絵図
十日の後。
金山城の評定の間に、紙が敷き詰められていた。
継ぎ目が幾筋も走っている。
裏から当てた継ぎが、灯を透かして影になっていた。端まで伸びた紙は、座敷の半分を埋めている。
翼はその縁に膝をついて、覗き込んだ。
渡良瀬の川筋が、太い線で引いてある。
そこから細い線が幾本も分かれて、丘の裾を回り、南へ下っていた。
線のわきには、いちいち小さな点が打ってある。杭を打った跡だと、いつか荒山に教わった。
「ついに出来たな」
成繁が扇子を開いて、また閉じる。ぱちん、と鳴った。
翼が勝手に人にあげたお詫びとして、わざわざ太田の市の細工師のもとまで買い求めにいった黒扇子だ。
なぜかそれをやたら気に入っていて、常に持ち歩いているらしい。
「長らくお待たせいたしました」
新左衛門が頭を下げる。まだ杖を突いていた。
左の目のまわりが、まだ青い。
「これをもとに堀をつくれば、この地の者が飢えることはございません」
「重畳じゃ」
成繁がうなずいて、座り直した。
座敷には、ほかに四人いる。
新左衛門の後ろに網が控えている。
その隣に普請方の荒山と熊倉の奉行が並んで、さっきから絵図のほうばかり見ていた。
「実はな」
成繁が言った。
「今日みなを呼んだのは、この絵図にもかかわることじゃ」
言いにくいことを言う前の顔だった。
「厩橋城で話がついた。景虎公、憲政公とも話して決まった事じゃ。広沢は横瀬の領となる」
荒山が膝を打ちかけて、途中でやめた。
「藤生も従った。もめたが、あいだに立ってくれた御方がおってな。助かった」
「それから、件の菅野大膳は刑死した。元の主であった憲政公も、あれだけ悪行が重なっては否とは仰せられなんだそうだ」
網が、袖の中で手を握るのが見えた。
「ただし、桐生方も条件を出した」
成繁が、そこで一度言葉を切った。
「ことの起こりとなった大谷新左衛門を、新田から追放せよ、と」
「これは、さすがに飲まざるをえなんだ」
座敷が静かになった。
新左衛門は動かない。それから、絵図のほうへ目をやった。
「この絵図は、完成しないのですか」
問い方が静かだった。自分の身より先に、そちらを聞いている。
「新田のぶんは、荒山と熊倉が引き継ぐ」
成繁が言った。
「……承知いたしました」
新左衛門が畳に手をついた。
「わしは、どこへ流れようと生きてゆけます。八年前もそうでございました」
顔を上げる。
「ただ、お願いがございます。網だけは、これまでどおり、成繁様の下でお守りいただけませぬか」
翼は網を見た。
網の顔が、みるみる変わっていった。
「いやです」
網が言った。
はっきりした声である。翼が聞いたことのない大きさだった。
「網さん」
「いやです。私は、新左衛門様のもとを離れません」
網は膝で前へ出て、新左衛門の袖を掴んだ。
「どこへでも、ご一緒します」
「網。話を聞け」
「いやです」
網の目から涙がこぼれた。ぼろぼろとこぼれて、袖の上に落ちる。
翼は息を止めていた。
八年前、彼女はほとんど感情を表に出さなかった。
口数もごくわずかだった。
その人が、いま子どものように泣いている。
「あ、ちょっと待て新左衛門。慌てるな。話が終わっておらん」
新左衛門と網が泣きながら父の方を向く。
父が扇子をこちらへ向けた。
翼は咳ばらいをした。
「あの。私、足利の但馬守様のご息女と、文のやりとりをしておりまして」
新左衛門が顔を上げた。網も顔を上げた。二人とも、何を言われているのか分からない顔をしている。
「伊波姫様と申します。去年いろいろとございまして、それからずっと」
「翼」
「はい。それで、伊波姫様に伺ってみました」
翼は膝を進めた。
「東国一の農政家が、いま仕事を探しております。両毛の水を知り尽くした御方です。しかも、今なら安く雇えます、と」
熊倉が咳き込んだ。荒山が笑いをこらえている。
「お返事は、諾でした」
翼は立ち上がって、絵図の上へ回った。
草履を脱いで、紙の縁を踏まないように歩く。
「新左衛門さま。網さん」
二人がこちらを向いた。
「この絵図、新田の外まで描いてありますよね」
翼は、線の伸びていく先を指でなぞった。丘を回り、南へ下り、東へ折れて、紙の端まで届いている。
「足利も。大泉も。館林もあります」
指を止めた。
「お二人が新田にいては、この絵図に描かれているものは完成しません」
網が、翼を見上げていた。
「どうか足利へ行って、堀を作って下さい」
「私も父もこの絵図に描かれている土地を見たいのです」
「夏は、地の果てまで緑が広がり、秋は黄金色に輝く、そんな夢の様な世界です」
「私たちはそれを楽しみにしているんです」
新左衛門は、しばらく絵図を見ていた。
それから翼のほうへ向き直って、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
網も、隣で頭を下げた。
*
四人が下がって、座敷には父と二人になった。
「翼」
「はい」
「今度のことは、無茶が過ぎる」
「お父様が城にいてくださったら、口は出しませんでした」
成繁が苦笑した。
「どんどん母親に似てくるな」
翼は笑った。笑いながら、四人の出ていった戸のほうを見た。
「網さんは、新左衛門さまと生涯を共にすると決めたのですね」
「それが、あの二人の縁なのだろうよ」
「そういえば」
翼は、思いついたまま口にした。
「網さんの昔のことは、結局わからずじまいだったのでしょうか」
扇子の音が止まった。
父はこちらを見ないまま言った。
「……足利の学校に、ずいぶん優秀な学生がおってな」
「はい」
「あの娘の言うたことを手がかりに、古い記録を調べ直した者がおる」
翼は膝を戻した。
「記録、ですか」
「ああ。その中の一つに、長楽寺に残っておった、後嵯峨の帝の頃の記録があった」
成繁が扇子を膝に置いた。
「利根の大水で子を三人流された、と訴え出た漁師がおったそうだ。不思議な話ゆえ、書き留められていた」
「不思議、といいますと」
「その子らを知る者が、一人もおらなんだ」
翼は父の横顔を見た。
「近隣の者も、村の帳面も、あの漁師に子はないということになっておったそうじゃ。ゆえに、たわ言として片づけられた」
「でも、記録には残ったのですね」
「訴えがあまりに細こうてな。一笑に付すには惜しいと思うた者がおったのだろう」
成繁が扇子を開いた。
「漁師は子の歳も、男女の別も、名まで言うたそうだ」
「名前」
「あみ、とも、まずめ、とある。いかにも漁師らしい名づけだ」
翼の背を、何かが上がっていった。
「まさか」
「これは、ありえんな」
成繁が笑った。
「後嵯峨の帝といえば、三百年も昔じゃ。曲がりまちがっても、三百年も川に流されておる者はおるまい」
「……そうですよね」
話は、そこで終わった。
*
廊下へ出ると、外はもう暗い。
父の話が、どうしても引っかかる。似たような話を、どこかで聞いた気がした。
思い出せないまま歩いていると、向こうから足音が駆けてくる。
「翼さま」
兄の側仕えの、とみてだった。息が上がっている。
「どうしたのですか」
「申し訳ありません。見つかってしまいました」
「何がです」
「国寿様と、熊寿様に。あの茶釜が――」
足を止めた。
「それは、まずい」
翼は袴の裾を掴んで、走り出した。
◆荒山小左衛門 由良(横瀬)成繁の家臣です。長尾顕長方の大谷休泊とともに用水普請にあたったと伝わり、休泊堀の開削を助けた人物として名が残ります。
◆熊倉善三郎 由良(横瀬)成繁の家臣です。荒山小左衛門とともに、大谷休泊の用水普請にあたったとされます。
◆小泉 上野国邑楽郡の地名です(現・群馬県邑楽郡大泉町のあたり)。邑楽郡の有力な国衆、富岡氏の所領で、その居城の小泉城がありました。
◆長楽寺 上野国新田荘世良田(現・太田市世良田町)にある寺です。新田氏の一族、世良田義季の開基と伝わります。
◆後嵯峨の帝 後嵯峨天皇です。在位は仁治三年(1242)から寛元四年(1246)です。




