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14.428  作者: 木瓜庵
第3部 金山検断帳
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弁覚

「どうして、よりによって今日なのかしら」


時子は、守太郎を膝から下ろそうとしなかった。


急ぎの用ができて、今日のうちに足利を発(た)たねばならないという。戻るまでには、何日かかかるらしい。


「お坊様がいらっしゃるのに」


「私がお見せして、お話を伺っておきます」


藤野が横から手を伸ばして、守太郎を抱き上げる。


時子は、しばらく守太郎の顔を見ていた。


「では、帰ったら全部聞かせて」


「はい」


時子の指が、名残惜しそうに守太郎の耳に触れて、離れていった。


*


藤野が守太郎を連れていったのは、奥から離れた小さな部屋である。


藤野は、守太郎を板敷に下ろした。


戸が開いて、男が入ってくる。


頭を丸めている。白い篠懸(すずかけ)を着て、首から結袈裟(ゆいげさ)を掛けていた。


守太郎の背の毛が逆立つ。


あの夜、山の上で九字を切った男も、同じ装束(しょうぞく)だった。


逃げようとして、脚がもつれる。板敷の上で、爪が滑った。


「怖がらずともよい」


若い声だった。


男は守太郎の前に膝をつき、しばらく何もせずに見ている。それから、そっと手を伸ばしてきた。


腹に、手のひらが触れる。


大きくて、乾いた手である。


その手が、止まった。


「確かに、病ではない。呪いじゃ……」


見上げると、男の顔色が変わっている。さっきまでの穏やかな目が、守太郎の腹の一点を見据えていた。


「それにこれは、屋島の……」


守太郎の耳が、ぴくりと動いた。


男の目が、腹から耳へ移る。しばらく、そのまま守太郎を見つめていた。


「……やはり、そうか」


男は手を離して、立ち上がった。藤野を目で促し、部屋の隅へ連れていく。


二人は守太郎に背を向けて、低い声で話しはじめた。


男の言葉は長い。藤野がときおり聞き返し、男がまた長く答える。


声は、ところどころしか届かない。聞こうとしても、耳の奥がぼんやりと重くなる。体の具合が悪い日は、いつもこうだった。


届いた言葉も、何の話なのかが分からない。


そのなかで、ときどき聞き取れる言葉があった。


「……呪い……」


「……血……」


「……死ぬ……」


やがて男は、懐(ふところ)から小さな包みを取り出した。


それを藤野に渡す。


藤野の耳もとに顔を寄せて、何か言い添えている。今度は、何も聞こえない。


男は守太郎のそばへ戻ってくると、一度だけ見下ろしてから、部屋を出ていった。


戸が閉まる。


藤野は、包みを両手に持ったまま動かない。


守太郎のいるところからは、その横顔しか見えなかった。


外で、鳥が鳴いている。


藤野は、まだ動かない。


*


時子のいない部屋は、夜になると広く感じられた。


焚きしめた匂いだけが、まだ残っている。


その夜更け、藤野が守太郎を迎えに来た。


灯りの火が、小さくなっている。


藤野は守太郎を抱き上げると、足音を忍ばせて部屋を出た。


館の裏へ回る。


夜気が冷たい。月が出ていた。


藤野は林のほうへ歩いていく。守太郎を抱く腕が、昼間よりも固い。


林の手前で、藤野は立ち止まった。


「お坊様が、呪いを解く方法を教えてくださったのです」


小さな声だった。


「少し苦しいかもしれません。けれど、これで治ります。奥方様には、治ってからお見せしましょう。きっと驚かれます」


守太郎は、藤野の顔を見上げた。月の光で、白く見える。


時子の顔が浮かんだ。


膝の上。粥の湯気。焚きしめた匂い。


藤野が、守太郎を地面に下ろす。


「後ろの脚を、こちらへ」


守太郎は、言われたとおりに後ろ脚を伸ばした。


縄が掛かる。


きゅっ


締まった。


藤野が縄を引く。体が地面から浮き上がる。


ぎし


頭の上で、枝がきしんだ。


ぐらりと揺れて、目に映るものが逆さになる。土と、藤野の足もとが、上のほうに見えている。


頭が重い。


藤野が、下に何かを置いた。


ことり


桶である。


藤野の息が荒い。


首に、熱いものが触れた。


すぐに離れる。


また、触れる。


藤野の手が震えているのが、伝わってくる。


熱いものが、もう一度触れて、離れて、また触れる。


守太郎は、じっとしている。


苦しいかもしれないと、藤野は言っていた。これで治るのだ。


やがて、藤野の手が止まる。


林のなかが、しんとした。


ぽた、ぽた


桶の底で、音がしている。


ぽた、ぽた


月が、枝の向こうで揺れていた。


ぽた、……ぽた


縄の食い込んでいた脚が、もう痛くない。


ぽた…………ぽた


やがて、音が途絶えた。


枝から逆さに吊られた守太郎は、もう身じろぎもしない。それでも、耳だけはまだ聞こえていた。


林の奥から、草を踏む足音が近づいてくる。ひとつではない。


桶の脇に、男が屈み込んだ。


「死んでおりますか」


「もちろんじゃ。血抜きをすませた」


藤野の声である。いつもの落ち着いた調子が消えて、短く、鋭い。


ぶつり


縄が切られる。


守太郎の体が、土の上に落ちた。


「小さくとも、化け物の類。できるだけ遠くの山に捨ててきなさい」


「承知しました」


藤野が、守太郎のそばに身を屈める。


「悪く思わないで。私が義兼様に気に入られるには、お前には死んでもらう必要があったのじゃ」


それだけ言うと、藤野は立ち上がり、館のほうへ去っていった。


男が、麻袋(あさぶくろ)の口を広げる。


守太郎の体が、袋の中へ押し込まれた。


口が閉じられ、何も見えなくなる。


そこで、守太郎の意識は途絶えた。

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