成田左馬助氏長
姫は、口を開きかけて閉じた。
膝に置いた手は動かない。指の先だけが袖の縁に触れて、そこで止まっている。
何か言おうとしている。言おうとして、言う言葉を選びかねているように見えた。
翼にはその迷いが分からなかった。違うと言えばいいだけではないか。
そう思ったとき、今朝の市が浮かんだ。
通りの輪。良い着物の女。低い声。届かなかった言葉。
翼は息を止めた。
噛み合わない。あのときの姫は、もしかして。
膝を立てた。
「恐れながら」
声は、向かいの列から上がった。
視線を向けると若い侍が手を挙げていた。膝を立てもせず、手だけを肩の高さに挙げている。
翼は立ちかけた膝を、そのまま下ろした。
それから、その顔を見た。
今朝、市で二人のあいだに入った侍である。
朝は旅の装だったが、いまは肩衣をつけている。それでも顔は同じだった。ずっとそこに座っていたのに、翼は一度も気づかなかった。
「あなたは……。成田氏のご名代、忍の若君ですかな」
「はい。成田左馬助氏長と申します」
左馬助は瑞璵のほうへ膝を向けた。
「庠主様。一つ確認したいことがあります。佐野の若君へ一つ伺ってよろしいですか」
瑞璵が扇を動かした。
「どうぞ」
左馬助は次郎を見た。
「次郎殿。今朝、姫様が申されたという言葉を、若君は確かにその文言でお聞きになりましたか」
「勿論だ。伊波は毒の話をしていた」
「さきほどもそう言われていたが、その先はいかがですか。もっと強い毒にすればよかった。そこまでお聞きになりましたか」
次郎の顎が少し上がった。
「毒と申したのだ。ならば初衣の申すとおりであろう」
「では、若君がお聞きになったのは『毒』という一語だったと」
次郎は答えなかった。
「実は私も、その場におりました」
左馬助は瑞璵へ向き直った。
「人が集まっておりましたので、何事かと騒ぎの中心へ向かったのです」
「丁度その時、姫様は何かを語りながらその娘御のほうへ手を差し出しておられました」
「手をですか」
「そうですそしてその娘御がその手を払いのけ、わたしが何をしたと言うのですかと大声で問うた」
「ふむ。すこし状況が違うように見える」
「ええ。私が確認したいのはそこです。あの手は何か。毒と言う言葉は何かです」
佐馬助は伊波姫の方を向く。
「姫。もしかしてあなたの差し出した手に、何か持っていたのではないですか。例えばそう――」
「毒に効く薬などを」
姫の指が動いた。
袖の内へ入って、出てきた。
手のひらに、小さな二枚貝が乗っていた。合わせ目に糸が巻いてある。
声は低かった。
「これを。越中の、毒に効くという軟膏でございます」
姫はそれを膝の前に置いた。
「布屋の娘が毒で倒れたと、町で聞きましたので」
「それも毒なんじゃないですか」
初衣が立った。
「薬のふりをして、渡すつもりだったんです」
瑞璵が手を出すと寺の者がその二枚貝を受け取って、幕の内へ運んだ。
瑞璵は糸を解いて、蓋を外す。
指の先に付けて、匂いを見た。それから自分の手の甲へ塗って、少し擦った。
「これは知っております」
扇を膝に置いた。
「毒ではありません。虫や蛇の毒に塗るものです」
初衣が口を開いて、そのまま閉じた。
次郎は初衣を見なかった。
「どうやら、今朝の一件は、お互いの行き違いのようですな。この咎を誰かに問うのは、やめておいたほうがよろしい」
翼は膝の上で手を握り直した。
なんだあの若侍。成田の名代といったか。
自分も同じことを考えていたのに。先を越されて手柄を独り占めされた。
私は、推理なんかじゃなく、姫の手の内にあった二枚貝まで思い出していたのに。
恨みがましい目で若侍を見ていると、視線に気付いたのか、若侍は翼の方に視線を向けて、あろうことか笑顔を見せてきた。
な。
なんなんだあいつ。
翼はむかつく人だと思った。
◆成田氏 武蔵国忍を本拠とする国人です。忍城を居城としました。
◆成田左馬助 成田氏の人物です。左馬助は官途名、氏長は諱です。戦国期の忍城主家に連なります。
◆忍城 武蔵国行田付近(現・埼玉県行田市)の城です。成田氏の本拠で、沼沢地を利用した防御で知られます。
◆肩衣 武士の礼服の一部です。袴と合わせて着用します。




