落飾
あのとき、良い着物を着ていた女は確かに伊波姫だ。
そして、町娘を侍らせ伊波姫と口論をしていた侍は――
翼は目の前に視線を向け直す。
その侍、佐野次郎は立ったままだった。
「もっとも、私も黙って契りを断つのではありません。破棄に足る理由がございます」
次郎は伊波姫の方を指さす。
「悲しいことに、伊波姫は、私が初衣に想いを寄せることを妬み、初衣に対し嫌がらせを繰り返していたのです」
次郎は声を荒らげず滔々と語る。
まるで舞台劇をみているようだ。
「初衣はこの町の領民です。領主の息女である伊波姫に、何かを訴えられる身の上ではありません。だから私が言いましょう」
そこで次郎は、向かいの列の端へ顔を向けた。
「伊波姫――」
呼ばれて伊波姫が顔をあげた。
「あなたは私の妻にふさわしくない。だから藤原佐野次郎親綱として申し上げる。許嫁の約を破棄し、そして――」
「領民を苦しめた罪を恥じ、すぐに髪を下ろし仏門に入られよ」
その言葉に場がざわめきだした。
これは許嫁の約束を一方的に破棄し、相手に剃髪を強要している。
そんな無茶苦茶なことはあるかと翼は思う。
事情ははっきりわからないが、言い過ぎだ。
さすがに本人も、はい判りましたとは言えないだろう。
衆目の視線が、伊波姫のほうへ向く。もちろん翼も。
だが、伊波姫からの返す言葉はなく。
沈黙が場を支配した。
池の向こうで、鳥が一声鳴く。刹那――
「承りました」
姫の口からそう告げられた。
表情も崩れず、声も震えていない。
姫は誰の顔も見ていない。次郎の顔も、脇に控える家人の顔も、この場にいる誰の顔も。
即答した姫には断るという道が、はじめから無いかのようだった。
姫は膝の上の小袖の裾を直し、それから膳の椀の位置を指で戻した。
ずれていたわけではない。両手を膝に置いて一礼し、立った。幕の切れ目へ向かって、二歩、歩いた。
誰も袖を引かなかった。
その後姿の切なさに、翼は自分でも気付かないまま立っていた。
そして口を開いていた――
「お待ちください」
自分の声が思ったより高く出る。
幕の内の顔が、いっせいにこちらを向いた。
姫も、こちらを向いていた。
二歩の途中で止まったまま、体を半分だけひねっている。眉も口も動いていない。ただ、目が開いていた。
何か言われるのだと思った。姫は何も言わなかった。
「金山の姫殿」
先ほど大演説をぶっていた次郎が笑顔になった。困っている笑顔ではない。
「何か言いたいことがあるのですか?」
「あの。そのですね――」
翼はあせる。
声をあげて引き留めたはいいがその先は何も考えていない。
ただ伊波姫を一人で行かせたくなかっただけである。
「どうしたのですか?」
次郎が屈託のない表情でこちらに笑いかけてくる。
なんだこの男は。
翼はむかっとなって、いま思いついたことを考えもせずに口に出した。
「調べていないと思います」
言ってから、言い方が悪かったと思った。
だが別の言葉が出てこないので、そのまま続けた。
「嫌がらせがあったのか、なかったのか。誰も調べていません。それで出家するなんておかしいと思います」
向かいの端で、誰かが小さく頷いた。頷いてから、すぐ膳へ目を戻した。
千手院の院主が咳をした。
「あー、金山の姫様。この儀は、佐野殿と長尾殿の御家のことでございますゆえ」
別の院主が続けた。
「うむ、寺の振舞の座で皆様の御家事情の詮議をなさるのは、いかがなものかと」
「では、どこでするのですか」
「それは、しかるべき場で」
「しかるべき場とは、どこですか」
「それはですな……ううむ」
翼が聞くと、院主は答えに窮した。
伯父が下から袖を引いた。
そろそろやめろと言いたいのだろう。
けれど翼は引かれた袖を無視することにした。
ここまでやって後に引くわけにはいかない。
なぜなら、翼も、そしてこの場の全員がわかっていることがある。
事この場において、佐野氏の御曹司に対抗できるような発言力を持っている家は一つしかない。
新田金山の横瀬氏。翼の家だ――。
父の名代として横瀬の名を背負っている以上、いくら伯父に止められようとここで引くという選択はなかった。
「はっ。ははははははは」
そのとき、唐突に笑い声が上がった。
池を背にした席で、袈裟の老僧が声を立てて笑っていた。膝を叩いている。
翼は呆気に取られたが、すぐにその顔に見覚えがあることに気付く。
「あのときの甘茶のおじいさん」
「如何にも。面白いですな、姫」
老僧は笑いをおさめて、翼を見た。
「花御堂の前で聞かれた事。昔の人から伝え聞いた話を、誰も本当か確かめてないのにありがたがる。今この場で言われたことと全く同じですな」
袖の中で手を組んだ。
「姫はよほど、本当のことに価値があると思われている」
「それは、もちろんです」
「ははっ。ではやってみますか」
老僧が膝をぽんと叩くと幕の内が動いた。院主たちが揃って膝を直した。
「伯父上……あの方は」
翼が小声で聞くと、伯父が口を開いた。
「玉崗瑞璵様。足利学校の長、庠主様です」
なるほど、と翼は納得した。
つまり偉い人なんだろう。
寺の偉い人が、この老僧の言葉一つで居住まいを正す。
では、佐野次郎はどうだろうか。
「いかがですかな。佐野の若君」
老僧・瑞璵の言葉に次郎が何かを言いかけるがすぐに口を閉じた。
「庠主様がそう仰るのなら、私に否はございません」
「そもそも私や初衣に隠すことは何もございません。むしろ有難い」
どうやら佐野の若君でも、瑞璵老人に否とは言えないのだと、翼にも分かった。
瑞璵が持っていた扇を開く。
「では、この場は足利学校九代庠主玉崗瑞璵九華が仕切りましょう」
扇を幕の端に立つ僧兵に向けた。
「伊勢の藤兵衛とその娘初衣をここに。皆で話を聞きましょう。二人ともです」
「急がなくてよい。膳を下げてから座らせなさい」
僧兵たちは言われてすぐに駆け出して行った。
翼は座り直して大きく息を吐く。
「姫様。やりすぎです」
伯父の言葉はもう少し聞き流そうと思う。
ふと視線を向けると伊波姫は幕の切れ目の手前に立ったままだった。
座へ戻ろうともせず、まだ翼のほうを見ていた。
◆落飾 髪を下ろして出家することです。女性の場合は尼となることを指します。
◆千手院 足利の寺院の一つです。鑁阿寺周辺の院号として登場します。
◆玉崗瑞璵/九華 足利学校九代庠主です。玉崗瑞璵が法諱、九華が号として知られます。
◆庠主 足利学校の長です。学問・校務の頂点に立ちます。
◆僧兵 寺院に属する武装した僧衆です。寺域の警備や行事の差配にも当たりました。




