黒扇子
「あれは、似せ物でございます」
城下の市である、太田宿場の商人はそう言って、両手を膝に置いた。
困った顔を、ひとつもしない。
「一文にも足りませぬ太刀でございました。それを承知のうえで、残りの代は捨ててやろうと申しておるのです。むしろ、有難がっていただきたい」
「そんなわけはございません」
出塚郷の庄屋が膝を進めた。声が高い。
「あれは新田義重公より伝わった太刀にございます。我が家に、代々――」
「では、証文をお出しなされ」
「そのようなものは」
「ございませんな。では似せ物でありましょうよ」
「そんなわけはないっ」
障子から薄明かりが小さな部屋に差し込んでいる。
永禄三年九月、上野国新田郡新田荘金山城城中――
ここは金山城の本丸屋形の脇に建てられた、評定所にある小さな部屋である。
この場の主人である翼は脇息に肘をついたまま、二人を見ていた。
さっきから、同じ話ばかりしている。
あくびをかみ殺す。
脇に控えた南小二郎が、咳払いをした。
翼に向けた咳払いだった。
翼はあわてて肘を外して、背を伸ばした。
「こほん。えっと、ではお二人に麦種のことから伺います」
庄屋のほうを向いた。
「商人どのから借り受けたというその種は、もう蒔きましたか」
「……はい、蒔きましてございます。先月のうちに」
「では、土の中ですね」
庄屋がうなずいた。
今度は翼は商人を見た。
「というわけで返せと言っても、返らないものです」
「承知しています。それゆえ、質としていた太刀を頂戴いたしました」
「期限はまだあったはず。それまでに金を渡す約束でした」
庄屋は食ってかかる。
「無理でしょう。此度の陣立てで、出塚の郷には何も残っておりますまい。ですから私はあの似せ物の太刀を売り、損ではありましたがそれで勘弁いたしますと言っているのです」
「あの太刀がそんな安いはずはないのだっ」
「お二人とも落ち着いてください」
翼は二人を制止して、商人の方を向き直った。
「結局の所その太刀は、もう売ったということでいいのですか」
「はい。売りましてございます」
「取り戻せますか」
商人は、少しだけ間を置いた。
「あれはもう、人の手から手へ渡っております」
「やっぱりそうですか。うーん」
翼は膝の上で手を組んだ。
麦種は土の中にあり、太刀は人の手にある。どちらも、返らない。
「こうしましょう」
翼は姿勢を戻した。
「まず、麦種のほうです」
「まだ受け取っておられぬ代は、金山から出します」
商人が顔を上げた。
「まことでございますか」
「まことです。そのかわり、その麦種は城の物といたします」
庄屋が、口を開けた。
「城の物とした種を、出塚郷へ貸します。返すのは、来年の麦です。商人どのにではなく、城へ返してください」
商人が両手をついた。
「有難き仰せにございます」
「有難くはありません。あなたは、貸した代を受け取るだけです」
庄屋のほうは、まだ膝を崩さない。
「……恐れながら。有難きことにございます。ですが、太刀は」
「それです」
翼はふところに手を入れた。
取り出したものを、庄屋の前へ置いた。
扇子である。
黒い骨の、飾りのない扇だった。要のところが、握りつづけた手の脂で色を変えている。
庄屋がそれを取り、開いた。
商人が横から覗き込んで、そのまま動きを止めた。
「太刀は戻りませんので、かわりに、それを出塚に納めてください。なんとわが父、横瀬雅楽助愛用の扇です」
庄屋は扇を持ったまま、翼を見上げた。
「はあ……し、しかしこれは、横瀬様のもので新田様のものでは……」
つまりは、源家の嫡流と小野の末流では物の価値が違うといいたいのだろう。
「そなたは、我が主を愚弄するのか」
南小二郎の声が飛んだ。
「滅相もございませぬ。滅相も」
庄屋は扇を押しいただいて、額を板に付けた。
それで、話がついた。
これでようやく、翼に任された評定が一通り終わった。
領民たちを残し、障子を開けて、飛び出る気持ちで部屋の外へ出た。
廊下に出るなり、翼は大きく息を吐いた。
「はああ…」
「姫様」
小二郎がついてくる。
「まだ何かありますか」
「脇息に肘をつくのは、おやめください」
「だって、つい癖で」
「直してください。それからあの扇は、いずこから」
「あれはですね。なんと、父上の部屋からです。評定の前に、忍び込んで盗んでおきました」
南小二郎は、しばらく黙っていた。
「実城様がお帰りの折には、それがしも同席いたします」
「いない方が悪いのです」
そう言って翼は廊下を曲がった。
ここから本丸の屋形だ。
屋形は、人であふれている。特に近ごろは出入りが多い。
荷を担いだ者とすれ違い、書状を持った者に道を譲った。
「小二郎どの。父上は、いつ那波から帰られるんですか」
「まだお帰りになりませぬ」
「陣を立ててもうひと月ですよ。帰り道を迷っているんじゃないですか」
「越後の長尾様が厩橋へお入りになってから、沙汰が途切れぬのです。今朝も使いが参りました」
翼は少し歩いてから、また口を開いた。
「それじゃあ母上は、手伝ってくれたり――」
「御台所さまは朝から所務にかかっておられます。手が空きません」
「そうですよね。だから、私が一人公事をやっているわけですから。えっと、じゃあ伯父上はどうですか」
「御屋形とご一緒に那波攻めですよ」
伯父の掃部助長繁は、この前の足利行きの時はついてきてくれたが、普段は父の重臣、簡単に手が空く人ではない。
「むむ……じゃあ、勘九郎従兄様は、どう」
「勘九郎様は今や家中随一の武芸者ですよ。戦働きに行かないわけないじゃないですか」
「たしかに……」
勘九郎従兄様は伯父上の嫡男にあたる人だが、正直実の兄より、小さいころから面倒を見てくれていた頼れる人だ。
「うーん、結局私しかいないのか……」
口を尖らせた。
翼にはあともう一人兄がいるのだが、あまり頼れる存在ではない。
「よいではないですか。足利の一件で、姫様は使えるとご覧なされたのでしょう」
翼はむっとした。むっとしたが、違うとは言わなかった。
ふと前を見ると、向かいから、女中が一人歩いてくる。
大きな釜を両手で抱えていて、前がほとんど見えていない。
すれ違いざま、その足がもつれた。
翼は手を出して、釜の底を支えた。
「も、申し訳ございません」
顔を見て分かった。兄の側仕えの、とみてである。
「とみてさん。これは何ですか」
「はい、これは茶釜でございます」
「えっと……なぜ、そんなものを抱えているのですか」
「実は、小太郎様が、館林のお寺から借り受けてこられました」
翼は釜を見た。鉄の肌は古く、蓋の摘みが欠けている。
「面白そうだから、と仰せで。……なんでも、湯が減らぬのだそうでございます。いくら汲んでも減らぬと。化物だと申す者もおります」
翼は額を押さえた。
「もう。本当に兄上は、変わらないですね。気まますぎます」
とみてが、困った顔で釜を抱え直した。
「とみてさん。それは蔵にしまってください」
「え」
「兄上には、借りられなかったと言ってください。寺へは、あとで私が送り返します」
「よろしいのですか」
「いいのです。それから、弟たちには絶対に見せないでください。絶対ですよ」
とみての顔が、目に見えて緩んだ。
「かしこまりました」
とみてと別れて、廊下を進んだ。
すると今度は先のほうに、男が二人いた。
板の上に胡坐をして、頭を下げている。廊下の端に寄って、通る者の邪魔にならぬようにしている。
どうやら目的は翼らしい。なにがしかの新しい出来事を抱えているのだろう。
息つく暇がないとはこういうことなんだなと、翼は実感せざるを得ない。
「えっと……あなたたちは」
男達が口を開く。
「普請方の奉行をしております。荒山小左衛門でございます」
「同じく熊倉善三郎にございます」
「普請方ということは、大谷様のご配下のかたですか。新左衛門様と網さんは、息災でおられますか」
「そのことなのですが……」
二人が顔を上げた。どちらも、埃だらけだった。
「姫様に聞いていただきたいお話がございます」
荒山が言った。
それから、廊下の下のほうへ目を向けた。
つられて、庭を見た。
庭先の土に、女が一人、伏していた。
網だった。
◆太田宿 金山城下の宿場・市です(現・群馬県太田市)。日光例幣使街道などとも関わり、商人が集まりました。
◆出塚郷 新田荘内の郷名です(現・太田市付近)。
◆新田義重 平安末期〜鎌倉初期の武将で、新田氏の祖とされます。源義家の孫とも伝えられます。
◆麦種 麦の種籾です。貸借の対象にもなります。
◆公事 訴訟・裁判・行政上の裁き全般を指します。
◆御台所 正室を指す尊称です。家政や所務に関与することもありました。
◆那波 上野国の地名・豪族名です(現・伊勢崎市付近など)。横瀬・由良氏と同盟・姻戚で結ばれた那波氏の本拠として知られます。
◆厩橋 上野国の城下です(現・前橋市)。長尾景虎(上杉謙信)が関東進出の際に入り、上杉方の拠点の一つとなりました。
◆越後の長尾 越後国の長尾氏です。景虎のち上杉謙信が関東管領を継承し、上野へ進出します。
◆館林 上野国邑楽郡の城下です(現・館林市)。寺社や城下町が知られます。




