扇
元暦二年、讃岐国屋島の浜。
ころは二月十八日、酉の刻ばかりのことである。
おりしも北風が激しく、磯を打つ波も高かった。
舟は揺り上げられ、揺り据えられて漂う。竿の先の扇も、定まらずにひらめいていた。
沖には平家が、舟を一面に並べてこれを見物する。
陸には源氏が、轡を並べてこれを見る。
いずれも晴れがましくないということはない。
那須与一は目を塞いだ。
「南無八幡大菩薩、別してはわが国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな」
心の内にそう念じて目を見開くと、風は少し吹き弱り、扇も射よい具合になっていた。
鏑を取ってつがえ、よく引き絞って、放つ。
浦に響くほど長く鳴って、あやまたず扇の要ぎわ一寸ばかりを、ひいふつと射切った。
鏑は海へ入り、扇は空へ上がった。
しばらく虚空にひらめいていたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散った。
夕日の輝くなかに、みな紅の扇の、日を出したのが、白波の上に漂い、浮きつ沈みつ揺られる。
沖では平家が、舟端を叩いて感じ入った。
陸では源氏が、箙を叩いてどよめいた。
山の木々の間から、それを見下ろしている狸が二匹いた。
「平氏が負けじゃ」
父狸が言った。
「これでこの山も戦になる。いくぞ、守太郎」
二匹の姿は、森の奥へ消えた。
*
夜になって、屋島の山に火が入った。
火の粉が木々の間を流れていく。燃える斜面を、松明の列が幾筋も登ってくる。
守太郎は岩の裂け目に押し込められている。ここを動くな、と言われていた。
裂け目から、斜面がよく見える。
焦げた匂いに、獣の匂いが混じっていた。父たちの匂いである。
登ってくる侍の前に、獣たちが立ちはだかった。
何十匹といる。
一匹は法師に化け、一匹は牛に化ける。大入道が道を塞ぎ、轡を並べた騎馬の一隊が横から現れては消えた。
ざんっ
侍が斬りつけても、そこには何もない。
山が丸ごと化けていた。
やがて、山頂の岩の上に龍が立ちあがる。
火の粉のなかで、鱗の一枚一枚が赤く光っている。
「我こそは六波羅小松内府の直臣、屋島の太三郎なり」
腹に響く声だった。山が揺れる。
ざらざら
岩の裂け目から砂が落ちてくる。
「死にたい者はかかってこい」
松明の列が止まった。侍たちがどよめいている。
指揮する侍が、後ろを向く。
「常陸坊殿」
「応」
山伏装束の男が進み出た。
しゅっ、しゅっ
指を立て、横に切り、縦に切る。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
ばさり
瞬く間に、巨大な龍が枯れ葉になった。
葉の散っていく下から、一匹の狸が地面へ落ちてくる。
「源氏に仇なす化け狸どもめ。いざ調伏してくれん」
山伏が印を結んだ。
「नमः समन्तवज्राणां」
低い声が、同じ句を繰り返す。
「चण्डमहारोषण स्फोटय हूं त्रट् हां मां」
ごおっ
火勢が増した。
山の一面を、黒い靄が覆いはじめる。
「我が呪詛により、悉くを滅せん」
獣たちの声が、ひとつずつ絶えていった。
岩の裂け目に、父の匂いが近づいてくる。
「守太郎」
守太郎は動けない。
「ここは滅びる。お前は逃げろ」
首を振って、父の前脚に齧りつく。
父は何も言わなかった。
どんっ
そのまま、崖の下へ子を突き落とした。
空が回る。
黒い靄が山を覆っていくのが、逆さまに見えた。靄は守太郎の体にも巻きついてきたが、落ちる勢いのほうが勝った。
途切れた。
岩の間に転がって、しばらく動けない。
起き上がり、山の上を見上げる。
真っ黒な竜巻が、ごうごうと山頂を覆っていた。
風が吹き下ろしてきて、焦げた匂いだけが鼻をかすめる。父の匂いは、もうどこにもなかった。
守太郎は逃げ出した。
浜まで走り、海を渡った。
どこへ行くとも決めていない。
ただ、山の火が見えないほうへと歩き出した。
……。
人を避けて、夜のうちに動いた。昼は藪で眠る。
春には、笹の若芽を食んだ。
…………。
夏の川で魚を追い、追いきれずに流される。葭の根に引っかかって、そのまま河原で動けなくなる。
死ぬかと思ったが、死ななかった。起き上がって、また歩く。
秋は、木の実がいくらでもある。
………………。
冬は、何もない。雪の下の土を掘って、凍った虫を齧った。
そうして、また春が来る。
何度目の春かは、数えていない。
大きな山を越えた。越えた先に、また山がある。
広い野原を通り過ぎる。夜は遠くに人の火が見えたが、近づかなかった。
やがて、山が低くなる。
田が広がっていた。
水の入った田が、いちめん空を映している。畦に人が立ち、苗を投げ渡していた。子供が水路で何かを掬っている。
どこかで蛙が鳴いていた。
焦げた匂いは、どこからもしない。
その景色を、守太郎はしばらく見ていた。
足がもう動かない。
道端に倒れた。
もう起き上がれない。
体が重い。
畦の人の声が遠のいていく。蛙の声も、水の音も、順に聞こえなくなった。
匂いが消える。
明るいところが、だんだん小さくなる。
ああ、死ぬのだ、と思った。
暗い。
音もない。
父の匂いを探しても、見つからなかった。
遠くで、誰かが呼んでいる。
「ねえ」
暗闇のずっと上の方で、声がしている。
「ねえ。大丈夫」
声に、引き戻されていく。
体を揺さぶられている。
草と、日向の匂いがする。
目を開けると、すぐそこに人の顔があった。
若い女である。
長い黒髪が風に揺れて、白い頬にかかっていた。
幼さの残る大きな瞳が、守太郎を覗き込んでいる。
守太郎は、その女の腕に抱きかかえられていた。
「あ、目が覚めた」
女は、にこりと笑った。




