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14.428  作者: 木瓜庵
第2部 水分神
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絵図

十日の後。


金山城の評定の間に、紙が敷き詰められていた。


継ぎ目が幾筋も走っている。


裏から当てた継ぎが、灯を透かして影になっていた。端まで伸びた紙は、座敷の半分を埋めている。


翼はその縁に膝をついて、覗き込んだ。


渡良瀬の川筋が、太い線で引いてある。


そこから細い線が幾本も分かれて、丘の裾を回り、南へ下っていた。


線のわきには、いちいち小さな点が打ってある。杭を打った跡だと、いつか荒山に教わった。


「ついに出来たな」


成繁が扇子を開いて、また閉じる。ぱちん、と鳴った。


翼が勝手に人にあげたお詫びとして、わざわざ太田の市の細工師のもとまで買い求めにいった黒扇子だ。


なぜかそれをやたら気に入っていて、常に持ち歩いているらしい。


「長らくお待たせいたしました」


新左衛門が頭を下げる。まだ杖を突いていた。


左の目のまわりが、まだ青い。


「これをもとに堀をつくれば、この地の者が飢えることはございません」


「重畳じゃ」


成繁がうなずいて、座り直した。


座敷には、ほかに四人いる。


新左衛門の後ろに網が控えている。


その隣に普請方の荒山と熊倉の奉行が並んで、さっきから絵図のほうばかり見ていた。


「実はな」


成繁が言った。


「今日みなを呼んだのは、この絵図にもかかわることじゃ」


言いにくいことを言う前の顔だった。


「厩橋城で話がついた。景虎公、憲政公とも話して決まった事じゃ。広沢は横瀬の領となる」


荒山が膝を打ちかけて、途中でやめた。


「藤生も従った。もめたが、あいだに立ってくれた御方がおってな。助かった」


「それから、件の菅野大膳は刑死した。元の主であった憲政公も、あれだけ悪行が重なっては否とは仰せられなんだそうだ」


網が、袖の中で手を握るのが見えた。


「ただし、桐生方も条件を出した」


成繁が、そこで一度言葉を切った。


「ことの起こりとなった大谷新左衛門を、新田から追放せよ、と」


「これは、さすがに飲まざるをえなんだ」


座敷が静かになった。


新左衛門は動かない。それから、絵図のほうへ目をやった。


「この絵図は、完成しないのですか」


問い方が静かだった。自分の身より先に、そちらを聞いている。


「新田のぶんは、荒山と熊倉が引き継ぐ」


成繁が言った。


「……承知いたしました」


新左衛門が畳に手をついた。


「わしは、どこへ流れようと生きてゆけます。八年前もそうでございました」


顔を上げる。


「ただ、お願いがございます。網だけは、これまでどおり、成繁様の下でお守りいただけませぬか」


翼は網を見た。


網の顔が、みるみる変わっていった。


「いやです」


網が言った。


はっきりした声である。翼が聞いたことのない大きさだった。


「網さん」


「いやです。私は、新左衛門様のもとを離れません」


網は膝で前へ出て、新左衛門の袖を掴んだ。


「どこへでも、ご一緒します」


「網。話を聞け」


「いやです」


網の目から涙がこぼれた。ぼろぼろとこぼれて、袖の上に落ちる。


翼は息を止めていた。


八年前、彼女はほとんど感情を表に出さなかった。


口数もごくわずかだった。


その人が、いま子どものように泣いている。


「あ、ちょっと待て新左衛門。慌てるな。話が終わっておらん」


新左衛門と網が泣きながら父の方を向く。


父が扇子をこちらへ向けた。


翼は咳ばらいをした。


「あの。私、足利の但馬守様のご息女と、文のやりとりをしておりまして」


新左衛門が顔を上げた。網も顔を上げた。二人とも、何を言われているのか分からない顔をしている。


「伊波姫様と申します。去年いろいろとございまして、それからずっと」


「翼」


「はい。それで、伊波姫様に伺ってみました」


翼は膝を進めた。


「東国一の農政家が、いま仕事を探しております。両毛の水を知り尽くした御方です。しかも、今なら安く雇えます、と」


熊倉が咳き込んだ。荒山が笑いをこらえている。


「お返事は、諾でした」


翼は立ち上がって、絵図の上へ回った。


草履を脱いで、紙の縁を踏まないように歩く。


「新左衛門さま。網さん」


二人がこちらを向いた。


「この絵図、新田の外まで描いてありますよね」


翼は、線の伸びていく先を指でなぞった。丘を回り、南へ下り、東へ折れて、紙の端まで届いている。


「足利も。大泉も。館林もあります」


指を止めた。


「お二人が新田にいては、この絵図に描かれているものは完成しません」


網が、翼を見上げていた。


「どうか足利へ行って、堀を作って下さい」


「私も父もこの絵図に描かれている土地を見たいのです」


「夏は、地の果てまで緑が広がり、秋は黄金色に輝く、そんな夢の様な世界です」


「私たちはそれを楽しみにしているんです」


新左衛門は、しばらく絵図を見ていた。


それから翼のほうへ向き直って、深く頭を下げた。


「承知いたしました」


網も、隣で頭を下げた。


*


四人が下がって、座敷には父と二人になった。


「翼」


「はい」


「今度のことは、無茶が過ぎる」


「お父様が城にいてくださったら、口は出しませんでした」


成繁が苦笑した。


「どんどん母親に似てくるな」


翼は笑った。笑いながら、四人の出ていった戸のほうを見た。


「網さんは、新左衛門さまと生涯を共にすると決めたのですね」


「それが、あの二人の縁なのだろうよ」


「そういえば」


翼は、思いついたまま口にした。


「網さんの昔のことは、結局わからずじまいだったのでしょうか」


扇子の音が止まった。


父はこちらを見ないまま言った。


「……足利の学校に、ずいぶん優秀な学生がおってな」


「はい」


「あの娘の言うたことを手がかりに、古い記録を調べ直した者がおる」


翼は膝を戻した。


「記録、ですか」


「ああ。その中の一つに、長楽寺に残っておった、後嵯峨の帝の頃の記録があった」


成繁が扇子を膝に置いた。


「利根の大水で子を三人流された、と訴え出た漁師がおったそうだ。不思議な話ゆえ、書き留められていた」


「不思議、といいますと」


「その子らを知る者が、一人もおらなんだ」


翼は父の横顔を見た。


「近隣の者も、村の帳面も、あの漁師に子はないということになっておったそうじゃ。ゆえに、たわ言として片づけられた」


「でも、記録には残ったのですね」


「訴えがあまりに細こうてな。一笑に付すには惜しいと思うた者がおったのだろう」


成繁が扇子を開いた。


「漁師は子の歳も、男女の別も、名まで言うたそうだ」


「名前」


「あみ、とも、まずめ、とある。いかにも漁師らしい名づけだ」


翼の背を、何かが上がっていった。


「まさか」


「これは、ありえんな」


成繁が笑った。


「後嵯峨の帝といえば、三百年も昔じゃ。曲がりまちがっても、三百年も川に流されておる者はおるまい」


「……そうですよね」


話は、そこで終わった。


*


廊下へ出ると、外はもう暗い。


父の話が、どうしても引っかかる。似たような話を、どこかで聞いた気がした。


思い出せないまま歩いていると、向こうから足音が駆けてくる。


「翼さま」


兄の側仕えの、とみてだった。息が上がっている。


「どうしたのですか」


「申し訳ありません。見つかってしまいました」


「何がです」


「国寿様と、熊寿様に。あの茶釜が――」


足を止めた。


「それは、まずい」


翼は袴の裾を掴んで、走り出した。

◆荒山小左衛門 由良(横瀬)成繁の家臣です。長尾顕長方の大谷休泊とともに用水普請にあたったと伝わり、休泊堀の開削を助けた人物として名が残ります。


◆熊倉善三郎 由良(横瀬)成繁の家臣です。荒山小左衛門とともに、大谷休泊の用水普請にあたったとされます。


◆小泉(こいずみ) 上野国邑楽郡の地名です(現・群馬県邑楽郡大泉町のあたり)。邑楽郡の有力な国衆、富岡氏の所領で、その居城の小泉城がありました。


◆長楽寺 上野国新田荘世良田(現・太田市世良田町)にある寺です。新田氏の一族、世良田義季の開基と伝わります。


◆後嵯峨の帝 後嵯峨天皇です。在位は仁治三年(1242)から寛元四年(1246)です。

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