中探して、それでもいなくてっ」


 蘇芳の躰から火花が散った。

 勢いよく散ったそれは、弥太の顔近くまで来ると、慌てたように空へ昇って消える。


「ごめんねぇ。おいら、離れたんじゃなくて、動けなくなって」


「どこも痛くない? 凍ってない? その皿、大丈夫なの?」


「うん。もう大丈夫」


 そう答えた途端、蘇芳がぐいと顔を寄せた。


 どんぐり眼を覗き込み、命皿を見て、嘴の先まで確かめる。弥太が目をぱちぱちさせていると、今度は背中へ回って甲羅まで見ていた。


「……本当に、大丈夫そうね」


「うんっ」


「だったら、もっと早く呼びなさいよ」


 さっきより小さな声だった。

 弥太は蘇芳を見上げた。

 輝く羽根の間から、お日様に温められた草のような、いい匂いがした。


 戻って来た。


 すお姉の傍へ、ちゃんと戻って来たのだ。

 そう思ったら、嘴が震えた。


「おいら、呼ぼうと思ったけど、声も出なくて」


「ああ、もう。今は泣かなくていいから」


 そう言う蘇芳も、まだ少し声が尖っていた。

 ただ、その翼は弥太の前に広がり、吹き付けてくる冷たい風をすっかり遮っている。


 弥太は鼻をすすり、氷の女の子のことを話した。

 凍って動けなくなったこと。眠っていたら彩櫻姫が来てくれたこと。六連が大きな声で怒っていたこと。


「白い猫まで? あんた、どこをどう通ったのよ」


「分かんない。でも、お花があったから、寒くなくなったの」


 弥太は命皿を指差し、右手に残っている二枚の桜の花びらも見せた。

 蘇芳はしばらくそれを見ていたが、次に弥太の左手へ目を向けた。


「じゃあ、それは?」


「氷の子がくれたのっ。おいら、あの子が割れそうだったから、お水で治したら、持っていけって」


 蘇芳は黙った。

 氷の花の奥で、蒼い光が小さく揺れている。

 見ていると、胸のどこかが妙に落ち着かない。冷たいものだから、というだけではない気がした。


「あんたを攫った相手を、治したの?」


「うん。痛そうだったよ」


「……弥太坊」


「うん?」


 蘇芳は嘴を開きかけ、やめた。


 怒ることなら沢山あるし、心配も、まだ沢山残っている。

 でも、弥太の顔を見ていたら、何から言えばいいのか分からなくなった。


「次は、何をするにもアタイを呼んでからにして」


「うん。すお姉も一緒なら、もっと安心だよねえ」


 迷いもなくそう言われ、蘇芳は長く息を吐いた。


「そうよ。だから、勝手にいなくならないこと」


 弥太はしっかり頷いた。

 今度こそ、約束を守りたい。

 それから、氷の花をもう一度見た。


「これね、炙っちゃだめなんだって」


「炙らないわよっ」


 返事が余りにも早かったので、弥太は少しだけ笑った。


 白い氷原は、川を少し下ると急に遠ざかった。

 水際の石に薄く残っていた氷が消え、土の匂いが戻り、草の間から小さな虫が飛び立つ。

 振り返ると、樹々の向こうに白い靄がある。

 あれだけ寒かったところが、今は遠い夢のようだ。

 蘇芳は何度か後ろを見たが、追ってくるものはなかった。


「先を急ぐわよ。三香月山の麓まで行って、鯉が淵の集落の先。七日のうちって約束、忘れてないでしょうね」


「忘れてないよぉ。白い猫、さっきも早く来いって怒ってたもの」


「だったら、尚更急ぐの」


 弥太はぺたぺた歩いた。

 川は昇るお日様の方へ向かって、森の間を曲がっている。


 水の音が聞こえると、足の方まで自然とそちらへ向く。千吉が言っていた。分からなくなったら川へ行け、水が教えてくれる、と。

 今の流れは、こっちだよ、と優しく呼んでいるようだった。


 森へ入るにつれ、緑が濃くなった。


 枝と枝が頭の遥か上で重なり、葉の間から見える空は小さくなってゆく。根元には羊歯が深々と広がり、朽ちた幹にも、岩の丸い肩にも、厚い苔が柔らかな緑を着せていた。


 苔の先に残った雫が、細い光を受けて煌めく。

 一つが落ちると、その下の葉が揺れ、そこにあったもう一つも落ちた。

 ぽとり、ぽとり。

 音は小さいのに、森の奥まで聞こえていくようだ。

 せせらぎの音と葉擦れの音。重なる雫の音が玄妙な響きとなり、耳に躰に心に優しく染み渡る。


 川はその深い緑の間を、静かに流れていた。

 淵では翡翠の色を湛え、浅いところでは水底の砂粒まで透かしている。枝の影が水面に黒く伸び、その間を日の光が金の細片となって漂っていた。


 水が揺れると、光も揺れる。

 揺れた光は岸の岩へ這い上がり、岩から下がった草の裏を、ちらちらと明るくした。


「はぇー……綺麗だねぇ」


 弥太は立ち止まった。

 蘇芳も、今度ばかりは急げと言わなかった。

 羽根の朱金色が水に映り、緑の流れの上を長く伸びている。


 その光の下を、小さな魚が群れでくぐった。

 魚たちの腹が一瞬銀色に光ると、群れはまた深い水の色へ溶け込んでゆく。

 弥太は魚たちへ、小さく手を振った。


「きらきらして、綺麗だねぇ」


 岸には木の実の落ちた殻があった。

 それを見た途端、弥太のお腹が、くう、と鳴った。


「木の実、まだどこかにあるかなぁ。ナスも食べたいなぁ」


「景色を見てるかと思ったら、もうおやつの話?」


「だって、お腹空いたよ。寒いところにいたから、いっぱい食べたいの」


 蘇芳は弥太の情けない顔を見て、少し笑った。


 川幅が広がるところに、蓮が生えていた。


 岸から入り込んだ静かな水に、丸い葉が幾つも重なっている。小さなものは弥太の命皿くらい、大きなものは甲羅を三つ並べても、まだ余るほどあった。


 葉の上には、ころころした水の珠が載っている。


 風が通る度、珠は転がり、くっついて大きくなって、葉の縁から流れへ落ちた。


 弥太は目を輝かせた。


「すお姉、おいら、あれに乗りたいっ」


「沈むんじゃないの?」


「沈んだら、泳ぐ」


 水のことになると、返事はすこぶる明るい。

 弥太は岸へ寄って来た大きな葉に、そっと手を掛けた。


 茎を探したが、その葉はもう水底へ繋がっていなかった。上流から流れて来て、ここで他の葉に引っ掛かっていたらしい。

 傷んだところはなく、表は青々として、縁まできちんと張っている。


「乗ってもいい?」


 葉は、川の揺れに合わせて、ゆっくり上下した。

 いいよ、と言ってくれた気がした。


 弥太は嬉しくなって、まず残っていた桜の花びらを命皿へ浮かべ、氷の花を胸元で両手に包んだ。それから甲羅を横にして、そろりと葉の上へ躰を預ける。


 葉が少し沈んだ。

 弥太は足を縮めた。

 葉の縁が水を押し返し、ふわりと浮き上がる。


「乗れたぁ」


 その拍子に、他の葉から離れた。

 緩やかな流れが丸い葉を引き寄せ、弥太を載せたまま、森の川へと送り出してゆく。


「待ちなさいよ。先に行かないの」


「すお姉、楽しいよこれ」


「ほら、行くわよ。ちゃんと見てるから」


 蘇芳は低く羽ばたき、川の上へ出た。

 強い風を起こさないように、翼をそっと動かしている。


 弥太はそれを見て安心すると、大きな葉にごろんと寝そべった。

 甲羅の下が、ひんやりする。

 葉は硬すぎず、柔らかすぎず、小さな躰を受け止めてくれる。足を伸ばすと水掻きの先が少しだけ水へ出て、その爪先を流れがくすぐった。


「あひゃひゃ、気持ちぃいい」


 真上に、森があった。

 幾重にも重なった緑の葉。その向こうに、もっと高い枝。そのまた向こうに、透き通った青い空。

 葉は一枚一枚、違う色をしている。

 日の光をいっぱい受けた若葉は明るい黄緑、重なったところは深い緑、枝の奥では夜の手前のような暗い色になっていた。


 その全てが、風に揺れている。


 明るくなり、暗くなり、また明るくなる。

 木漏れ日が弥太の嘴へ落ち、頬を撫で、命皿の水に小さな空を作った。


 桜の花びらを浮かべた水が、きらりと光る。

 握っていた氷の花もまた、指の間で蒼く光った。

 弥太はそれを胸の上へ載せ、両手を添えた。


「氷のお花も見える? ここ、すんごく綺麗だよ」


 返事はない。

 ただ、答えるかのように、花の真ん中の光が、ほんの少し揺れた。


 弥太はニコニコしていた。


 大事なものと、一緒に綺麗な景色を見る。

 それだけで、何だかとてもとても嬉しい。


 葉の舟は、ゆっくり回った。

 右に見えていた大樹が左へ移り、蘇芳の金色の姿が頭の上を通る。


 枝から垂れた蔓が、緑の簾のように水の近くまで下がっていた。葉の舟がその下をくぐると、滴が一つ、弥太の嘴の先へ落ちた。


「うひゃあ」


 嘴を舐める。

 森の味がした。

 土と葉と、まだ名も知らない花の、清々しい匂い。


 水面の近くは、森の上とは違う風が吹いていた。濡れた石の冷たさと、葉の裏に隠れていた柔らかな匂いを乗せて、弥太の頬をそっと通り過ぎる。


 低い枝に青い羽の鳥が止まり、舟を覗き込んだ。

 弥太が小さく手を振ると、鳥は首を傾げ、細い声を一つ残して森へ飛んでいった。


 その声を追うように、奥から別の鳥が答える。

 見えないところにも、沢山いる。


 大きな幹の陰にも、苔の下にも、枝のずっと高いところにも。


 弥太は聞こえてくる音に、耳を澄ませた。


 小さな翅の音。葉を踏む音。遠くで木の実が落ちる音。

 川のせせらぎは、それらを消さずに、全ての音の下を静かに流れていた。


 葉の舟の傍らでは、細い泡が一列になって進んでいる。泡の一つ一つに、森が丸く映っていた。

 ぱちんと一つ消えても、次の泡にまた同じ空がある。


 弥太はそれを見て、へにゃりと笑った。


 さっきまで、冷たくて、痛くて、どうなるか分からなかった。

 今は、川がちゃんと躰の下にある。

 すお姉も、ちゃんと傍にいる。


「弥太坊。寝ないでよ」


「寝てないよぉ」


「目が半分閉じてるわ」


「気持ちいいから、ちょっとだけ細くしてるの」


 蘇芳は水際の枝へ舞い降りた。


 葉の舟が追い付くと、また一つ先の枝へ移る。


 急がなくてはいけない。

 そのことは忘れていないが、ここで葉の舟をひっくり返してまで急かす気にもなれなかった。


 何より、流れは見た目より速い。


 歩けば足を取られる根や岩も、川の上では次々に後ろへ遠ざかってゆく。


「このまま行けそうね」


「うん。川が連れていってくれるみたい」


 弥太は葉の縁へ水掻きの手を伸ばした。

 指の間を、水がさらさらと通る。


 もっと先へ。

 あの森の、まだ見えない向こうへ。

 白い猫が待っているところまで。


 川が教えてくれるのなら、怖がりのおいらでも、ちゃんと行ける。


「おいら、着いたら、待たせてごめんねって言うの」


「怒鳴られる前にね」


「うん。でも、その前に、お腹空いてるか聞いてみる」


「どうして?」


「お腹空いてると、もっと怒っちゃうもの」


 蘇芳は少し考え、それから笑った。


「それは、あんたでしょう」


「おいらは、怒らないよ」


 森の川に、二人の声が流れた。

 木漏れ日を載せた蓮の葉は、深い緑の間を進んでゆく。

 上流の冷たい靄は、もう見えなかった。


 弥太は氷の花を両手で包み直し、もう一度、頭の上の空を見た。

 小さく切り取られた青さの向こうを、白い雲がゆっくり渡っている。


 いつか、あの向こうへ。


 ふと胸に浮かんだ想いを、今は言葉にしなかった。

 目の前にも、行かなくてはいけないところがある。


 弥太は足をぱしゃりと動かした。

 丸い葉が揺れ、水面に小さな輪が広がる。


 その輪の先で、蘇芳の金色の影が、川と一緒に揺れていた。


次回、人のいた痕跡に遭遇し、心が乱れるさまを描きます。


此処まで読んで頂きありがとうございます。

また是非ご一読ください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。