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14.428  作者: 木瓜庵
第3部 金山検断帳
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正通

目を開けると、山の中にいた。


知らない山である。


木々の間から、灰色の空が見えている。風が冷たい。土と、濡れた落ち葉の匂いがする。


足利の匂いは、どこにもなかった。


起き上がろうとしても、体が動かない。脚も首も、言うことをきかない。


声を出そうとしても、何も出てこない。


あたりには誰もいなかった。


空が暗くなり、また明るくなる。


腹が減った、と感じることもなくなっている。体の芯から、少しずつ何かが抜けていく。


このままでは死ぬ。


そう思ったとき、自分の中にまだ残っているものに気づいた。


化ける力である。


あの夜、山で父たちが見せていた力が、ほんのわずか、体の底に残っていた。


石なら、息をしなくてもいい。


守太郎は、最後の力を使って、石に化けた。


*


苔が乗る。


落ち葉が積もる。


雪が降り、溶け、また降る。


……。


苔が厚くなる。


積もった落ち葉の下で、去年の落ち葉が土に変わっていく。


雪が降り、溶け、また降る。


…………。


何度も。


………………。


*


誰かが、石を持ち上げた。


揺れている。どこかへ運ばれていく。


それから、温かいものに包まれた。


じわり


冷えきっていたところへ、温みが染(し)みてくる。固まっていたものが、端から少しずつほどけていった。


*


目を開けると、赤茶けた湯の中にいた。


大きな盥(たらい)に、首から下が浸かっている。錆(さ)びた鉄のような匂いが、湯気と一緒に立ちのぼってくる。


盥の向こうに囲炉裏(いろり)があり、鍋がかかっていた。湯が煮えている。


その前に、僧がひとり座っている。


頭を丸めた、痩せた男である。墨染(すみぞ)めの衣が、ところどころ擦り切れていた。


僧は鍋から湯を汲んで、盥に足した。


「おお。戻ったか」


驚いた様子もない。


守太郎は、盥の縁(ふち)に前脚をかけた。


体が動く。


それから、気づいた。


腹の奥が、冷えていない。


足利の館にいたころから、ずっと腹の底に居座っていた冷たいものが、どこにもなかった。


わけは分からない。


「山で妙な石を拾うてな。湯に浸けてみたら、お前になった」


僧は、それが当たり前のことのように言う。


「ここは伊香保(いかほ)の湯だ。わしは正通(しょうつう)という。旅の坊主だ」


*


「足利へ、行かねばなりません」


自分の口から出た声に、守太郎は驚いた。


足利の館では、どれほど答えようとしても、かすれた息しか出てこなかった。それが今は、人の言葉になっている。


「ほう。口もきくか」


「足利の奥方様に、会いたいのです。助けていただいた恩を、まだ返していません」


「足利の、どなたの奥方だ」


「義兼様の奥方様です。時子様とおっしゃいます」


正通は、湯を汲む手を止めた。


囲炉裏の火が、ぱちりと爆(は)ぜる。


「それは、二百年ほども前の話だな」


守太郎には、何を言われたのか分からなかった。


「足利の義兼公といえば、鎌倉殿(かまくらどの)の世のはじめの人だ。その方の奥方なら、もう生きてはおられぬ」


正通は、囲炉裏に薪を一本くべた。


「今は応永(おうえい)の世だ。鎌倉殿はとうに絶えて、天下は京の室町殿(むろまちどの)が治めておられる。その室町殿も、もとをたどれば足利のお家の出だがな」


苔が乗り、落ち葉が積もり、雪が降る。何度も。


あれが、二百年だったのである。


正通は、しばらく黙っている。それから、静かに口を開いた。


「北条時子殿のことなら、足利の法玄寺(ほうげんじ)という寺に、その死にまつわる言い伝えが残っている。義兼公の長子の義純殿が、奥方の菩提を弔うために建てた寺だ。寺では、智願院殿(ちがんいんでん)としてお祀りしている」


正通が、守太郎の目を見る。


「悲しい話だが、知りたいか」


守太郎は、盥の縁にかけた前脚に力を込めた。


「聞かせてください」


正通は、ひとつ息をついてから語りはじめた。


「建久七年のことだそうだ。義兼公が鎌倉に出仕しておられるあいだに、時子殿は、侍女が汲んできた井戸の水を飲まれた。それから、腹が膨れはじめたという」


鍋の湯が、ことことと鳴っている。


「侍女は、それを不義の子だと義兼公に告げた。時子殿は疑われたことを苦にして、自ら腹を割いてお果てになった」


湯の中で、守太郎の脚がこわばった。


「腹を改めてみれば、中にいたのは蛭(ひる)だったそうだ。数えきれぬほどのな」


守太郎は、息をするのも忘れている。


「それで、侍女の讒言(ざんげん)が知れた。侍女は、牛に引き裂かれて死んだ」


正通は、火のほうへ目を落とした。


「その侍女の名も、寺には伝わっている。藤野という女だ」


藤野。


林の手前で聞いた声が、耳の奥によみがえる。


悪く思わないで。私が義兼様に気に入られるには、お前には死んでもらう必要があったのじゃ。


あの女は、悪い女だった。


人を陥(おとしい)れて、刑に処されている。ならば、自分に言ったことも嘘になる。呪いを解く方法など、はじめからありはしない。


自分は、あの女に殺されたのだ。


奥方様の座を狙う女にとって、奥方様は邪魔である。そのそばにいる獣も、邪魔になる。だから消された。


「……私が、いなくなったから」


声が震える。


「私がそばにいれば、奥方様を」


その先は、言葉にならなかった。


*


幾日か、守太郎は小屋の隅で丸くなっていた。


正通は何も言わない。湯を沸かし、粥を炊いて、守太郎の前に椀を置いていく。


守太郎は、椀に口をつけなかった。


ある晩、正通が囲炉裏の向こうから声をかけてきた。


「石になって二百年を超える身だ。お前は、この先も長く生きるのだろう」


守太郎は顔を上げる。


「ならば、仏の道に入ってみぬか。祈って、願を掛ける。願うことがあるなら、だが」


「何を願えば、いいのですか」


「それは、お前が決めることだ」


守太郎は、しばらく火を見ている。


目を閉じて、開けたら、二百年が過ぎていたのである。戻れない道理はない気がした。


「あの日に戻って、あの人を助けたい」


正通は、笑わなかった。


「長く生きる身なら、いつか叶う日も来るかもしれぬ」


「どれほど、かかりますか」


正通は少し考えてから、答えた。


「まずは、百年」


それから、火箸を取った。


「お前、名は」


「守太郎と、父は呼んでいました」


正通は、火箸の先で灰に字を書いた。守、と書き、その隣にもう一字を書き足す。


「鶴(つる)は千年を生きるという。長く祈る身には、ちょうどよかろう」


灰の上に、二つの字が並んでいる。守太郎には読めない。


「守鶴(しゅかく)。今日から、そう名乗るといい」


こうして法名を得た狸の長い祈りの時が始まる。


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