第14話 氷の花を掌に
ぴしり。
女の子の指の間から、蒼い光が漏れた。
それは光にしては細すぎて、傷口にしては透き通りすぎている。薄い氷に入った罅のようなものが、手の甲から手首へと走っていた。
「あっ、割れちゃうっ」
「見るな」
女の子は手を隠した。
~本文より
「何もしてほしくない。お前に出来ることなんかない」
白い女の子はそう言って、顔を背けた。
言葉は冷たい。吹き抜ける風よりもずっと冷たい。
弥太は嘴を小さく尖らせたが、それでも女の子の胸を押さえた手を見ていた。
「でも、おいらを連れて来たよ」
「うるさい」
「うん……」
言われた通り黙ってみた。
すると、氷の粒の擦れる音がよく聞こえた。さらさら、しゃらしゃら。
女の子の周りにだけ、少し違う音が混じっている。
ぴしり。
女の子の指の間から、蒼い光が漏れた。
それは光にしては細すぎて、傷口にしては透き通りすぎている。薄い氷に入った罅のようなものが、手の甲から手首へと走っていた。
「あっ、割れちゃうっ」
「見るな」
女の子は手を隠した。
その途端、足元にいた雪の結晶がひょょょうと細い音を立て、躰ごと傾いた女の子を支えるように浮き上がった。
弥太は思わず両手を伸ばした。
触ると凍る。
さっきは怖くて、もう絶対触られたくないと思っていたのに、そのことを思い出したのは手を伸ばしてからであった。
「触るなっ」
女の子の声で、弥太はぴたりと止まった。
「お前まで砕ける」
「……おいらも?」
女の子は答えない。
息をする度に、白い髪の先が細かな氷となって舞い落ちる。
それを結晶たちが拾おうとして、忙しなく行ったり来たりしていた。
弥太はどんぐり眼をぱちぱちさせた。
この女の子は、おいらを凍らせたかった。
でも、砕けるのはだめらしい。
何だかよく分からない。
分からないが、痛そうなことだけはよく分かった。
「おいらの水、少し使ってみる?」
「水は要らない」
「うん。でも、普通の水じゃないんだよ。痛いところに、ちょっとだけ」
「温かいものは嫌いだ」
弥太は頭の命皿に手をやりかけた。
そこには彩櫻姫の花びらが浮かんでいる。甘く温かな香りが、寒さから弥太を守ってくれていた。
おいらには気持ちがいい。
でも、この子には違うのかな。
弥太は少し考えた。
千吉と川で遊ぶとき、浅いところの水が温んでいると、冷たい流れの下へ潜ることがある。
底の水はひんやりしていて、頬っぺたがきゅっとするくらい気持ちよかった。
あの水なら、嫌ではないかもしれない。
「じゃあ、冷たいのにするね」
弥太は掌を上に向けた。
命皿の水を掬うつもりだったのに、皿の縁から細い流れがするりと伸び、右手に小さな水の珠を作った。
「はえ?」
自分で驚いている。
水の珠は落ちずに、ぷるぷると掌の上で震えていた。
桜の花びらは命皿に残ったままだ。水の珠には甘い香りも、花の色もない。ただ澄んで、女の子の蒼い光を映している。
女の子がじっとその水を見た。
「……凍るぞ」
「うん。凍っていいよ。おいらの手まで凍るのは、ちょっと嫌だけど」
弱気なことを言いながらも、弥太は手を引かなかった。
結晶の一つが、その掌へそっと近付いた。
水の表が薄く白くなり、小さな氷の縁が出来る。弥太がびくりとしたのを見て、結晶は慌てたように離れた。
「あ、大丈夫。まだ痛くないよ」
弥太が笑うと、結晶は女の子を振り返った。
何も言わない女の子の代わりに、もう一度、小さく光る。
頼む。
その煌めきは、弥太にはそう聞こえた。
「うん。やってみる」
女の子は唇を結んでいたが、やがて胸元から手を離した。
細い罅が、透き通った肌の奥まで走っていた。
弥太の笑顔が消えた。
壊れかけた氷の下で、何かが必死に揺れている。
消えそうで、消えまいとして、それでも少しずつ零れ落ちている。
強い寒さはそこから出ていた。
冷たくしようとしているのではない。
留めようとして、留められないのだ。
「ここ、だよね」
「少しだけだ。それ以上近付くな」
「うん」
弥太は両手で水の珠を支え、女の子の手首へそっと寄せた。
ぴしっ。
水はたちまち凍り付いた。
「ひゃっ」
指先が痛い。怖い。逃げたい。
でも、手を離したら、この子の中の光まで落ちてしまうような気がした。
弥太は嘴をきゅっと結んだ。
治って。痛いの、止まって。
怖いから、早く治って。
そんな、いかにも弥太らしい願いであった。
凍った水は、女の子の手首に薄い膜を作った。
その下で蒼い光が揺れ、流れ出ようとしていた冷気が、ゆっくりと内側へ戻ってゆく。
弥太の指先から、痛みが薄れた。
女の子が息を止めている。
結晶たちも、誰一つ動かない。
やがて細い罅の一つが、音もなく閉じた。
「あ、くっついたぁ」
弥太の声に、女の子ははっとして自分の手を見た。
罅はまだ幾つもあるが、そこから光が零れ落ちることはもうなかった。
「もうちょっと、いい?」
女の子は黙っていた。
その手を引かなかったので、弥太はもう一つ、水の珠を作った。
今度は少しだけ上手に出来た。
薄い氷が重なる度、罅の奥にあった光は落ち着いてゆく。
弥太は夢中でそれを見つめ、女の子もまた、弥太の掌を見つめていた。
女の子の胸元に残った罅だけは、中々閉じなかった。
水を寄せると、そこだけが強く光る。
凍った薄膜の下で、冷気が行き場を失ったように渦巻いていた。
弥太は慌てて手を止めた。
「痛い?」
「……少し」
初めて、女の子がそう答えた。
弥太は困った。治そうとしているのに痛くするのでは、何をしているのか分からない。
水を増やせばいいのだろうか。もっと冷たくすればいいのだろうか。
考えると、命皿の縁がむずむずした。
こういうとき、千吉なら何と言うかな。
弥太は、川底の大きな石を思い浮かべた。
石の下にも水は通る。急いで潜ろうとすると躰をぶつけるが、流れの通るところをよく見れば、小さな弥太でもするりと抜けられる。
塞いでしまったから、苦しいのかな。
「ここ、流れたいんだねぇ」
何が、と女の子が聞くより先に、弥太は水の珠を少し引いた。
押さえ込むのではなく、罅の縁に沿わせる。
薄い氷の下に、細い水の道が出来た。
蒼い光がそこを通って、胸の奥へゆっくりと戻ってゆく。
女の子の肩から、力が抜けた。
「あ、これなら痛くない?」
小さな頷きが一つ。
弥太はほっと息を吐いた。
「よかったぁ。おいら、間違えちゃったかと思った」
「間違えただろ」
「うん……そうだったねぇ」
女の子が目を伏せた。
笑ったわけではない。ただ、固く結ばれていた唇が、ほんの僅か緩んだように見えた。
弥太はそれを見逃した。
水の細い道が途切れないようにするので、それどころではなかったのだ。
雪の結晶たちは、もう拾うもののない足元を離れ、弥太の手元を見守っていた。
一つが傾くと、他のものも傾く。
その光を頼りに、弥太は少しずつ水を動かした。
女の子の指が、弥太の手の下にそっと添えられた。
支えてくれたのだと気付いて、弥太は顔を上げる。
「お前の手が震えるからだ」
「うん。ありがとう」
「喋るな」
弥太は黙った。
嘴の端だけは、ちょっぴり上がったままであった。
長い時間が過ぎたような気がしてたが、どれくらいそうしていたのだろう。
「もういい」
冷たい声がした。
弥太はびくりと手を引いた。
「痛かった?」
「違う。もう要らない」
女の子は自分の手を握り、開き、また握った。
氷の欠片は落ちない。
白い髪も、風に揺れるだけになっていた。
そして何より、凍える冷気がぴたりとなくなっていた。
弥太はへにゃりと笑った。
「よかったぁ。割れなくなったねぇ」
「騒ぐな」
「うんっ」
返事の方が大きかった。
女の子は眉を寄せたが、雪の結晶たちは一斉に光った。
ぴかぴか、ぴかぴか。
日の光まで増えたようで、弥太は眩しそうに目を細める。
嬉しいんだね。よかったねぇ。
そう言いたかったのだが、急に足から力が抜けた。
「ありゃ」
ぺたんと雪の上に座り込む。
命皿の水が少し減っていた。花びらが皿の縁へ寄って、ひらひらと揺れている。
女の子が目を細めた。
「そんなに出すからだ。馬鹿」
「うう。おいら、上手に少しずつ出来ないんだよぉ」
女の子は指を一つ動かした。
結晶たちが氷の壁へ飛んでゆき、その表を削る。薄い欠片が幾つも降りてきて、弥太の命皿の上で、水へと戻った。
ひんやりと澄んだ水が皿を満たす。
「あひゃひゃ、気持ちぃ」
「動くな。零れる」
弥太は慌てて頭を真っ直ぐにした。
女の子はそれを見届けると、背を向けた。
「帰れ」
「え?」
「帰りたかったんだろ。早く帰れ」
「うん。すお姉が待ってるから……でも、おいら、まだ何もお話してないよ」
「することはない」
やはり素っ気ない。
さっきまで怖かった女の子は、今もあんまり変わらない顔をしている。
それでも弥太には、少しだけ見ていて安心な顔になった気がした。
弥太が立ち上がると、女の子が片手を差し出した。
「これを持っていけ」
掌の上に、花が一つあった。
氷の花だ。
六つの花弁が重なるように開き、その端から更に細い結晶が伸びている。真ん中に蒼い光が宿り、女の子の手の上で、小さく明るく揺れていた。
「おいらに?」
「他に誰がいる」
弥太は恐る恐る受け取った。
冷たい。でも、痛くない。
氷なのに、掌にぴたりと馴染む。落とさないように指を丸めると、花の奥の光も、そっと小さくなった。
「綺麗だねぇ。これ、溶けない?」
「お前が持っている間は、そう簡単には溶けない」
「じゃあ、お日様に見せてもいい?」
「好きにしろ」
「すお姉にも?」
女の子は少しだけ黙った。
「炙らせるな」
「うん。それは、しないよぉ」
弥太は花を目の高さに持ち上げた。
青くて、白くて、空を透かすときらきらする。
何ていいものを貰ったのだろう。
お腹が空いても、これは食べないでおこう。
そんなことまで考えている弥太を、女の子はじっと見ていた。
その花は、女の子が己の内から分けたもの。
その魂を、その命を、氷の花の形に結んだ分霊である。
弥太の掌で揺れている光は、女の子の胸の奥に戻った光と、同じ息をしていた。
小さな子河童には、そんなことは分からない。
女の子も、教える気はないらしかった。
「なくすな」
ただ、それだけを言った。
「うん。大事にするねぇ」
弥太はにこりと笑った。
女の子は顔を背ける。
「うるさい。もう行け」
その声に応えるように、雪の結晶が幾つも弥太の周りへ集まった。
今度の風は、乱暴ではなかった。
足元の雪をふわりと持ち上げ、弥太の躰をそっと包む。来たときと違い、手も足もちゃんと動く。
「あ、ねえっ。おいら、弥太っていうのっ」
「ひょうめ。氷の芽で氷芽」
「そっかぁ。じゃあ、またねぇ」
氷の壁が遠ざかる。
白い女の子氷芽は、何も言わずに立っていた。
その姿が見えなくなる少し前、弥太の掌で花が一度、ぴかりと光った。
弥太は嬉しくなって、花を握った手を大きく振った。
(ほら。気を付けて。落とさないようにね)
風が叱るように頬を撫でたので、慌てて胸へ抱え込む。
「落とさないよ。大事だもの」
誰へともなく答えた弥太を乗せ、雪の風は川の方へ滑ってゆく。
その先に、朱金色の光が見えた。
あったかくて、眩しくて、少しだけ怒っているような光。
「すお姉ぇっ」
弥太は声の限りに呼んだ。
掌の氷の花を、胸にそっと抱いたまま。
氷の花は寄り添うように光っていた。
子河童の真っすぐな思いが届いていくお話です。
次回もまた、ご一読ください。




