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14.428  作者: 木瓜庵
第2部 水分神
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弥太郎

三日前の夕方――。


日が八王子の丘の向こうへ落ちかけて、河原の石が赤くなっていた。


刈ったばかりの馬場の草を横切ると、切り口の匂いが立つ。


広沢郷の郷士藤生家の嫡男である弥太郎は、松原の馬場への道を歩いていた。


手にはあの間者として捕まった男が持っていた絵図を抱えている。


昼過ぎに小屋から持ち出して、家の書院で広げた。


それから日が傾くまで、そればかり見ていた。


この絵図の内容について、描いた本人に訊かねばならないことがあった。


小屋の前で足を止める。


「今度こそ、息の根を止めてやる」


戸の先のくぐもった怒声を聞いて、弥太郎は戸を引いた。


西日が戸口から入って、土間に長い筋を作った。その筋の先に、男が二人いる。


一人は奥の柱に括られていた。もう一人が、その髪を掴んで、顔を上へ向けさせている。


桐生からの使番としてやってきた菅野大膳と、絵図の主である大谷新左衛門と名乗っている男である。


菅野は弥太郎を見ると、手を離した。


掴んでいた指を袴で拭って、それから居住まいを直す。


「これは、若殿」


菅野が土間を歩いてくる。


弥太郎の脇を通るとき、汗と埃の匂いがした。戸口で一度だけ振り返る。


「運が良かったな」


そう吐き捨てて、出ていった。


戸が閉まって、西日の筋が消えた。土と藁の匂いが、また濃くなる。


「大谷新左衛門殿。藤生家の嫡男の弥太郎と申します」


「……このようなところへ一人で来られては、お叱りを受けましょう」


新左衛門が顔を上げた。

唇が切れて、乾いた血が顎まで垂れている。

それでも、声は落ち着いていた。


叱られるのは、承知の上である。


「あの……大膳どのとあなたは知己の間柄なのですか」


「確かに、私と大膳殿はともに平井の城にて上杉憲政公にお仕えしておりました間柄でございます」


「平井が落城した際、大膳殿は憲政公に従い、私は放逐されました――」


「では、大膳殿があなたを恨む謂われはないのでは」


弥太郎の問いかけに、新左衛門は宙を仰いだ。


「大膳殿は結局憲政公の元から逃れ、牢人となり何年も苦労なされたとか」


「すぐに横瀬様に拾われた私に思う所があるのかもしれんが、その心は大膳様にしか推し量れません」


「世とはそういうものでございます」


天気の話でもするような調子だった。


新左衛門が、弥太郎の脇の絵図へ目をやった。


「それより藤生の若殿。御用があって来られたのでしょう」


「そうでした」


弥太郎は絵図を膝の上で広げた。


新左衛門が持っていた広沢の郷を描いた絵図である。


「この用水の絵図について伺いたいことがあります」


新左衛門が目を上げた。


「この図は渡良瀬川と用水の位置を測定している絵図です」


弥太郎は絵図の上を指でなぞっていく。


「ですが、先ほども言いましたが、この南の方に書かれているのは今はない用水。つまりこれは用水の計画図ということになります。ですよね」


「たしかに。そうなりますな」


「ですが気になることがあります。今の堀でも、横瀬殿の治める新田荘を潤すのであれば事足りる」


「ですが、この図にはさらに南、吉沢と矢場に堤を作り、水を引く計画です」


「思うのですが、これは新田荘のみならず、今は空閑地ばかりの、足利の南や邑楽、舘林に至る一円を開拓しうる。そういうものに見えます。いかがですか」


「……ふむ。水の源からその先に広がる土地を推し量れる方は珍しい。百姓奉行の才がありますな」


新左衛門がすこし笑った。



「ではやはり。これは横瀬殿のためではなく――」


「若殿。水には、人の領分がございません」


衝撃であった。


弥太郎は、絵図から目を離せなかった。


この上野国に住む皆が、己の領分を相争っている中で、この人だけ、その領分を切り分ける線など関係ないと言っているのだ。


「もちろん。雅楽助様には、別の御思案がおありかもしれませぬが」


新左衛門はそう付け加えた。


この人は、殺すべきではない。


弥太郎はそう感じずにはいられなかった。


「新左衛門どの。必ず、お助けします」


新左衛門が、深く頭を下げた。


それから顔を上げて、笑った。


*


「大谷新左衛門。北条方の間者として、上杉勢の内情を調べていたことは明白。拠って御屋形様より明日処刑との下知があった。処刑の時刻は明日の昼、渡良瀬の河原で首を刎ねる」


三日後の昼だった。


小屋の中に、家の者が集まり、菅野大膳がその中央に立ち、新左衛門へと告げる。


新左衛門は何も言わず、顔を伏せたまま、聞いているのかどうかも分からなかった。


「父上。何度も言っておりますが、彼は間者ではありません」


弥太郎はたまらず父の耳元に告げるが、父は首を振った。


「御屋形様の名代が、そう裁いたのだ。これ以上私には何もできん」


父は広沢の郷を預かる領主にすぎない。


桐生の名代と言い争えば、家運をかけることになる。


「ようやく、お前ともおさらばだな」


菅野は新左衛門のほうを見もせずに言って、出ていった。


父達もその後に続く。


弥太郎だけが残った。


側に膝をつくと、新左衛門が首を振った。


「若殿。もう来られますな」


「まだ時間はあります。必ず助けに来ます」


それだけを言い含めてその日の夜――


新左衛門を助けに小屋に忍び込んだ所で、弥太郎は謎の集団に遭遇した。


若い侍が抜いた刀が、弥太郎の目前に迫る。


*


「小二郎どの。お待ちくださいっ」


動きを制したのは翼だった。


刀が闖入者の少年の喉元の寸前で止まっている。


少年は、大声を出さず、両手を上に上げる。


「安心して下さい。誰も呼んではおりません」


声が少し震えている。年は翼とそう変わらないだろう。


着ているものが良い。染めも織りもしっかりした小袖で、それなりの家の者だという事がわかる。


「誰だ」


小二郎の刀は、まだ少年の喉元に突きつけられている。


「藤生弥太郎……と。この広沢の領主藤生家の者です」


「なぜここへ」


「新左衛門どのを助けに来ました。処刑される前に」


「……」


小二郎は少し考えてから刀を下げ、鞘に収めた。


弥太郎が大きく息を吐く。


「どうやら、同じ目的の方がいたみたいですね」


翼は小二郎の横に立って少年に声をかけた。


「あなたたちは誰ですか。北条方の間者……ではなさそうですね。組み合わせが妙だ」


侍一人に女二人。確かに妙ではある。


「えっと、私は金山の横瀬家の者で翼と言います。新左衛門さまの友人です。こっちが新左衛門さまの家族の網さんで、こっちが供の小二郎です」


翼は包み隠さず告げる。


「はあ……そうなのですか」


それを聞いて弥太郎は、少し気の抜けた返事を返した。


どうも翼の会話にはあまり緊張感がないようなのだ。小さいころからの癖みたいなものだ。


「あなた方も新左衛門どのを助けに来たというわけですね」


「そうです」


「ではもう助けられたというわけですか」


「残念ながら、来た時には誰もいませんでした。誰かが移動させたのかと」


「菅野大膳か」


「誰ですかそれは」


「桐生城の名代です。因縁があるらしく、新左衛門どのを恨んでおられる」


「あ……。もしかして平井の城のときの」


網が口を開く。


「そう聞いています」


「よくお役目を百姓奉行と蔑む菅野という人がおられたと聞いたことがあります……」


「きっとその方ですね。同じような言い回しをしているのを聞きました」


「菅野大膳は個人的な因縁から、大した詮議もせず新左衛門どのを間者と決めつけ処刑しようとしている。私が何度も忠告しても頑として耳を貸してくれませんでした」


「なんですかそれ。ただの私刑じゃないですか」


翼は憤りを覚える。人の死をなんだと思っているのか。


「あ……あの」


網が弥太郎に声をかける。


「新左衛門様は、その、御怪我などは……」


弥太郎は少し言葉につまるが口を開く。


「この三日。詮議が厳しく、激しく打ち据えられておられます。ただ、私が見た限り、まだ致命的な怪我はありません」


「……そうですか」


網は両手をぎゅっとにぎって目をつむった。


「とにかく早く助けないといけませんね」


網の切ない横顔に翼は気を取り直す。


「ですが場所がわかりません」


南小二郎のいうことはもっともだ。場所がわからない限りここから動けない。


「弥太郎さん。新左衛門さまが移された場所に心当たりはありませんか」


「そうですね……」


弥太郎が提灯を土間へ置いた。そして座り込む。


何が始まるかはわからないが、翼たちも弥太郎の周りにかがみこむと、足元だけが明るくなる。


藁の切れ端と、馬の毛と、斬られた縄の端が、そこに散らばっていた。


「縄を刀で切っています」


弥太郎がいう。


「はあ。それがどうしたんですか」


「普通なら縄を解く。移した先で縛り直すからです。切ってしまうというのはもういらないということです」


「えっと、つまり……」


翼は首をかしげる。


「可能性は二つ。一つは釈放するとき。これはありえないでしょう。となるともう一つ、移す先にすでに拘束する準備が揃っている場合です」


「それは、まさか――」


「そうですね。準備済みの処刑場へ移されたと考えられます」


「なぜ今ですか。処刑は明日の昼では、まだ時間があります」


「……桐生からの指示は明日の処刑というだけです」


「昼とは名代、菅野大膳が決めただけ。明日であればいつでも命令通りとなる」


その場にいた全員の顔が蒼白になる。


「周りを欺き夜明けとともに処刑という事か。なんと悪辣な」


南小二郎が吐き捨てる。


「菅野大膳自身が強引な処刑だとわかっているのでしょう。助けが来たり反対が優勢になる前に、機先を制するつもりかもしれません」


「刑場の場所は」


翼の問いかけに弥太郎はうなずく。


「わかります。案内しましょう」


弥太郎の提灯が消え、暗闇の中で四人は立ち上がった。




◆使番(つかいばん) 主君の命を伝え、諸方との連絡や監察にあたる役です。


◆空閑地(くうかんち) 耕されずに放っておかれている土地です。


◆吉沢 上野国新田郡の地名です(現・太田市吉沢町)。渡良瀬川の右岸にあたります。


◆矢場 上野国新田郡の地名です(現・太田市矢場町)。

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