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14.428  作者: 木瓜庵
第3部 金山検断帳
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30/36

扇

元暦二年、讃岐国屋島の浜。


ころは二月十八日、酉(とり)の刻ばかりのことである。


おりしも北風が激しく、磯を打つ波も高かった。


舟は揺り上げられ、揺り据えられて漂う。竿の先の扇も、定まらずにひらめいていた。


沖には平家が、舟を一面に並べてこれを見物する。

陸には源氏が、轡(くつわ)を並べてこれを見る。


いずれも晴れがましくないということはない。


那須与一は目を塞(ふさ)いだ。


「南無八幡大菩薩《なむはちまんだいぼさつ》、別してはわが国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神(ゆぜんだいみょうじん)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面(おもて)を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな」


心の内にそう念じて目を見開くと、風は少し吹き弱り、扇も射よい具合になっていた。


鏑(かぶら)を取ってつがえ、よく引き絞って、放つ。


浦に響くほど長く鳴って、あやまたず扇の要(かなめ)ぎわ一寸ばかりを、ひいふつと射切った。


鏑は海へ入り、扇は空へ上がった。


しばらく虚空にひらめいていたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散った。


夕日の輝くなかに、みな紅の扇の、日を出したのが、白波の上に漂い、浮きつ沈みつ揺られる。


沖では平家が、舟端を叩いて感じ入った。

陸では源氏が、箙(えびら)を叩いてどよめいた。



山の木々の間から、それを見下ろしている狸が二匹いた。


「平氏が負けじゃ」


父狸が言った。


「これでこの山も戦になる。いくぞ、守太郎(もりたろう)」


二匹の姿は、森の奥へ消えた。


*


夜になって、屋島の山に火が入った。


火の粉が木々の間を流れていく。燃える斜面を、松明(たいまつ)の列が幾筋も登ってくる。


守太郎は岩の裂け目に押し込められている。ここを動くな、と言われていた。


裂け目から、斜面がよく見える。


焦げた匂いに、獣(けもの)の匂いが混じっていた。父たちの匂いである。


登ってくる侍の前に、獣たちが立ちはだかった。


何十匹といる。


一匹は法師に化け、一匹は牛に化ける。大入道が道を塞ぎ、轡を並べた騎馬の一隊が横から現れては消えた。


ざんっ


侍が斬りつけても、そこには何もない。


山が丸ごと化けていた。


やがて、山頂の岩の上に龍が立ちあがる。


火の粉のなかで、鱗の一枚一枚が赤く光っている。


「我こそは六波羅(ろくはら)小松内府(こまつのないふ)の直臣(じきしん)、屋島の太三郎なり」


腹に響く声だった。山が揺れる。


ざらざら


岩の裂け目から砂が落ちてくる。


「死にたい者はかかってこい」


松明の列が止まった。侍たちがどよめいている。


指揮する侍が、後ろを向く。


「常陸坊(ひたちぼう)殿」


「応」


山伏装束の男が進み出た。


しゅっ、しゅっ


指を立て、横に切り、縦に切る。


「臨(りん)、兵(ぴょう)、闘(とう)、者(しゃ)、皆(かい)、陣(じん)、列(れつ)、在(ざい)、前(ぜん)」


ばさり


瞬く間に、巨大な龍が枯れ葉になった。


葉の散っていく下から、一匹の狸が地面へ落ちてくる。


「源氏に仇(あだ)なす化け狸どもめ。いざ調伏してくれん」


山伏が印を結んだ。


「नमः समन्तवज्राणां」


低い声が、同じ句を繰り返す。


「चण्डमहारोषण स्फोटय हूं त्रट् हां मां」


ごおっ


火勢が増した。


山の一面を、黒い靄(もや)が覆いはじめる。


「我が呪詛により、悉(ことごと)くを滅せん」


獣たちの声が、ひとつずつ絶えていった。


岩の裂け目に、父の匂いが近づいてくる。


「守太郎」


守太郎は動けない。


「ここは滅びる。お前は逃げろ」


首を振って、父の前脚に齧(かじ)りつく。


父は何も言わなかった。


どんっ


そのまま、崖の下へ子を突き落とした。


空が回る。


黒い靄が山を覆っていくのが、逆さまに見えた。靄は守太郎の体にも巻きついてきたが、落ちる勢いのほうが勝った。


途切れた。


岩の間に転がって、しばらく動けない。


起き上がり、山の上を見上げる。


真っ黒な竜巻が、ごうごうと山頂を覆っていた。


風が吹き下ろしてきて、焦げた匂いだけが鼻をかすめる。父の匂いは、もうどこにもなかった。


守太郎は逃げ出した。


浜まで走り、海を渡った。


どこへ行くとも決めていない。


ただ、山の火が見えないほうへと歩き出した。


……。


人を避けて、夜のうちに動いた。昼は藪(やぶ)で眠る。


春には、笹(ささ)の若芽を食んだ。


…………。


夏の川で魚を追い、追いきれずに流される。葭(よし)の根に引っかかって、そのまま河原で動けなくなる。


死ぬかと思ったが、死ななかった。起き上がって、また歩く。


秋は、木の実がいくらでもある。


………………。


冬は、何もない。雪の下の土を掘って、凍った虫を齧った。


そうして、また春が来る。


何度目の春かは、数えていない。


大きな山を越えた。越えた先に、また山がある。


広い野原を通り過ぎる。夜は遠くに人の火が見えたが、近づかなかった。


やがて、山が低くなる。


田が広がっていた。


水の入った田が、いちめん空を映している。畦(あぜ)に人が立ち、苗(なえ)を投げ渡していた。子供が水路で何かを掬(すく)っている。


どこかで蛙(かわず)が鳴いていた。


焦げた匂いは、どこからもしない。


その景色を、守太郎はしばらく見ていた。


足がもう動かない。


道端に倒れた。


もう起き上がれない。


体が重い。


畦の人の声が遠のいていく。蛙の声も、水の音も、順に聞こえなくなった。


匂いが消える。


明るいところが、だんだん小さくなる。


ああ、死ぬのだ、と思った。


暗い。


音もない。


父の匂いを探しても、見つからなかった。


遠くで、誰かが呼んでいる。


「ねえ」


暗闇のずっと上の方で、声がしている。


「ねえ。大丈夫」


声に、引き戻されていく。


体を揺さぶられている。


草と、日向の匂いがする。


目を開けると、すぐそこに人の顔があった。


若い女である。

長い黒髪が風に揺れて、白い頬にかかっていた。


幼さの残る大きな瞳が、守太郎を覗き込んでいる。


守太郎は、その女の腕に抱きかかえられていた。


「あ、目が覚めた」


女は、にこりと笑った。

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