補遺
十八年後――
天正六年八月邑楽郡成島村。
蝉が鳴いている。
空の高いところに入道雲が立っていた。田は青く、風が渡るたびに一面が波打つ。
館林の多々良沼の畔に、小さな庵がある。
葦の茂る水際から少し上がったところに、田を見下ろす形で建っていた。庭に細い流れを引き込んであって、水は庵の下を通って田のほうへ落ちていく。
その庭先へ、壮年の侍が立った。
笠を取って、汗を拭く。
「ごめん」
戸を開けると、中は涼しかった。
奥に床が延べてある。
痩せた老人が、上体を起こしていた。
「おお。熊倉殿」
「新左衛門殿。いや、休泊様とお呼びしたほうがよろしいか」
「新左衛門でよいですよ」
老人が笑った。
「堅苦しいのは好かんのですがな。格も要るものじゃと言われて、つけただけです」
熊倉が枕元に座った。
足音がして、女が茶を運んでくる。
盆を置いて、新左衛門の枕元の脇に座る。
「網さんも、お変わりありませんでしたか」
網がうなずいた。それきり、何も言わない。
日に焼けた顔をしていた。目尻に皺がある。
「それで、今日は」
新左衛門が言った。
熊倉が茶碗を置いた。
「殿が、成繁様が身罷られました」
「……そうですか」
蝉の声が、急に大きくなった。
新左衛門はしばらく何も言わない。庭のほうを見ている。水の落ちる音がしていた。
「熊倉殿」
「はい」
「新田の水は、流れておりますか」
「流れておりますとも」
熊倉が身を乗り出した。
「新田も、足利も、小泉も、館林も。あなたの引いた絵図のとおりに、堀はみな流れております」
「……ならば、よかった」
新左衛門が、網のほうへ目をやった。
「網。外の田は、今日も美しいか」
網がうなずいた。
「結局あなたは、最後まで百姓奉行でしたな」
熊倉が言った。
「はい」
新左衛門が答えた。
若き日、嘲りとして投げられたその言葉を、いま受け取る顔に、屈託はない。
網が顔を上げた。
「あの」
熊倉のほうへ膝を進める。
「息子は、壮健でしょうか」
「壮健も壮健」
熊倉が胸を張った。
「すくすく育っております。あれは普請方の出世頭になりますよ」
網が口元を押さえた。
「……熊倉殿」
新左衛門が笑っている。
「まだ三つでございましょう」
「今から見どころがある、という話です」
熊倉が頭を掻いた。それから真顔になる。
「ですが、なぜ我が家の養子に。大谷の家でもよかったのではないですか」
新左衛門が首を振った。
「私も網も、地に根付く者ではありません」
「はあ」
「子には、この土地に生きる喜びを味わってもらいたいのです」
網が、静かにうなずいた。
日が傾いてから、熊倉が立つ。
戸口で一度振り返って、頭を下げて、それきり出ていった。
庵に、二人が残る。
網が枕元へ寄って、手拭いを絞り直した。桶の水が、少しぬるくなっている。
二十六年前と同じ手つきだった。
新左衛門が目を開けた。
「網」
「はい」
「ずっと、考えていたことがある」
網が手を止めた。
「はじめて会うたとき。蛇川が切れた夜。渡良瀬の岸で、あの鯉が跳ねたとき」
新左衛門の声は細くなっていた。
「この二十数年、ときどき思うたのだ。うまく行きすぎる、とな」
網は何も言わない。
「人から聞いたのだがな。遠く大和の地に、水分の神というのがおるそうだ」
「みくまり」
「水の流れを寿ぐ神だという」
新左衛門が、網のほうへ顔を向けた。
「お前は、そのような御方なのではないか」
網が首を振った。
「私が知っているのは」
網が言った。
「川に溺れて、気がついたらこの土地にいた、ということだけです。あとは、みなさまと同じです」
「……そうか」
新左衛門が目を閉じた。
「どちらにしても、だ」
網が身を寄せる。
「私は、網と一緒にこの土地で生きられて、幸せだった……」
息が、そこで途切れた。
網はしばらく動かなかった。
それから、両手で新左衛門の手を包んだ。
「私も」
声が震えた。
「私も、新左衛門様と生きられて、幸せでした」
涙がこぼれた。
はらはらと落ちて、風に散って、開け放した戸から庭へ流れていく。
庭の清水に、その一粒が落ちた。
水が、淡く光る。
光はせせらぎを下り。
堀へと流れ込み。
堀から堀へ渡って、遠く見渡す限りの大地に広大な青い田の隅々まで広がっていった。
水辺の畔。
小さな庵の中で新左衛門は、その水のせせらぎを聞きながら、息を引き取った。
その脇には、水を張った桶がただ一つだけ、残っていた。
◆天正六年 西暦1578年です。
◆多々良沼 館林の西、邑楽町との境に広がる沼です。
◆大谷休泊 戦国期の農政家です(1521〜1578)。渡良瀬川の矢場堰から多々良沼へ引いた上休泊堀と、沼から先の下休泊堀を開き、太田から館林・明和にかけての田を潤しました。館林城主の長尾顕長に招かれてこの開発にあたり、荒山小左衛門らも協力したと伝わります。墓は館林市にあり、群馬県の史跡に指定されています。館林の大谷神社に祀られています。
◆大谷休泊の妻 休泊に正式な妻はいませんでしたが、内縁の妻がいたと伝わります。内縁の妻とのあいだに生まれた作太郎を、熊倉善三郎の養子に出しています。
◆水分神 水の分配をつかさどる神です。山から流れ出る水の分かれ目などに祀られ、大和の吉野水分神社などが知られます。
### 資料との相違点
本作では物語の都合上、次の2点を資料から変えています。
1. 邑楽郡での事業の始まり:資料では、休泊は永禄元年(1558)に館野ヶ原の開墾と植林を始めたとされています。本作では、永禄3年(1560)までは新田で用水の絵図を作っていたことにしています。
2. 熊倉善三郎の身分:資料では、熊倉善三郎は成島村の人で、休泊から人夫の取り締まりを任されていたとされています。本作では、横瀬家の普請方の奉行として描いています。
【参考文献】
『群馬県邑楽郡多々良村誌』群馬県邑楽郡多々良村役場、1928年2月15日
『太田市史 資料編 中世』太田市, 1984年
『太田市史 通史編 中世』太田市, 1984年
『高山彦九郎全集 巻1小俣行』 高山彦九郎先生遺徳顕彰会 博文館 1943年
『群馬県史 資料編5中世1古文書・記録』群馬県 1978年
『群馬県史 資料編7 中世3編年史料』群馬県 1978年
「中世末北関東における百姓」小笠原孝起 立教大学大学院文学研究科史学研究室紀要 2010-01-01
「主君と城を交換するということ :小泉・沼尻合戦における由良・長尾家中の動向」 簗瀬大輔 國學院大學 2023-02-05
「考古学のための上野国長楽寺永禄日記解説 建盞・天目|山小屋」 矢田俊文 中世考古学文献研究会会報 2003/11
「16世紀地域社会における献盃儀礼 『長楽寺永禄日記』『色部氏年中行事』を中心に」 中井 淳史 2001
『群馬県の中世城館跡』群馬県教育委員会 1988




