第13話 桜の花びらと氷の願い
まだ目を開けてはならぬ。
ここは幽世。魂だけの世界にて夢見の丘ではなき狭間の世であれば、迂闊に見てしまうと戻れなくなるやもしれぬ故。
妾は丘でまだ新しく芽吹いたばかりなれば、現世の御身の傍へは参れぬ。されど、この霊花たる花弁は御身と共にある。ここでは妾が弥太殿の代わりに見て、お伝えいたしましょう程に。
~本文より
弥太殿。弥太殿。
弥太は誰かに声を掛けられて目を覚ました。
目を開けようとするとふわりと甘い花の香りが鼻をくすぐり、誰かが優しく両目を覆った。
まだ目を開けてはならぬ。
ここは幽世。魂だけの世界にて夢見の丘ではなき狭間の世であれば、迂闊に見てしまうと戻れなくなるやもしれぬ故。
妾は丘でまだ新しく芽吹いたばかりなれば、現世の御身の傍へは参れぬ。されど、この霊花たる花弁は御身と共にある。ここでは妾が弥太殿の代わりに見て、お伝えいたしましょう程に。
あれぇ、この声は、彩櫻姫さま?
もう大きくなったぁ?
お花はいっぱい咲いた?
くすくすと優しい笑い声が花の香りと共に弥太の周りを覆う。
風に揺られた葉擦れの音が心地よく耳に重なり、
「ふぐわぁわぁー」
と弥太は大きな欠伸を一つ放つ。
「なんだぁ。間抜けな感じの奴らがいると思ったら、おちび河童じゃあねえか。幽世で花の精を連れて昼寝とは、てめえ何者だ? まあいい、そんな余裕があんならよ。さっさと助けに来い」
幼い子供のような可愛らしい声が聞こえる。
「おいっ、河童っ、聴いてんのか?」
目を開けずこのままにしておられよ。
さすれば、あのものの助けを借りて、妾も弥太殿に些少なりとてお力添えが出来ましょうゆえ。
どうか、このまま、このままで。
彩櫻姫の甘やかな香りのする手が弥太の目を優しくしっかりと覆って、頬や頭を撫でる。
(あやぁ、気ん持ちぃいい)
すっかりと気持ちよくなった弥太の躰からふわりと力が抜けていく。
しゃあぁあっ。
トロトロになっていく弥太を他所に、猫の怒った時のような鳴き声と、先程のキンキン声で怒声が飛んできた。
「おい、河童っ。てめえっ、いい度胸じゃあねえかっ。この天の星にあやかる名を持つ六連様を無視するとは」
言葉こそは威勢がいいが声の質は矢張り幼くどことなく可愛らしい。
この前のばっことかいう白い猫だよねぇ。
弥太がうろ覚えの記憶を辿ってそう考えると、彩櫻姫の優し気な声が頭の中に響いてくる。
今の声は、人の祈りと神の応えで編まれた小さきものなれど、この先如何様にもなれよう薫り高きもの。
知己のある間柄のようではあるが、そのままでおりゃれ。
弥太殿。御身はまだまだこの幽世から遠く離れておらぬ故に。
まあ、目を開けても妾がその眼を覆う故何も見ることは叶いませぬが。
くすくすと彩櫻姫の笑い声が弥太の耳に届いた。
耳元で聞く笑い声は、思った通りの優しくて麗しい声音で随分と心地が良い。
(ああ、いい笑い声……)
弥太はいい香りに心地よい笑い声にたまらず、にへにへして頬を緩ませた。すると、よほど締まりの無い顔をしていたのか、白い子猫らしきものがしゃあぁあっと怒りの声をまた上げた。
「幽世で花の精といちゃいちゃできる玉ならよっ。早く来いってんだっ。嗚呼、頭にきたっ。無理やりにでも現世におしもどしてやらあぁっ」
何かの気配が膨らんで、雷かと思うような咆哮が辺りに響き渡る。
弥太殿。妾はこれで暫しの別れじゃ。
ほんの少しばかり後に、ゆっくりと御身の話を聞かせてくりゃれ。
(ほら、しっかり目を覚ましましょう。ほら、しっかり)
誰かに声を掛けられたような気がして辺りを見渡す。
風がびょうびょうと光に反射する氷の粒を載せて、全てを凍てつかせようと吹き抜けている白の世界。
弥太は今独りだけ彩を放ちながら、氷の台座に横たわっていた。
「んぐぁああー、良く寝たぁ」
弥太は大きく伸びをすると目を覚ました。
「ん?」
いつの間にやら右手に桜の花びらを三枚握りしめている。
「あれぇ? 彩櫻姫さま、おいら—— ああっ、そうか……」
ようやっと、自分が置かれた状況に気が付いた。
早く逃げ出さないと、あの怖い女の子が来る。
凍てつく寒さにカタカタ震える体をやっとの思いで起こすと、乱立する氷柱を見ながら、逃げ出す方向を見定めようとする。
ひょょょう、ひょょょう。
再び弥太を寒さで固めてしまおうと、巨大な雪の結晶が一つ二つと宙に現れ、さらなる冷気を風に乗せて浴びせかけた。
余りの寒さに嘴をカタカタ言わせながらも、一歩一歩と足を進める。
どうしてこんなに寒いのだろう?
冬の寒さもものともしない河童であるのに、体が強張るほど寒い。
そうだ。あの怖い子に触られてからだ。
そう思いだし、あの怖い子に触られて冷たくなった頬っぺたを思い出して、桜の花びらの事も忘れて、ほっぺをさすった。
すると、手に持っていた桜の花の一枚が、ふわりと頭の命皿の上に優しく舞い降り、凍り付きかけていた命水をもとの揺らめきのある水へと戻す。
「あひゃひゃひゃひゃ」
尻尾までブルブル来るくらい温かく気持ちいい何かが花の香りと共に、体中を駆け巡る。
「さむ……くないよ? はえ?」
雪の結晶はびょうびょう風を弥太へ吹き付けるが、当の弥太は全くなんともない。
宙に浮かぶ雪の結晶の数が、次から次へと増えていき、風もより冷たく、氷の粒を巻き上げて吹き付ける氷晶の風と化した。
しかし、桜の花びらを浮かべた命水はその揺らめきを絶やすことなく、きらきらと美しい湖畔のような澄んだ水のままであった。
「やっぱり、寒くないや……なんでだろう? まあいいか」
弥太はどんぐり眼をきょろきょろ動かし、辺りを見回した。
大きな菱形のキラキラした何かが、小さな同じくキラキラした氷の粒を風に乗せて辺りに舞い踊らせている。
日の光に煌めく氷の粒は蒼い煌めきとなり、空の青さとはまた違うもの悲しくも美しい輝きを放っている。
大きな雪の結晶達は、弥太を凍り付かせようと必死に氷の粒を吹き付ける。
しかし、その氷の粒は優しく柔らかく、あんなに冷たかったことが嘘のようだ。
「あひゃひゃひゃひゃ、くすぐったいから止めてよ」
雪の結晶はチカチカと光の反射で会話しながら、弥太を取り囲むようにすると、ぐるぐると回り始めた。
「え? おいらを凍らせるには自分たちが溶けてなくなっても……ってそれはだめだと思うよ。無くなっていいものは、無くなって皆が笑顔になるものだけだって、千吉が言っていたよ。みんな、綺麗なんだし、だから、無くなったらダメなんだよ。わかった?」
弥太の言葉に、雪の結晶たちは回るのを止めた。
ぴか、ぴかぴか。
一つが光ると、隣の一つも光る。そのまた隣も光って、弥太の周りを小さな煌めきが行ったり来たりする。
吹き付けていた風はまだ冷たいままなのだろうが、弥太の頬には、川面を渡る朝の風くらいにしか感じられない。
「うん? そう言われても困るって?」
弥太は頭を傾げた。
結晶たちはまた、ぴかぴかと光る。
「言いつけられたから、凍らせないといけないの? でも、おいらが凍るのも嫌だし、みんなが無くなるのも嫌だよ。ほら、おいら、凍ってもあんまりいいことないよ?」
そう言って小さな手を広げて見せたが、どうやら結晶たちには通じなかったらしい。
一番近くの結晶が、困ったように斜めになった。
綺麗なものだ。
薄く透き通った六つの枝の先に、更に細い枝がいくつも分かれ、そこへ日の光が差す度に、蒼く白く煌めく。同じ形に見えていたのに、よっく見ると、一つ一つ少しずつ違う。
「みんな、お花みたいだねぇ」
弥太がにこりとすると、その結晶はくるりと裏返った。
何だか照れたように見えたので、弥太もへにゃりと頬を緩ませた。
頭の命皿では、桜の花びらが静かに揺れている。
彩櫻姫さまのお花も綺麗。こっちのお花も綺麗。
だったら、一緒に綺麗なままでいられればいいのに。
「ねえ。おいら、すお姉のところへ帰りたいんだけど、こっちでいいんだよね?」
運ばれて来た道を思い出しながら、氷柱と氷柱の間を指差す。
途端に結晶たちが一斉に光った。
だめ。
行かせない。
そればかりは、だめ。
言葉にはなっていないのに、弥太にはそう聞こえた。
「うう、やっぱりだめなのぉ」
嘴の端が下がった。
すお姉はきっと探している。
火の傍から離れないでと言ってくれたのに。いなくなったおいらを見て、困っているかもしれない。怒っているかもしれない。
それでも、見つけたらきっと、弥太坊、と呼んでくれる。
そう思うと、鼻の奥がつんとした。
「帰らないと、すお姉が心配するんだよ」
結晶たちは黙って浮いていた。
ただ、一つだけが弥太の顔近くまで降りてくると、目尻の涙を覗き込むように、ゆっくり傾いた。
「おいら、泣くといっぱい出ちゃうから……凍らせないでね」
ぽろりと零れた涙は、若緑の頬を伝って雪に落ちた。
小さな窪みが一つ出来る。
それを見た結晶が、はっとしたように後ろへ退いた。
「え? 違うよ。みんなを溶かそうとしたんじゃないよ。おいら、勝手に出ちゃうの」
慌てて両手で目を擦りかけ、右手に残っている二枚の花びらに気付いた。
いけない。彩櫻姫さまがくれたのだ。落としてしまわないようにしなくては。
弥太は花びらをそっと握り直した。
結晶たちは、もう風を吹き付けてこなかった。
凍らせることも出来ず、帰すことも出来ず、どうしたらいいか分からない。そんな感じで弥太の周りに浮いている。
困っているものを見ると、弥太まで困ってしまう。
「じゃあ、あの子に、おいら帰っていいか聞いてくれる? みんな、叱られちゃうと嫌だものね」
ぴかり。
ひときわ大きな結晶が光った。
その時だった。
「誰が帰していいと言った」
冷たい声が、氷の壁の向こうから届いた。
弥太の甲羅がぴくりと震えた。
白い髪の女の子が、氷柱の間に立っている。
透き通った肌は、さっきよりも青白く見えた。細い指が氷柱に掛かっていて、そこから小さな氷の欠片が、ぱらぱらと落ちている。
弥太は一歩後ずさった。
怖い。
また触られたら動けなくなるかもしれない。今度こそ、眠ってそのまま目を覚ませなくなるかもしれない。
命皿の花びらは、そんな弥太の怯えを宥めるように、ふわりと甘く香った。
「何で動ける。凍っていたはずなのに」
女の子は結晶たちへと目を向ける。
たちまち、小さな結晶が幾つも寄り集まった。チカチカと忙しなく光り、弥太と女の子の間で揺れている。
「あ、あのね。この子たち、ちゃんとやっていたよ。おいらにいっぱい風を吹いてくれたの。だから、怒らないで」
「お前には聞いてない」
「うん。でも……」
女の子が氷柱から手を離した。
ふらり。躰がかしいでほんの少し、白い髪が揺れた。
弥太は目を丸くした。
女の子はすぐに躰を起こしたが、氷のような手を胸元へ押し当て、ぎゅっと握り込んでいる。
その仕草を、弥太は知っている気がした。
痛いのを我慢するとき、苦しいのを、我慢するときにするやつだ。
「痛いの?」
女の子が弥太を睨んだ。
「近付くな」
弥太の足は止まった。
怖いものは怖い。近付くなと言われたら、近付かない方がいい。
逃げる道だって、ちゃんと覚えている。
でも、その手から目を離せなかった。
「おいら、痛いところを治すの、少し出来るよ」
「余計なことを言うな」
「うん……おいら、何とか出来る」
女の子の足元へ、雪の結晶が一つ降りた。
小さく明滅するその光を見て、弥太はようやく気付く。
この子たちは、弥太を閉じ込めるためだけに、ここにいるのではない。
心配で、女の子の傍から離れられないのだ。
たぶん、弥太がすお姉を心配するのと、同じように。
「ねえ。おいらに、何をしてほしかったの?」
弥太は花びらを握ったまま、そっと聞いた。
氷の粒が二人の間を流れてゆく。
白い女の子は、俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
次回、氷の女の子へ、弥太の想いが届きます。
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