早馬
幕の切れ目から寺の者が入り、瑞璵の前に膝をついた。
「市へ参りました。一月前、藤兵衛の店の商品を荒らしたという出来事の目撃者として、名の挙がっておりました二人に、それぞれ会って話を聞いてまいりました」
「聞かせなさい」
「二人の申すことは、藤兵衛殿の訴えと同じでございました。違うところはございません」
瑞璵が伊波姫の方へ向き直った。
「姫。いまの話は、事実でございますか」
姫が顔を上げた。
「はい。たしかに会いに参りました」
声は低い。だが、はっきりしていた。
「佐野の若君との仲について、確かめておきたかったからでございます。ですが、売り物を荒らしてはおりません」
千手院の院主が膝を進めた。
「庠主様。その場を見た者が二人もおるのでございます。なれば、藤兵衛の訴えの方が正しいのではありませんか」
翼は眉を寄せた。
「ちょっと待ってください」
皆の目が翼へ向いた。
「何かあるのですか。金山の姫様」
「その二人は、あの娘の近くでいつも店を出している人たちなのですよね」
「左様ですな」
「だったら、あの娘と親しい仲と考えられます。その話を完全に信じてもいいのでしょうか」
「もっと、伊波姫ともあの娘とも関わりのない方が見ていたのなら、その人の話も聞けばいいと思います」
千手院の院主が、呆れたように息を漏らした。
「そのような者が、都合よくおればの話でございましょう」
「それは……そうですけど」
翼は口をつぐんだ。
「いるかもしれません」
不意に声がした。またあの、成田左馬助だった。
「たまたまあの場に居合わせ、藤兵衛殿とも、娘御とも、佐野の御家とも縁がない」
そこで、わずかに間を置いた。
「しかも、目にしたものを人並み以上に細かく憶えておくことのできる者が」
妙に細かな条件だった。院主も同じことを思ったのだろう。怪訝そうな顔で左馬助を見る。
「そのような者が、おると?」
「さて」
左馬助は答えず、縄の外へ顔を向けた。
そこには、裁きを見物しようと集まった町人や寺の者、学生たちが幾重にも立っている。
左馬助はその人垣を、ゆっくりと見渡した。
「おりませんかな」
しばらく、誰も動かなかった。
やがて人垣の中から、深いため息が聞こえた。
「…………はあ」
そして一本の手が上がる。
「ここにおります」
人々が左右に分かれる。
立っていたのは、一人の若い僧だった。
二十を少し過ぎたほどに見える。
痩せた身体に、ひどく着古した衣をまとっている。藍は何度も洗われて色を失い、袖口にはほつれまであった。
この場に集まった武家や寺院の者たちの中では、ひどくみすぼらしく見えた。
翼も、そんな僧がそこにいたことさえ、それまで気づいていなかった。
若い僧は上げていた手を下ろした。どうにも、進んで名乗り出たという様子ではない。
「随風か。こちらへ参れ」
瑞璵が言った。
随風は人垣を抜け、縄の手前まで来ると膝をついた。
瑞璵は幕の内へ顔を向けた。
「手前の学校の学生でございます。まだ若いが、随分と出来る男でしてな」
それから随風へ向き直る。
「左馬助殿の申された通りなのか」
随風は一瞬、成田左馬助を見た。
左馬助は何も言わない。
「……おおむねは」
「おおむね?」
「私はあの日、あの市におりました。藤兵衛殿や、そちらの娘御とも関わりはありません。佐野の御家にも、伊波姫様にも縁はございません」
「どこから見ておった」
「あの店の向かいにある茶屋の脇でございます」
随風は淡々と答えた。
「店までは、およそ十五間。間に道が一本ございます」
藤兵衛が顔をしかめた。
「十五間も離れていて、何が分かる」
「声は聞こえませぬので、何を話していたのかは存じません。ただ、見えたものならば憶えております」
「どの程度に」
瑞璵が問う。
「姫様は薄浅葱の小袖。白の細帯。御供は三人で、すべて女。赤茶、鼠、萌黄の小袖をそれぞれ着ておりました」
伊波姫が、わずかに目を見開いた。
その発言を誰も否定しない。
「娘御の店には、櫛が七つ。手拭いが五枚。小さな包みが四つ。包みのうち、一つだけ紐が赤かった」
「待て」
千手院の院主が言った。
「十五間も先のものを、そこまで憶えておるというのか」
「昔から、見たものを忘れにくい性分でございますので」
瑞璵が口元を緩めた。
「こやつは書を一度読めば、どこに何が書いてあったかまで憶えておる。気味が悪いほどにな」
随風は少しだけ眉を下げた。
「庠主様、それは言い過ぎでございます」
場に、わずかな笑いが漏れた。
だが藤兵衛も初衣も笑ってはいない。
「それで、何を見た」
瑞璵の問いに、随風の表情が戻った。
「早馬でございます」
「早馬?」
場の空気が変わった。
早馬という言葉は、藤兵衛の訴えにも、初衣の話にも一度も出ていない。
「姫様と娘御が話しておられたところへ、早馬が一騎、市を抜けてまいりました。人は多うございましたから、皆、道の左右へ押し退けられました」
随風は床の上へ指を滑らせ、人の動きを示した。
「姫様たちはこちらへ。娘御は反対へ。その間から、男が二人、押し出されました。一人は籠を背負った男。もう一人は、茶色の短い上衣を着ておりました」
指先が、娘の店のあった辺りで止まる。
「その二人が、娘御の品の上へ出ました。籠を背負った男が手拭いを踏み、もう一人が櫛を蹴った。櫛は二つ、道へ飛びました」
翼は初衣を見る。
「では、姫様の御供が荒らしたのではないのですね」
「少なくとも、私が見た限りでは」
随風は答えた。
「その後、姫様は散らばった品を拾おうとなさいましたが、娘御はそれを止めました」
「姫様が手を伸ばし、娘御がそれを遮った。その後、姫様は手を引き、御供とともに立ち去られました」
「そうじゃないんですよ。違います!」
初衣が立ち上がった。
「姫様は、早馬の騒ぎに巻き込まれたふりをして、御供の男の人たちに店を荒らさせたんです!」
随風は初衣へ顔を向けた。
少しの間、黙ってから、首を傾げた。
「御供の、男ですか」
「そうです」
「あの時、姫様の御供は三人」
随風は指を三本立て、一本ずつ折った。
「赤茶。鼠。萌黄。すべて女でございました。品を踏んだのは、早馬を避けて人込みから押し出された男二人です」
随風は静かに言った。
「その男たちを姫様の御供と申すのは、無理があるかと存じます」
「それは……その……」
その先が続かなかった。
「おかしいではございませんか!」
娘を庇うように、藤兵衛が声を張り上げた。
「庠主様。どうして、かような学生の申すことをお信じになるのでございますか」
藤兵衛は随風の方へ手を向けた。
「彼は、どこの誰とも知れぬ、ただの学僧です。着ている物を御覧ください。あれでは里が知れるというものでございましょう」
随風は自分の袖を見下ろした。
ほつれた袖口をつまみ、少し眺める。
何も言わなかった。
「それを申されるなら、藤兵衛殿」
答えたのは、成田左馬助だった。
「あなたのその御召し物は、一町人が着るには、いささか立派すぎるのではありませんか」
「私のですか。私の着物は、いまの話には関わりございません」
「いえ。関わります」
左馬助が立った。
そのまま膝を進め、藤兵衛の前まで来る。
「私が今日、この町へ参った理由こそ――」
藤兵衛の着物を、上から下まで見定めた。
「あなたが、そのような着物を着られる理由ですので」
◆間 長さの単位です。一間は約一・八メートルです。
◆薄浅葱・鼠・萌黄・赤茶 小袖などの色目の名です。浅葱は薄い青緑、鼠は灰色、萌黄は黄緑系です。
◆学僧 学問のために僧籍にある者です。足利学校の学生の多くがこれに当たります。




