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天衣の向こうに  作者: しきもとえいき


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第17話 川辺の畑と小さな手当て

川から小さな水路が分かれているのを見つけたのは、石を並べた浅瀬へ出たときであった。

 水は岸の切れ目を通って野へ入り、濡れた土の匂いを乗せながら、低い畝の間をさらさらと流れている。

 水際の柳は枝先だけを淡く色づかせ、その細い芽を透かす光の下で、名も知らぬ小さな草花が、白い花弁を水の方へ傾けていた。


 弥太は水路の縁へ手を掛け、向こう側をそっと覗いた。黒く湿った土には青菜が列を成して生え、その隣では、丸い白いものが葉の根元から顔を出している。


「はぇ、あれ、食べられるものだよねぇ。おいら、あの白いの、千吉と食べたことあるよ」

~本文より

 深い森を縫って流れていた川は、樹々の根が抱え込むような狭い淵を幾つか抜けると、冬の名残を薄く載せた野の方へ、ゆるやかにその水筋を拡げていた。

 岸へ差しかける枝が少なくなった分だけ空は広く、冷たい水の上には午後のお日様が細かな金の煌めきを浮かべ、川底の丸い石まで明るく照らしている。


 弥太は水面へ目と嘴だけを出して、川岸に続く道を見ていた。

 土の上に残る足の痕が目に入る度、さっき見つけた焼けた魚の骨が思い出され、せっかく温まってきた甲羅の裏側まで、何か冷たいものが這ってくるような気がする。


「すお姉、人間はまだ遠くにいるのかなぁ。おいら、あのがちゃがちゃしたのが来たら、水の底に隠れるからね」


「見えるところにはいないわよ。隠れるなら、どの石の下にいるのかアタイにも教えてからにしなさい。探す方が大変なんだから」


 蘇芳は岸の低い枝からそう答えると、弥太の泳ぐ先へひらりと移った。枝に止まる度、羽根の朱金色が枯れ草の間へ映り、その光を確かめてから泳ぎ出す弥太は、先へ進むのも隠れるのも、すっかり蘇芳頼みになっていた。


 川から小さな水路が分かれているのを見つけたのは、石を並べた浅瀬へ出たときであった。

 水は岸の切れ目を通って野へ入り、濡れた土の匂いを乗せながら、低い畝の間をさらさらと流れている。

 水際の柳は枝先だけを淡く色づかせ、その細い芽を透かす光の下で、名も知らぬ小さな草花が、白い花弁を水の方へ傾けていた。


 弥太は水路の縁へ手を掛け、向こう側をそっと覗いた。黒く湿った土には青菜が列を成して生え、その隣では、丸い白いものが葉の根元から顔を出している。


「はぇ、あれ、食べられるものだよねぇ。おいら、あの白いの、千吉と食べたことあるよ」


 思わず声が明るくなり、それを追いかけるようにお腹までくうと鳴った。寒いところを通ってからというもの、空腹は川の流れのように絶え間なくやって来る。まして青々とした葉と瑞々しそうな白い肌を見てしまっては、白いお腹をさすさすしたくらいで収まる筈もない。


 ナスならもっと嬉しいのだが、まだ夏には遠いことくらい、弥太にも分かっている。今日はあの白いのをひとつ、出来ればふたつ、葉っぱも一緒に食べられたら、それで随分幸せになれそうであった。


「畑ね。誰かが育ててるんだから、勝手に抜いちゃ駄目よ」


「うん。貰っていいか聞かないと駄目だよね。でも、聞くのは、人間だよねぇ……」


 弥太は命皿の縁をぴしゃんと叩き、何とかよい方法はないものかと考え込んだ。

 食べたいものを貰うために近付いて、自分が食べられてしまっては困る。それではお腹を空かせたまま隠れているしかないのかと思うと、ますます情けない顔になってゆく。


 そんな弥太を見下ろしていた蘇芳が、ふと畑の奥へ首を向けた。川沿いに積まれた枯れ枝の向こうを、煤のような薄いものがひと筋、地を擦るように横切っている。


「あら、ちょっとおいしそうなのがいるわね。弥太坊、そこの石の陰で待ってなさい。すぐ戻るから、今度はちゃんと待つのよ」


 さっきまで食べ物には何の興味もなかった蘇芳の声が、急に弾んだ。穢れを見つけた途端に湧いてくる食欲に翼の先を輝かせると、弥太の頷きを確かめ、枯れ枝の向こうへ低く飛んでいった。


 弥太は水路へ肩まで沈み、言われた石へぴたりと寄った。遠くで一度、朱金色の火花が散ったが、畑へ延びる草には燃え移らず、風に溶けるように消えてゆく。すお姉はきっと、あれを食べているのだろうと思って見ていたら、自分のお腹もまた鳴った。


 そのとき、畝の向こうから小さな声が聞こえて、弥太は慌てて石の陰へ頭を引っ込めた。布の包みを腰へ結んだ人間の子供が、片手を押さえながら水路へ歩いてくる。


「痛いなあ、根っこまで抜けるかと思ったのに……」


 子供は石の少し上流へしゃがみ、握っていた手をゆっくり開いた。指の付け根を棘で引っ掛けたらしく、土の付いた掌に細い赤い筋があり、水へ入れかけると顔をしかめて引っ込めてしまう。


 弥太は水の底へ逃げようと足を動かしたが、子供の顔が気になって、石から離れられなかった。泣くのを我慢するように口を結び、もう一度水へ手を伸ばす姿を見ると、自分まで指先がちくちくする。


 人間だから怖いし、すお姉を待つと約束もした。ここに隠れていれば見つからずに済むのに、あの手が痛いままだということだけが、どうしても落ち着かない。


(大丈夫。ゆっくりでいいのよ)


 ふわりと頭を撫でられたような気がして、弥太は命皿へ手をやった。誰かに優しく言われたようでもあり、自分でそう思っただけのようでもあって、辺りを見回しても、柳の枝が水に揺れているばかりだった。


 弥太は石の縁からどんぐり眼を出し、子供の手をもう一度確かめると、嘴を小さく開いた。


「ねえ、それ、痛いの? おいら、少しなら治せるから、こっちへ出してみてくれる?」


 子供はぱっと顔を上げ、そのまま動かなくなった。弥太の方でも、あんまり真っ直ぐ見られるものだから、怖くなって少しだけ沈むと、嘴へ水が入って、こぽりと妙な音を立ててしまう。


「河童なの? ほんとに、川に河童がいたんだ」


「おいら、弥太っていうの。あの、食べないでね。おいら、手を治したらすぐ戻るから、棒とか刺さないでね」


 子供は何のことか分からない顔をして、自分の横に置いた根っこ付きの枯れ草を見た。それから弥太を見直し、傷のない方の手をゆっくり横へ振った。


「食べないよ。魚は食べるけど、喋る河童を食べたりしないよ。棒も、これなら草の根っこだし」


 魚を食べると聞いて、弥太はまた少し縮んだ。それでも子供は手を掴もうとはせず、畑で取れた棘が痛いのだと、掌を見せたまま待っている。

 弥太は逃げ道のある水へ腰を残し、片手を石に掛けて、もう片方の手へ命水を掬った。


 水は掌の窪みに小さく集まり、お日様の光を受けてきらきらする。その澄んだ一滴を傷へ載せると、子供の指がぴくりと動いたので、弥太はびっくりして手を止めた。


「痛かった? おいら、冷たすぎたかなぁ。さっきは冷たい方がよかったけど、今度は違うかなぁ」


「痛くないよ。さっきより、ちくちくしなくなった」


 子供は不思議そうに掌を覗き、指をゆっくり曲げ伸ばしした。赤い筋は薄くなり、土と一緒に流れていた血も止まっている。弥太がもう少し水を足すと、傷口は細い薄紅色の痕だけを残し、子供の顔からも、痛みを堪えていた皺が消えていった。


「ほんとに治った。弥太って、すごいんだね。川の水なら、どれでもこうなるの?」


「おいらの、お皿のお水だよぉ。普通のお水も気持ちいいけど、全部がこうなるかは、おいら知らないの」


 いつも通りの頼りない返事をしながら、弥太はへにゃりと笑った。

 子供が痛そうな顔をしなくなったので、それだけで嬉しかったのだが、安心した拍子にお腹が大きく鳴り、折角の笑顔がたちまち情けなくなってしまった。


「お腹、空いてるの? うちの蕪でよければ、あげられるよ」


「はぇ、あの白いの? おいら、あれ、貰ってもいいの?」


 子供は立ち上がり、畑の方へ走りかけてから、途中で振り返った。


「おっ母が、昼のうちに小さいのを抜いておけって言ったんだ。さっき取ったのを持ってくるから、待ってて」


 大人に呼び付けられるのではないかと身構えていた弥太は、取ってあるものを持ってくるだけだと分かって、ようやく石へ手を戻した。すお姉が帰って来る前に、どこかへ行ったりしてはいけない。今度は約束を守れていると独り頷き、子供の姿が見える畝の間を、じっと見て待っていた。


 畑の向こうには低い垣があり、その先の梅の枝に、散り残った白い花が幾つか付いている。風が通ると花弁がひとひら離れ、まだ黒い土の上へふわりと降りた。山の奥よりも柔らかな風には、濡れた土と青菜の匂いが混じり、遠い家から聞こえてくる木を叩く音まで、川のせせらぎに重なって届いていた。


 ここにも誰かの暮らしがあるのだと、弥太は言葉にするほどは分からないまま、その穏やかな音を聞いていた。人間のいるところは全部怖いと思っていたのに、梅の花も川の水も、さっきまで通ってきた野と同じように、お日様の下で光っている。


 子供は葉の付いた小さな蕪を三つ抱えて戻って来ると、上流の水で土を洗い、白い肌の見えるものから石の上へ並べた。


「これなら硬すぎないから、そのまま食べられるよ。おっ母は、葉っぱも甘いから捨てるなって言うんだ」


 弥太は差し出された手を一度見て、それから蕪を見た。怪我の治った指が蕪を石へ置き、弥太が取りやすいところまで転がしてくれる。その手が引っ込んだのを確かめて、ようやく一つを受け取ると、濡れた葉の青い匂いが嘴の近くへ広がった。


「ありがとうねぇ。おいら、いただくよ。これ、すんごく綺麗な白だねぇ」


 かりりと齧ると、冷たい汁が口へ溢れ、淡い甘さが舌いっぱいに広がった。ナスともキュウリとも違うが、これはこれでたまらなく美味しい。白いお腹をさすっていた手を蕪へ戻し、もう一口齧った弥太は、長いまつ毛まで嬉しそうにしばたたかせた。


 子供もそれを見て笑い、残りの二つを取っておけばいいと言ったので、弥太は葉ごと甲羅へしまった。葉の先までするりと消えたところで子供の目が丸くなったが、弥太は口の中の美味しさに忙しく、その不思議そうな顔には気付かなかった。


「弥太坊、ちゃんと待って――あら、何してるの?」


 戻って来た蘇芳が石へ降りると、子供は今度こそ声を失った。

 大きな金色の鳥が喋るのだから無理もない。弥太は齧りかけの蕪を持ち上げ、まだ葉の付いたままの口で、嬉しそうに言った。


「すお姉、おいら、食べられなかったよぉ。手が痛そうだったから治したら、これ、くれたの。ここでちゃんと待ってたよ」


 蘇芳は子供の手と弥太の顔を見比べ、事情を聞いてから翼を畳んだ。弥太が子供に蕪の礼を繰り返しているので、そこで細かく問い直すことはせず、代わりに鯉が淵までの道を尋ねると、子供は川下の柳が並ぶ方を指差した。


「あの先で大きな水門が見えたら、畑の水路へ入らず、広い川の方へ行くんだよ。そこから鯉が淵までは、ずっと川に沿って道があるから」


 弥太は蕪を持ったまま礼を言い、最後にもう一度、治った掌を見せてもらった。痛くないと聞いて満足すると、水路から川へ戻り、泳ぎ出す前に、子供へ水掻きの手を振った。


 人間が皆、怖くなくなったわけではない。遠くの道に誰かの影が動けば、弥太はまだ水へ隠れたくなるし、硬い皮の人間が現れたら、きっと大急ぎで蘇芳を呼ぶだろう。それでも、さっき蕪を置いてくれた手は、棒を刺す手ではなかった。


 川面には柳の細い影が揺れ、その間を離れた梅の花弁が、弥太と同じ方へ流れてゆく。子供の声が風に薄くなっても、口に残る蕪の甘さは消えず、小さな甲羅には、まだ二つ、美味しい白いものがしまってある。


「すお姉、着いたら白い猫にも分けてあげるの。お腹空いてたら、ちょっとだけ怒らなくなるかもしれないからねぇ」


 蘇芳はそれなら急いで届けようと言って先の枝へ移り、弥太もまた、金色の影を水の中から追いかけた。

 弥太は思った。

 人間は怖いけど、怖くない人間もいるんだ。今度千吉に教えてあげよう。

 そう心に決めながら、鯉が淵をまずは目指す。


次回、人里に近くなり、怖がりながらも突き進む弥太を描きます。


ここまで読んで頂きありがとうございます。

また是非ご一読ください。

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