捕縛
―面白い。よし。やってみろ―
成繁の声が、まだ耳に残っていた。
隣では網が一緒に頭を下げている。蝉が鳴いて、木々の緑が濃い。空は、澄みきって青い。
夏の盛りである。
ばしゃっ。
と、水の音がした。
蝉では、ない。
冷たいものが、顔にかかった。
息が詰まって、咳が出た。咳をするたび、脇腹が痛んだ。
目を開けると、低い天井の板があった。
夏ではなかった。
戸の隙間から風が入って、濡れた顔を冷やしていく。土と、籾殻の匂いがする。
あの夏から、八年が過ぎている。
腕は後ろへ引かれ、背中に柱の角が当たっていた。指を動かすと、割れた爪が縄に引っかかる。
「寝るのはまだ早い」
声のほうへ、顔を上げた。
小屋の中に、男が何人もいた。身なりから、在の侍と知れる。棒を提げている者もいる。
一人だけ身なりのよい男が、前に立っていた。手に、空の桶を提げている。
その後ろに、少年が一人いた。年は十四、五だろうか。こちらを見ていない。奥の机のほうを向いている。
「そろそろ白状したらどうだ」
男は桶を置いた。
「お前は、新田の間者であろう」
「違う」
喉に水が残っていて、声が掠れた。
「では、なぜ佐野の領へ忍び込んだ。何を探っておった」
「田を潤すために、渡良瀬の流れを調べておっただけじゃ」
「岸に杭を打ち、縄を張り、水を張った器を覗いておったな」
男の声が低くなった。
「あれが、田の話か」
「あれは水盛りと申します」
新左衛門は、体を起こそうとした。縄が食い込んで、起きられない。
「土地の高い低いを見るものです。あれがないと、水がどちらへ行くのか分かりませぬ」
男は鼻で笑った。
「そんなわけがあるか」
棒が振り下ろされた。
脇腹に入って、息が止まった。目の前が白くなり、次の息が来ない。
「あんな図面を描いておるのだ。間者のほかに、あるまい」
息が戻るのに、昔よりも時がかかるようになった。
顔を上げて、小屋の奥を見た。
机の上に、絵図が広げてあった。
折り目のところは紙が薄くなり、裏から継ぎを当ててある。線は引き直した跡が幾重にも重なって、川筋のあたりだけが黒い。
八年、あれを提げて野を歩いた。
「あれは、そういうものではない」
新左衛門は言った。息が、まだ浅い。
「ただの、用水の絵図だ」
「嘘をつくな」
男が一歩、前へ出た。棒がまた上がる。
「父上」
少年が顔を上げた。
「これは、その者が申すとおりでございます。広沢の用水の図です」
棒が止まった。男たちが、少年のほうを見る。
読める者がいた。
こんなところに。
「ですが」
少年の声は、落ち着いていた。
「この図には、まだない水路が描かれております」
指が、絵図の下のほうへ滑った。
「新田領との境に、新しい堀を掘る筋がございます」
小屋の中が、ざわついた。
「どういうことだ」
「そんな堀を掘られて、広沢の水はどうなる」
「春の代掻きに、水が回らんようになるぞ」
「その堀は、下に掘る」
新左衛門は言った。
「上の水は減らぬ」
「下流の用水であれば、上流に障りはないかと存じます」
少年が言い添えた。絵図から目を離していない。
「わからんではないか」
別の男が遮った。棒の先が、また新左衛門のほうを向く。
「掘ってみねば分からんのだろう。分かったころには、田が干上がっておるわ」
高さの話をすればよい、と思った。水は、高いほうから低いほうへしか行かぬ。広沢の口は上にあり、掘る先は下にある。
言いかけて、やめた。柱に括られた男の言うことを、誰が聞く。
身なりのよい男が、少年の脇へ寄った。
「わしは広沢の者だ」
新左衛門を見下ろして言った。
「この水で、村が食うておる。減らぬという証を、お前は出せるか」
出せなかった。
八年かけて引いた線が、まだ土の上にないからである。
外で、足音が止まった。
戸が、開いた。
日の光が土間に落ちて、埃が白く見えた。
「図面を燃やし、その男の首を斬ればよいのです。藤生殿――」
身なりのよい男が、振り返った。
「そなたは」
戸口の男は、日に焼けていた。旅の埃を、払おうともしていない。
「柄杓山より参りました。御屋形様の命により、この一件の使番としてまかり越しました」
聞いた覚えのある声だった。
新左衛門は、顔を上げた。
役立たずは要らぬ、と言った男が、そこに立っていた。
男は、藤生と呼ばれた男に一礼した。
「菅野大膳亮憲頼と申します」
それから、新左衛門のほうを向いた。
「久しいな。百姓奉行」
にやりと笑った。




