治部
火鉢の中で、炭がかすかに鳴った。
熱にあおられて、白い灰がひとひら、ふわりと浮き上がる。
灰は、障子越しの光の中をしばらく漂ってから、ゆっくりと床へ落ちていった。
国寿は、それをぼんやりと目で追っていた。
「――北宮子と西門子は、同じ世に生まれ、同じ家柄で、同じように振る舞っておりました」
その声に、国寿ははっと我に返った。
「それなのに、人に用いられ、敬われるのは西門子ばかり。北宮子は、窮したままでございます」
目の前の着古した衣の、若い学僧は、書物に目を落としたまま話している。
この人の名前は随風先生という。
足利の学校から呼ばれて、国寿に書を講じている。
今日読んでいるのは、『列子』という古い書の一節だった。
講義に使っているのは、金山の南の麓にある金龍寺の、離れの書院である。
「若様。聞いておりますか」
随風が、書物から目を上げた。
「あ……は、はい」
慌てて国寿は返答する。
国寿は、金山城の主である横瀬成繁の子で、この春十二になった。
いずれ家を継ぐ身として、こうして学問を仕込まれている。
「……では続けます」
「お……お願いします」
「嘆く北宮子に、東郭先生はこう申されます。北宮子は徳に厚くして命に薄く、西門子は命に厚くして徳に薄い。達するも窮するも、みな天であって人ではない、と。さて――」
随風は国寿の方を見る。
「列子はかく申します。徳と命は別のものである、と」
国寿は背筋を伸ばした。
「ならば若様。徳を積むことに、何の益があると若様は考えますか」
「え……っと」
国寿は口を開いたものの、その先が続かない。
「徳を積んでいれば、いつかは報われる……のでは、ないでしょうか」
「では、報われぬまま嘆いておる北宮子は、徳など積まねばよかったのでしょうか」
「それは……その」
言葉を探すうちに、頭に浮かんだのは書物の中の話ではなかった。
同じ家に生まれ、同じように育ったはずなのに、人に用いられる者と、そうでない者がいる。
父の留守に公事を任され、うまく裁いてみせる姉の翼がいる。
そのそばで自分は、書を読んでいるだけである。
北宮子の嘆きは、他人のものに聞こえなかった。
「……分かりません」
国寿は、うつむいた。
「ふむ……なるほど」
随風が、考え込みながら障子の方を一瞥して、ぱたりと書物を閉じる。
「今日はこの辺りにしましょう。若様は、考える時間が必要なようです――」
責める口ぶりではない。それが、かえってこたえた。
「この問いの答えは、次の講義までに考えておいてください」
国寿は、書院を出て、寺の門をくぐる。
供の者には、先に城へ戻るよう言ってあった。今は、一人で歩きたかった。
城へ帰るには、麓から大手の坂を上っていく。
冬枯れの木立のあいだを、国寿は足元ばかり見ながら上った。随風の問いが、まだ頭の中で回っている。
坂を上りきると、大手の虎口が見えてくる。
その手前、堀切と崖に挟まれたところに、月ノ池があった。
石で囲まれた池の水は、冬の日を受けても暗い。
その畔に、人がひとり立っていた。
治部様である。
中城に住まう岩松守純は、父が仕えていた古い主だった。城では今も御屋形と呼ばれているが、中城の外に出てくることはほとんどない。
国寿が足を止めると、治部様のほうが先にこちらを見た。
「国寿殿か」
「治部様。このようなところで、何をしておいでですか」
治部様は、池に目を戻した。
「数日前、この池で、わしの屋敷に出入りしておった者が死んだ。酒に酔って、足を滑らせたらしい」
国寿は、水面を見た。何も浮いてはいない。
「……悲しいのですか」
治部様は首を振った。
「あの者は、酒を嗜まぬと言っておったはずなのにな」
独り言のような声だった。
国寿が何か言おうとする前に、治部様はもう一度口を開いた。
「籠もってばかりでは、身内のことさえ分からなくなる」
国寿に向けた言葉なのか、自分に言ったのか、分からなかった。
治部様は、それきり黙って水面を見ている。
国寿は、しばらくその横に立っていた。何か言うべきことがある気がしたが、言葉は見つからない。
「……失礼いたします」
国寿は頭を下げて、池を離れた。
坂の途中で、一度だけ振り返る。
治部様は、池の畔にひとりで立ったまま、水を見ていた。




