正通
目を開けると、山の中にいた。
知らない山である。
木々の間から、灰色の空が見えている。風が冷たい。土と、濡れた落ち葉の匂いがする。
足利の匂いは、どこにもなかった。
起き上がろうとしても、体が動かない。脚も首も、言うことをきかない。
声を出そうとしても、何も出てこない。
あたりには誰もいなかった。
空が暗くなり、また明るくなる。
腹が減った、と感じることもなくなっている。体の芯から、少しずつ何かが抜けていく。
このままでは死ぬ。
そう思ったとき、自分の中にまだ残っているものに気づいた。
化ける力である。
あの夜、山で父たちが見せていた力が、ほんのわずか、体の底に残っていた。
石なら、息をしなくてもいい。
守太郎は、最後の力を使って、石に化けた。
*
苔が乗る。
落ち葉が積もる。
雪が降り、溶け、また降る。
……。
苔が厚くなる。
積もった落ち葉の下で、去年の落ち葉が土に変わっていく。
雪が降り、溶け、また降る。
…………。
何度も。
………………。
*
誰かが、石を持ち上げた。
揺れている。どこかへ運ばれていく。
それから、温かいものに包まれた。
じわり
冷えきっていたところへ、温みが染みてくる。固まっていたものが、端から少しずつほどけていった。
*
目を開けると、赤茶けた湯の中にいた。
大きな盥に、首から下が浸かっている。錆びた鉄のような匂いが、湯気と一緒に立ちのぼってくる。
盥の向こうに囲炉裏があり、鍋がかかっていた。湯が煮えている。
その前に、僧がひとり座っている。
頭を丸めた、痩せた男である。墨染めの衣が、ところどころ擦り切れていた。
僧は鍋から湯を汲んで、盥に足した。
「おお。戻ったか」
驚いた様子もない。
守太郎は、盥の縁に前脚をかけた。
体が動く。
それから、気づいた。
腹の奥が、冷えていない。
足利の館にいたころから、ずっと腹の底に居座っていた冷たいものが、どこにもなかった。
わけは分からない。
「山で妙な石を拾うてな。湯に浸けてみたら、お前になった」
僧は、それが当たり前のことのように言う。
「ここは伊香保の湯だ。わしは正通という。旅の坊主だ」
*
「足利へ、行かねばなりません」
自分の口から出た声に、守太郎は驚いた。
足利の館では、どれほど答えようとしても、かすれた息しか出てこなかった。それが今は、人の言葉になっている。
「ほう。口もきくか」
「足利の奥方様に、会いたいのです。助けていただいた恩を、まだ返していません」
「足利の、どなたの奥方だ」
「義兼様の奥方様です。時子様とおっしゃいます」
正通は、湯を汲む手を止めた。
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜる。
「それは、二百年ほども前の話だな」
守太郎には、何を言われたのか分からなかった。
「足利の義兼公といえば、鎌倉殿の世のはじめの人だ。その方の奥方なら、もう生きてはおられぬ」
正通は、囲炉裏に薪を一本くべた。
「今は応永の世だ。鎌倉殿はとうに絶えて、天下は京の室町殿が治めておられる。その室町殿も、もとをたどれば足利のお家の出だがな」
苔が乗り、落ち葉が積もり、雪が降る。何度も。
あれが、二百年だったのである。
正通は、しばらく黙っている。それから、静かに口を開いた。
「北条時子殿のことなら、足利の法玄寺という寺に、その死にまつわる言い伝えが残っている。義兼公の長子の義純殿が、奥方の菩提を弔うために建てた寺だ。寺では、智願院殿としてお祀りしている」
正通が、守太郎の目を見る。
「悲しい話だが、知りたいか」
守太郎は、盥の縁にかけた前脚に力を込めた。
「聞かせてください」
正通は、ひとつ息をついてから語りはじめた。
「建久七年のことだそうだ。義兼公が鎌倉に出仕しておられるあいだに、時子殿は、侍女が汲んできた井戸の水を飲まれた。それから、腹が膨れはじめたという」
鍋の湯が、ことことと鳴っている。
「侍女は、それを不義の子だと義兼公に告げた。時子殿は疑われたことを苦にして、自ら腹を割いてお果てになった」
湯の中で、守太郎の脚がこわばった。
「腹を改めてみれば、中にいたのは蛭だったそうだ。数えきれぬほどのな」
守太郎は、息をするのも忘れている。
「それで、侍女の讒言が知れた。侍女は、牛に引き裂かれて死んだ」
正通は、火のほうへ目を落とした。
「その侍女の名も、寺には伝わっている。藤野という女だ」
藤野。
林の手前で聞いた声が、耳の奥によみがえる。
悪く思わないで。私が義兼様に気に入られるには、お前には死んでもらう必要があったのじゃ。
あの女は、悪い女だった。
人を陥れて、刑に処されている。ならば、自分に言ったことも嘘になる。呪いを解く方法など、はじめからありはしない。
自分は、あの女に殺されたのだ。
奥方様の座を狙う女にとって、奥方様は邪魔である。そのそばにいる獣も、邪魔になる。だから消された。
「……私が、いなくなったから」
声が震える。
「私がそばにいれば、奥方様を」
その先は、言葉にならなかった。
*
幾日か、守太郎は小屋の隅で丸くなっていた。
正通は何も言わない。湯を沸かし、粥を炊いて、守太郎の前に椀を置いていく。
守太郎は、椀に口をつけなかった。
ある晩、正通が囲炉裏の向こうから声をかけてきた。
「石になって二百年を超える身だ。お前は、この先も長く生きるのだろう」
守太郎は顔を上げる。
「ならば、仏の道に入ってみぬか。祈って、願を掛ける。願うことがあるなら、だが」
「何を願えば、いいのですか」
「それは、お前が決めることだ」
守太郎は、しばらく火を見ている。
目を閉じて、開けたら、二百年が過ぎていたのである。戻れない道理はない気がした。
「あの日に戻って、あの人を助けたい」
正通は、笑わなかった。
「長く生きる身なら、いつか叶う日も来るかもしれぬ」
「どれほど、かかりますか」
正通は少し考えてから、答えた。
「まずは、百年」
それから、火箸を取った。
「お前、名は」
「守太郎と、父は呼んでいました」
正通は、火箸の先で灰に字を書いた。守、と書き、その隣にもう一字を書き足す。
「鶴は千年を生きるという。長く祈る身には、ちょうどよかろう」
灰の上に、二つの字が並んでいる。守太郎には読めない。
「守鶴。今日から、そう名乗るといい」
こうして法名を得た狸の長い祈りの時が始まる。




