北条時子
道端で拾われたあと、守太郎は女の腕に抱かれたまま運ばれていった。
着いたのは、高い塀に囲まれた屋敷である。門をくぐると、大きな建物がいくつも並んでいた。人が大勢いて、誰もが女に頭を下げる。
女は、そのいちばん奥の部屋に守太郎を連れて入った。
その日から、守太郎は女の膝の上で過ごすようになった。
女は時子という。
最初の朝、守太郎の鼻先に指を差し出して、自分でそう名乗ったのである。
「私は時子っていうのよ。あなたは?」
答えようとしても、喉からはかすれた息しか出てこない。
「あはは。さすがに狸さんは答えてくれないか」
時子は笑って、守太郎の頭を撫でた。
屋敷の者は、時子を奥方様と呼ぶ。ここは足利という土地で、この屋敷は、時子の夫の義兼という人の館らしい。
人の話を聞いているうちに、守太郎にもそれくらいは分かってきた。
時子の膝の脇には、いつも木の椀が置いてある。
中身は粥で、湯気が立っている。
時子は匙で少し掬い、ふう、と吹く。唇の先で熱さを確かめてから、もう一度吹く。
それから、守太郎の口もとへ運んでくる。
「熱くない?」
舌を出して舐めると、ほんのりと甘い。米の甘さである。
「そう。ゆっくりね」
一匙ごとに、時子は同じことを繰り返す。掬って、吹いて、確かめて、運ぶ。
守太郎が椀の半分を食べ終えるまで、その手は止まらない。
館の暮らしは、守太郎の知らないことばかりである。
朝になると、土間で火が焚かれる。煙が上がっても、誰も慌てない。火のそばで女たちが笑いながら、鍋をかき回している。
山にいたころ、火は追ってくるものだった。
ここでは、人が火を囲んでいる。
夜になっても、部屋は暗くならない。油皿に灯した小さな火が、朝まで消えずにいる。
それに、時子の匂いがある。
袖からも襟からも、いつも同じ匂いがした。何かを焚きしめた、甘くて少し苦い匂いである。
膝の上で丸くなっていると、その匂いに包まれる。守太郎は、それを覚えた。
「奥方様。また膝に獣を」
戸口から、女が顔を出している。時子より少し年上に見える。
時子のそばには、いつもこの女がいた。藤野と呼ばれている。
「お召し物に毛がつきます」
「いいの。藤野、お湯をもう少しちょうだい」
藤野は小さく息をつくと、湯を取りに下がっていった。
晴れた日には、時子は守太郎を抱いて縁へ出る。
庭に面した縁は、昼を過ぎるとよく日が当たる。時子はそこに座って、膝の上の守太郎に櫛を入れた。
櫛の歯が、背の毛をゆっくりと梳いていく。もつれたところに引っかかると、時子は手を止めて、指でほぐしてからまた梳く。
「伊豆の家にもね、狸がよく来たの」
庭の向こうを見ながら、時子が言う。
「夜になると、縁の下で食べ物を探していて。父上は追い払えとおっしゃるのだけど、私はこっそり、残りのご飯を置いておいたのよ」
守太郎の耳の後ろを、指がかく。
「あなたも、どこか遠くから来たのでしょう」
守太郎は、目を細めた。
日向の匂いと、焚きしめた匂いが混ざっている。
雨の日は、部屋で藤野と貝合わせをする。
板敷に伏せて並べた貝を、二人で一枚ずつ返していく。内側に描かれた絵がそろうと、時子は声を上げて喜んだ。
藤野の番になると、時子は身を乗り出して覗き込む。
「藤野、それは違うわ。さっき、あちらにあったもの」
「奥方様。教えてしまっては、勝負になりません」
「だって、藤野ばかり勝つのだもの」
藤野が、ふっと笑う。守太郎が藤野の笑った顔を見たのは、それが初めてだった。
並んだ貝のあいだに、守太郎は鼻を寄せる。時子が慌てて抱き上げた。
「だめよ。それは食べられないの」
夜、時子は灯りのそばで文を書くことがある。
守太郎は文机の脇で丸くなって、筆の先が紙の上を走るのを眺めている。
「鎌倉の姉上に書いているの」
時子は筆を止めて、守太郎に笑いかけた。
「狸の子を拾いました、って。きっと呆れられるわ」
それから、筆を硯の上に置いた。
「私ね、息子がいるの。もう八つになるのよ」
時子の指が、守太郎の背を撫でる。
「でも、乳母の家で育てられているから、なかなか会えなくて。武家の子は、そういうものなのだけれど」
灯りの火が、小さく揺れた。
「たまに会いに行っても、あの子、乳母のほうばかり見るのよ。私の顔なんて、忘れてしまったみたいに」
時子は笑った。笑ったのに、声は少しも明るくない。
守太郎は、時子の膝に顎をのせた。
時子は何も言わずに、また筆を取る。
墨の匂いがする。
筆の音が、また静かに続いていく。
旅のあいだにできた傷は、日に日に塞がっていく。
焦げて抜けた背の毛も、少しずつ生えそろってきた。
それなのに、体が重い。
朝、膝から降りようとして、前脚が折れる。板敷に顎を打って、しばらく起き上がれない。
粥を残す日が増えた。
腹の奥が冷える。
粥が温めてくれるのは、口と喉のあたりまでである。腹の底には、冷たいものが居座ったままになっている。
日ごとに、それが重くなっていく。
守太郎には、わけが分からない。
ある夜、時子が守太郎の腹に手を当てた。
灯りの火が、時子の横顔を照らしている。眉が寄っていた。
「傷は治っているのに」
手のひらが、腹の上でじっと止まっている。
「藤野。この子、何かの障りではないかしら」
藤野が、繕い物の手を止める。
「……それとも、呪いとか」
「さあ。獣のことは、私には」
藤野はそう言ってから、少し考える顔になった。
「そういえば、鎌倉からお見えのお坊様がおられます。弁覚様とおっしゃる、まだお若い方で」
「殿のお客様?」
「はい。鎌倉殿のお使いで、殿にお会いに来られたそうです。修験を修めた方で、鎌倉殿のご信頼も厚いと聞きました」
「そんな方に、獣を診ていただけるかしら」
「呪いのことなら、お坊様のほうがお詳しいでしょう。一度見ていただけるよう、私から頼んでみます」
時子の顔が、ぱっと明るくなる。
「お願い」
腹の上の手が、ゆっくりと動きはじめた。毛並みに沿って、何度も撫でていく。
焚きしめた匂いが、鼻をかすめる。
守太郎は目を閉じた。




