刀
庭から上がってもらうのに、ずいぶんかかった。
網は土の上から動こうとせず、荒山と熊倉が二人がかりで声をかけ、最後は翼が「これは命令です」と言って、ようやく縁へ上がった。
さっきまで商人と庄屋が座っていた部屋に、網を通した。荒山と熊倉も入れた。南小二郎は戸口に座った。
障子から差す光の色が、少しだけ変わっている。
網は敷居のすぐそばに座って、額を板に付けた。
翼は、その前に座った。
「網さん。顔を上げてください」
網は上げない。
「網さん」
「……はい」
「上げてください。そんなことをされたら、お話が聞けません」
網が、ゆっくり顔を上げた。
髪が乱れて、頬に土が付いている。裾は泥だらけで、足は裸足だった。足の裏が切れている。
網さんに頭を下げられるのは、どうも落ち着かない。子どものころ、幼い自分と一緒に遊んでくれた、姉のような存在なのだ。
網が口を開くまで、少しかかった。
「……新左衛門様が」
「はい」
「三日、戻ってこないのです」
「新左衛門様が?」
網がうなずいた。それきり、また黙ってしまう。
翼は、脇に控えた二人のほうを見た。
「荒山どの。熊倉どの。どういうことですか」
「はっ。実は、絵図が」
荒山が身を乗り出した。
「絵図が、あと少しで仕上がるところでございまして」
「荒山。順が違う」
熊倉が横から言う。
「絵図はもっと前の話だ。姫様がお困りになる」
「いや、絵図から言わねば分からんだろうが」
「分からんのはお前の言い方だ」
「……荒山どの」
「はっ」
「絵図から聞きます」
「そら見ろ」
荒山が膝を打った。熊倉が、口をへの字にした。
「新左衛門殿は、長いこと絵図を引いておられます」
「知っています。父からの命令で、何年にもわたり、新田、邑楽、足利と用水絵図を作っておられますね」
「はい。その絵図が、あと少しなのでございます。あと少しなのですが、どうしても分からぬところが残りまして」
「どこですか」
「広沢です」
熊倉が引き取った。
「城の蔵をいくら当たっても、広沢のことは出てまいりませぬ。古い検地の帳があるばかりで、地の高い低いが書いてないのです」
「それでは、水がどちらへ落ちるのか分かりませぬ」
荒山が横から足した。
広沢とは、新田荘の北に広がる八王子の丘陵を超えた先に広がる地だ。
新田荘の田畑を潤す用水は、この広沢の地に作られた渡良瀬川の取水口が源となっている。
だが、その広沢の地は、横瀬氏の領地ではない。
広沢の更に北、桐生の地を支配する桐生佐野氏の差配する場所なのである。
「それで、新左衛門様は」
「ご自分で測りに行くと仰せになりました」
「止めました」
荒山がまた身を乗り出す。
「止めましたとも。あそこは桐生様のご領分でございます。書付を借りるならまだしも、人が入って縄を張り、杭を打つなど」
「わしは袖を掴んだ」
「掴んだのはわしだ。お前は馬の口を取っておっただろう」
「いやそうではなくて、お前は新左衛門殿の風呂敷をとって――」
「話をすすめさせてください。新左衛門様は、なんと仰せでしたか」
「は、はい。いまは桐生様も横瀬も、同じ上杉方だと」
荒山が、そこで声を落とした。
「話せば分かる。分からぬなら、分かるまで話す。そう仰せになって、出ていかれました」
会ったのは数えるほどだが、いかにもあの人が言いそうなことだと、翼は思った。
「それが三日前でございます」
熊倉が言った。
「その日のうちに戻ると仰せでした。それが、翌日も、その次も」
網が、膝の上で手を握った。
荒山が、板に手をついた。
「姫様。実は今朝、太田の宿で聞いた話がございます」
顔つきが変わっている。
「広沢で、桐生方の郷士が牢人を捕らえたそうでございます。川べりで縄を張り、杭を打っておったと」
翼は、口の中が乾くのを感じた。
「桐生のお役人が調べて、北条の間者ということになったそうでございます」
「上杉方の地を探っておった、と」
熊倉が低く言った。
「それで、どうなるのですか」
「明日にでも、渡良瀬の河原で首を刎ねると」
部屋が静かになった。
川べりで縄を張り、杭を打っていた牢人。
別の人だと思える理由が、見つからなかった。
翼は網を見た。
網は、まっすぐこちらを見返していた。庭で伏していたときとは、目が違っている。
「網さん。私に手伝ってほしい、ということですか」
網が両手をついた。
「刀を、お貸しください」
翼は、聞き違えたかと思った。
「行くお許しと、刀を。わたしが、新左衛門様を助けに参ります」
「網さん」
思わず声が出た。
「網さんは、刀なんて触ったこともないでしょう」
「ありません」
「ないのに、どうするんですか」
「それでも、わたしが助けなければ」
網の声は小さい。小さいのに、最後まで止まらなかった。
「新左衛門様には、たくさんの恩があります」
翼は、膝の上で指を組んだ。
母上なら、だめと言う。人を出すのも書状を出すのも、まず那波へ伺いを立ててからだと言うだろう。
でも、那波へ使いをやって、返事を待って、それからでは明日に間に合わない。
父上は出ていくとき、堀の普請は私に任せると言った。
大谷様は、その普請の人だ。
なら、私が決めていい。
……たぶん。
翼は立ち上がった。
「姫様。まさか――」
南小二郎が腰を浮かせたが、翼は続けた。
「網さん。刀は貸せません」
網の顔が上がった。
「姫様っ」
「代わりに、私が一緒に行きます」
網の目が、大きくなる。
「私は領主の娘です。薙刀は、小さいころから習っています。網さんが刀を持って行くより、私が持って行くほうが役に立ちます」
翼は、網の泥だらけの裾を見た。
「私が網さんの楯になります。一緒に、新左衛門様をお助けしましょう」
「は?」
荒山と熊倉の声が、きれいに重なった。
「い、いけませぬ」
熊倉が板に両手をついた。
「なりませぬ。無理でございます。だめでございます」
「そんなに言わなくても聞こえています」
「女子がお二人で、しかも姫様が、敵陣に飛び込むなど――」
「飛び込むとは言っていません」
翼は、二人を順に見た。
「忍び込むのです」
荒山が、何か言いかけて黙った。
「それに、女子二人ではありません」
翼は手を差し出した。まず戸口の南小二郎へ、それから荒山へ、熊倉へと順に向けていく。
「男が三人と、女が二人です」
網さんと二人の奉行は、口を開けたまま、翼を見ていた。
南小二郎は頭を抱え込んでいる。よく兄を気まますぎだとか言えるなと思っていたが口には出さない。
四人の様子を見て、そんなに驚くことだろうか、と翼は思った。
◆邑楽 上野国邑楽郡です(現・館林・板倉など)。新田荘の北東に連なります。
◆広沢 新田荘北方の地名です。渡良瀬の取水に関わる土地で、桐生方の支配下に置かれた時期があります。
◆八王子の丘陵 新田荘北側に連なる丘陵です(太田市北部〜桐生方面への地形的境)。
◆桐生氏 桐生を領した佐野一族です。本宗の唐沢山佐野とは別家・支族として東上野に勢力を持ちました。
◆検地帳 検地の結果を記した帳簿です。石高や名請は載っても、用水に必要な高低までは書かれないことが多いです。




