鯉
翼は石の上を歩く。丸い石が動いて、足が滑る。小二郎を先に、網を後ろに、渡良瀬の河原を遡っていく。
「小二郎どの。どこへ向かっているのですか」
「松原と申すところにございます」
前を向いたまま、小二郎が言った。
「この先の河原に、ここらを治める藤生家の馬場がございます。その先に馬小屋が一つ」
「大谷様は、その小屋におられるのですか」
「そう聞いております」
石が途切れて、水に行き当たった。
洲と洲のあいだの、細い流れである。小二郎が先に入って、深さを見た。
「浅うございます。お渡りください」
翼は裾を持って入った。水は足首までしか来なかった。冷たい。
網も入ってきた。
「荒山と熊倉が、近在の里の者から聞き出した話です」
小二郎が続けた。
「間違いがないとは申せません。ですが、あの二人が方々で聞いて、同じ話が出たそうにございます」
「それならば、たしかに正しそうですね」
「はい。なのでその小屋まで、見つからずに行かねばなりません」
小二郎が、ここで初めて振り返った。
「よろしいですか。何があっても、大きな声を出さないでください。お二人とも」
「分かりました」
小二郎がうなずいて、また前を向いた。歩き出したその後ろで、
「ひやっ」
網が大きな声をあげる。
翼と小二郎は網の方へと振り向く。
「網さん。静かにですよ」
「あ、あの……水の中に、な……何かがいます。ぬるぬるしています」
「ぬるぬるですか。それは一体……」
網がおもむろに水の中へ手を入れた。
「これは……鯉みたいです」
網が手を突っ込んだ水の中で何かをしている。
「大丈夫ですか」
「持ち上がらないんです」
どうやら浅瀬に入り込んだ鯉を助けようとしているらしい。
こんな時に何をとは言えない。
翼は小さいころから知っている。網はこういう人なのだ。
翼は裾をからげて、網の隣に膝をついた。
「どこですか」
「ここです」
手を入れると、指の先に、つるりとしたものが触れた。
生き物だと分かった途端、それが動いた。
「わっ」
「静かに」
小二郎の声が飛んだ。
翼は口を閉じた。閉じたまま、両手を鯉の下へ差し入れた。
重い。思っていたより、ずっと重い。網と二人がかりで抱え上げ、水を割りながら深いほうへ運んだ。
手を離すと、鯉は一度だけ大きく身をよじって、それきり見えなくなった。
翼は立ち上がって、袖を絞った。
「これで安心ですね」
「は……はい。すみません、お手を煩わせて」
「大丈夫です。見つかっていませんから。ね」
翼が同意を求めて小二郎のほうを見る。
小二郎は何も言わないが、本当に大丈夫かという顔をしている。
翼は小二郎の不安を振り払うように、先へと歩き出した。
小二郎と網が、後ろについてくる。
*
しばらく行くと、河原が広くなった。
草の刈られた平らな場所がある。馬場だと分かった。その先に、小屋が一つ建っている。
三人は足を止めた。
明かりはない。
小二郎が先に近づく。
戸に手をかけて、少しだけ引く。中を覗いて、それから手招きをした。
翼と網が続いて入り、小二郎が後ろ手に戸を閉めた。
薄闇である。
馬と藁の匂いが濃い。人の匂いは、その奥にあるはずだった。
目が慣れるまでに、少しかかった。
藁が隅に積んである。柱が一本。その根方に黒く盛り上がったものが見えて、翼は息を詰める。
古い鞍だった。
誰もいなかった。
「……いませんな」
小二郎が言った。
「与太話でしたか。あの二人め」
「いいえ」
翼は屈んだ。
床をよく見ると、足元に、縄が落ちている。
手に取ると、端が斬れていた。切れたのではなく、斬られている。
「斬られた縄。縛られた跡です」
「なるほど。つまりここにいた可能性は高い」
小二郎も納得する。
「でも、どこかへ移されたみたいですね。すぐに探さないと」
そう言って立ち上がった時――
からり、と小屋の戸が開いた。
急いでそちらに視線を向けると、戸口に、少年が立っていた。
手にした提灯の火が、下から少年の端正な顔を照らしている。
◆藤生氏 広沢郷の在地の武士です。




