検分
時は降りて、百五十年――
永禄四年正月、上野国新田郡新田荘金山城。
まだ明けきらない空の下を、ひとりの武士が大手の虎口へ急いでいた。
がっしりとした体つきの男である。濃い眉の下で、目が鋭く前を見据えている。
吐く息が白い。霜の降りた土が、草履の下でかすかに鳴る。
男の名は、金谷筑後守長宗。
城内の検断を預かる奉行である。
月ノ池に人が浮いている、と報せが来たのは、つい今しがただった。
金山城は、山の尾根に沿って曲輪を連ねた山城である。
城主の屋形がある実城から坂を下り、大手の虎口を抜けると、そこから先は城の外になる。
虎口を出てすぐ、堀切と崖に挟まれたところに、月ノ池はあった。
石垣と石敷きで四方を囲った、桶のような池である。水は深く、落ちれば壁をよじ登ることはできない。
池の縁に、人だかりができている。
下人たちが筑後守に気づいて、道を空けた。
遺体は、もう岸に上げられていた。筵の上に寝かされて、濡れた髪が額に張りついている。
「引き上げたのは誰だ」
「わしらでございます」
年かさの下人が進み出た。
夜明け前に水を汲みに来て、見つけたのだという。
「どのあたりだ」
「へえ。奥のほうの、崖の下に、うつ伏せで浮いておりました」
筑後守はうなずいて、遺体の脇に膝をついた。
*
筵の向こう側に、藤生弥太郎が屈み込む。
元服したばかりの新参の検使である。広沢の藤生家の嫡男で、この冬から金山に出仕している。亡骸を前にして、顔がこわばっていた。
もう一人の配下、柏木新八郎は、帳面を手にして立っていた。壮年の検使で、調べ書きを受け持っている。
「身元は」
「作事方の善蔵にございます」
新八郎が、帳面から目を上げずに答えた。
「城の建物の手入れをしておった職人で、三十を過ぎております。昨日は西城の木戸を直しておりました。仕事を終えたあとは、誰も見ておらぬそうです」
筑後守は、遺体の衣の前をはだけた。
刃の傷はない。
うつ伏せに返して背を見ても、刺し傷はなかった。衣も、どこも切れていない。
腕と脛に、擦り傷と痣がいくつかある。石で囲った池に落ちたのなら、このくらいの傷はつくだろう。
懐を探ると、銭がそのまま出てきた。
「物盗りでは、ないようですね」
弥太郎が、低い声で言う。
筑後守は立ち上がって、池の縁を見て回った。
縁の石の上に、瓢がひとつ転がっている。そのそばに、草履が片方、脱げたように残っていた。
目を上げると、池の奥は切り立った崖である。崖の下から池の縁にかけて、草が倒れ、土が擦れていた。
何か重いものを引きずったような跡に見える。
「これは」
「前日、普請の石を運んだ跡にございます」
新八郎がすぐに答えた。帳面をめくって、指で行をたどっている。
筑後守はうなずいた。
新八郎が、池の縁の瓢に目をやる。
「酔っていたようですな」
弥太郎が、首をかしげた。
「この者は、酒を飲まぬはずです。先日、普請の手伝いに出たとき、振る舞い酒を断っているのを見ました」
弥太郎の話に、筑後守は少し引っかかった。
だが、人前で酒を断る者が、ひとりのときに飲まないとは限らない。
縁には瓢が転がり、草履が片方脱げている。池は深く、一度落ちれば上がれない。夜にひとりで飲んで、足を滑らせたのだろう。
「この者に、身寄りは」
「城内には、おりませぬ」
新八郎が答える。
「娘が一人おりますが、遠くへ奉公に出ていると聞いております」
亡骸を引き取らせる者も、すぐには見つからないということになる。
それに、城は戦の支度に追われている。下働き一人の死に、長く人手を割くことはできない。
「新八郎」
「はっ」
「調べは、これで終いとする。誤って落ちたものか、と書いておけ」
新八郎が筆を走らせる。
「亡骸は、麓の寺へ運んでやれ。無縁仏として弔ってもらう」
弥太郎が下人たちに声をかけ、筵ごと遺体が担ぎ上げられた。
*
筑後守は、池を離れた。
坂の途中で、一度だけ振り返る。
朝の光が、崖の上から差しはじめていた。
水面は、もう静かである。何事もなかったかのように、冬の空を映していた。




