罠
茂みの中で、四人が身を寄せていた。
翼は葉の隙間へ顔を近づける。走ってきたせいで、息がまだ上がっていた。
東の空が、もう灰色に抜けている。夜が終わりかけていた。
どこかで水が流れ落ちている。渡良瀬川の堰の音だろうか。
「あそこが、明日のために用意された刑場です」
弥太郎が声を落とした。
河原の開かれた場所の、真ん中に柱が一本、立っている。
「人がいます」
南小二郎が柱の影を凝視しながら告げる。
闇ではっきりとは見えないが、確かに柱には人がくくられていた。
翼が目を凝らすより先に、隣で息を呑む音がした。
「新左衛門様――」
言葉と一緒に網が身を乗り出している。
「お待ちください」
弥太郎が網の袖を掴んだ。
「おかしい。見張りが一人もおりません。おそらくこれは罠かと」
だが言い終わらないうちに、袖が抜けた。
「すみません。いきますっ」
網が走り出していた。
「くっ。しかたがない。弥太郎殿、援護をおねがいできますか」
「はい」
小二郎が網の後を追う。弥太郎も出た。
翼も草むらから飛び出して三人の後を追う。
河原の砂利を駆ける音が近づき、新左衛門はうっすらと目を開けた。
「新左衛門様っ。大丈夫ですか」
柱の下まで駆け寄った網は、そこに縛られているひとをぎゅっと抱き締める。
「網……網かっ」
新左衛門が顔を上げた。
「何をしておる」
網は答えない。 新左衛門を捕らえている縄の結び目を探している。指が震えていた。
翼たちも少し遅れて追いついた。
「新左衛門様。生きておられますね。よかった」
「姫様まで」
「お話は後です。小二郎、斬ってください」
「はい。網さんすこし手を放してください」
そう言って小二郎は刀を縄にあててぶつりとそれを切った。
縄がはらりと解ける。
「よいですか、これは罠だ」
新左衛門が声を落とした。
「菅野どのの兵が周りに潜んでおる。わしを餌にしておるのです。網、皆さま逃げてください」
「いやです」
網が言った。
「連れて帰ります」
「網。わたしは今は歩けん」
「連れて帰ります」
網は理屈をあまり言わない。いつもそうだった。
新左衛門を立たせようとして、翼は驚いた。膝が伸びない。
三日縛られて打たれた体は、自分で立つことができなくなっていた。
網と翼で新左衛門の両肩をささえて、ようやく新左衛門の足が地を擦った。
弥太郎と小二郎が左右を向いて立つ。二人とも、すでに刀を構えている。
じゃり。
と、一歩、砂利を進んだ。
そのとき。
刈った草の陰に伏せてあった篝が、河原をぐるりと囲んでいっせいに燃え上がった。
明るくなりきる前の薄闇に、翼たちの影が長く伸びる。
「そこまでだ」
火の向こうから声がした。
「矢張り、罠か」
南小二郎は舌打ちをする。
「逃げ出す術はありますか」
翼が、先ほどから明晰な判断をしている弥太郎に声をかけたが、弥太郎は首を振るのみ。
篝と篝のあいだを抜けて、男達が歩いてくる。
その中央に、一際陰湿な表情で笑っている男がいる。
「あれが菅野大膳です」
弥太郎が告げる。
なるほど。いかにも悪だくみしそうな面構えだ。
菅野の後ろに、十人以上の郎党が従っている。
おそらく桐生の手の者。桐生家の名代という肩書自体は嘘ではないようだ。
「若殿」
その菅野が弥太郎を見た。
「罪人の逃亡に手を貸すのは、大罪でございますな」
「罪人かどうかもわからないではないですか」
「はっ。小賢しいことを」
「菅野殿。この者たちは関わりがない」
新左衛門が身を乗り出して言った。翼の肩の上で、声だけがしっかりしている。
「通りかかっただけの者だ。わしだけを斬れ」
「何を言っている。それでは面白くないではないか。お前の目の前で彼らを殺し、最後にお前を処刑する。それこそが有終の美っ」
「きもちわるいな」
翼は思ったことをつい口に出してしまう。
菅野の視線が翼に向く。とっさに南小二郎が翼の前に身を出してその視線を遮る。
「いいだろう。皆殺しだ。矢を――」
菅野が手を挙げると郎党の兵たちが一斉に矢を番えた。
「大谷新左衛門っ。後悔と失意の上で死ぬがいい」
「だめですっ」
そう叫んだ声がすぐ横から発せられ、人影が視界を覆った。
それは網の後ろ姿だった。
網が両手を広げ、その華奢な体で翼や新左衛門達と弓手たちの射線を遮る様に立った。
「誰も殺させません」
「網さん」
「お願いします。新左衛門様を連れて逃げてください」
「何をやっている」
「お願いします」
「網」
新左衛門が叫んだ。翼の腕の中で、体を起こそうとしている。
「だめだ。お前は死ぬな」
網は動かない。
菅野が笑った。にたり、という笑い方だった。
菅野は手をゆっくりと下ろすと、すぐそばにいた郎党から弓を奪い取る。
「下賤な女め。皆殺しの前に、お前をわが手で射殺してくれるわ」
「逃げてくださいっ。早く」
菅野の弦が、鳴るほどに引き絞られる。
その矢の先は、真っすぐに網の眉間へと向けられている。
一瞬の間。
その時、その場にいた全ての者がその音を聞いた。
ごぼり。
と、水が鳴る。
堰の向こう。川の、真ん中である。
水面が盛り上がっていく。
盛り上がって、
――ざばあっ。
割れた。
黒いものが、宙へ出る。
巨大な鯉だった。
人の背丈ほどもある。腹が白く光って、河原の篝を映した。
日はまだ昇っていない。それでも、そこで何が起きているかは、誰の目にも見えた。
誰も、動かない。
菅野も、弓を引いたまま、その神々しい巨大な鯉を見ていた。
音が、消えた。
虫も鳴かない。水も鳴らない。
河原から、音という音がなくなった。
そして、宙を泳ぐように舞い上がった鯉が水面に落ちる。
ばしゃぁあ。
水が高く上がって、しぶきが白い空へ散った。
その静けさを、
――ひゅっ。
何かが、空を裂いた。
鋭い風切りの音だった。




