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14.428  作者: 木瓜庵
第3部 金山検断帳
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北条時子

道端で拾われたあと、守太郎は女の腕に抱かれたまま運ばれていった。


着いたのは、高い塀に囲まれた屋敷である。門をくぐると、大きな建物がいくつも並んでいた。人が大勢いて、誰もが女に頭を下げる。


女は、そのいちばん奥の部屋に守太郎を連れて入った。


その日から、守太郎は女の膝の上で過ごすようになった。


女は時子という。


最初の朝、守太郎の鼻先に指を差し出して、自分でそう名乗ったのである。


「私は時子っていうのよ。あなたは?」


答えようとしても、喉からはかすれた息しか出てこない。


「あはは。さすがに狸さんは答えてくれないか」


時子は笑って、守太郎の頭を撫でた。


屋敷の者は、時子を奥方様と呼ぶ。ここは足利という土地で、この屋敷は、時子の夫の義兼(よしかね)という人の館(やかた)らしい。

人の話を聞いているうちに、守太郎にもそれくらいは分かってきた。


時子の膝の脇には、いつも木の椀(わん)が置いてある。


中身は粥で、湯気が立っている。


時子は匙(さじ)で少し掬(すく)い、ふう、と吹く。唇の先で熱さを確かめてから、もう一度吹く。


それから、守太郎の口もとへ運んでくる。


「熱くない?」


舌を出して舐めると、ほんのりと甘い。米の甘さである。


「そう。ゆっくりね」


一匙ごとに、時子は同じことを繰り返す。掬って、吹いて、確かめて、運ぶ。


守太郎が椀の半分を食べ終えるまで、その手は止まらない。


館の暮らしは、守太郎の知らないことばかりである。


朝になると、土間(どま)で火が焚かれる。煙が上がっても、誰も慌てない。火のそばで女たちが笑いながら、鍋をかき回している。


山にいたころ、火は追ってくるものだった。


ここでは、人が火を囲んでいる。


夜になっても、部屋は暗くならない。油皿に灯した小さな火が、朝まで消えずにいる。


それに、時子の匂いがある。


袖からも襟からも、いつも同じ匂いがした。何かを焚きしめた、甘くて少し苦い匂いである。


膝の上で丸くなっていると、その匂いに包まれる。守太郎は、それを覚えた。


「奥方様。また膝に獣を」


戸口から、女が顔を出している。時子より少し年上に見える。


時子のそばには、いつもこの女がいた。藤野(ふじの)と呼ばれている。


「お召し物に毛がつきます」


「いいの。藤野、お湯をもう少しちょうだい」


藤野は小さく息をつくと、湯を取りに下がっていった。


晴れた日には、時子は守太郎を抱いて縁(えん)へ出る。


庭に面した縁は、昼を過ぎるとよく日が当たる。時子はそこに座って、膝の上の守太郎に櫛(くし)を入れた。


櫛の歯が、背の毛をゆっくりと梳(す)いていく。もつれたところに引っかかると、時子は手を止めて、指でほぐしてからまた梳く。


「伊豆の家にもね、狸がよく来たの」


庭の向こうを見ながら、時子が言う。


「夜になると、縁の下で食べ物を探していて。父上は追い払えとおっしゃるのだけど、私はこっそり、残りのご飯を置いておいたのよ」


守太郎の耳の後ろを、指がかく。


「あなたも、どこか遠くから来たのでしょう」


守太郎は、目を細めた。


日向の匂いと、焚きしめた匂いが混ざっている。


雨の日は、部屋で藤野と貝合(かいあ)わせをする。


板敷に伏せて並べた貝を、二人で一枚ずつ返していく。内側に描かれた絵がそろうと、時子は声を上げて喜んだ。


藤野の番になると、時子は身を乗り出して覗き込む。


「藤野、それは違うわ。さっき、あちらにあったもの」


「奥方様。教えてしまっては、勝負になりません」


「だって、藤野ばかり勝つのだもの」


藤野が、ふっと笑う。守太郎が藤野の笑った顔を見たのは、それが初めてだった。


並んだ貝のあいだに、守太郎は鼻を寄せる。時子が慌てて抱き上げた。


「だめよ。それは食べられないの」


夜、時子は灯りのそばで文(ふみ)を書くことがある。


守太郎は文机(ふづくえ)の脇で丸くなって、筆の先が紙の上を走るのを眺めている。


「鎌倉の姉上に書いているの」


時子は筆を止めて、守太郎に笑いかけた。


「狸の子を拾いました、って。きっと呆(あき)れられるわ」


それから、筆を硯(すずり)の上に置いた。


「私ね、息子がいるの。もう八つになるのよ」


時子の指が、守太郎の背を撫でる。


「でも、乳母(めのと)の家で育てられているから、なかなか会えなくて。武家の子は、そういうものなのだけれど」


灯りの火が、小さく揺れた。


「たまに会いに行っても、あの子、乳母のほうばかり見るのよ。私の顔なんて、忘れてしまったみたいに」


時子は笑った。笑ったのに、声は少しも明るくない。


守太郎は、時子の膝に顎をのせた。


時子は何も言わずに、また筆を取る。


墨の匂いがする。


筆の音が、また静かに続いていく。


旅のあいだにできた傷は、日に日に塞がっていく。


焦げて抜けた背の毛も、少しずつ生えそろってきた。


それなのに、体が重い。


朝、膝から降りようとして、前脚が折れる。板敷(いたじき)に顎を打って、しばらく起き上がれない。


粥を残す日が増えた。


腹の奥が冷える。


粥が温めてくれるのは、口と喉のあたりまでである。腹の底には、冷たいものが居座ったままになっている。


日ごとに、それが重くなっていく。


守太郎には、わけが分からない。


ある夜、時子が守太郎の腹に手を当てた。


灯りの火が、時子の横顔を照らしている。眉が寄っていた。


「傷は治っているのに」


手のひらが、腹の上でじっと止まっている。


「藤野。この子、何かの障(さわ)りではないかしら」


藤野が、繕(つくろ)い物の手を止める。


「……それとも、呪いとか」


「さあ。獣のことは、私には」


藤野はそう言ってから、少し考える顔になった。


「そういえば、鎌倉からお見えのお坊様がおられます。弁覚(べんかく)様とおっしゃる、まだお若い方で」


「殿のお客様?」


「はい。鎌倉殿(かまくらどの)のお使いで、殿にお会いに来られたそうです。修験(しゅげん)を修めた方で、鎌倉殿のご信頼も厚いと聞きました」


「そんな方に、獣を診ていただけるかしら」


「呪いのことなら、お坊様のほうがお詳しいでしょう。一度見ていただけるよう、私から頼んでみます」


時子の顔が、ぱっと明るくなる。


「お願い」


腹の上の手が、ゆっくりと動きはじめた。毛並みに沿って、何度も撫でていく。


焚きしめた匂いが、鼻をかすめる。


守太郎は目を閉じた。

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