三州大計
新左衛門は、闇の中を走った。
月はない。足元は何も見えない。畦の高さも、水の際も分からない。
すぐ横に、小さな光があった。
蛍は、走る速さに合わせるように飛んでいる。離れない。
田は一面、水を被っていた。踏み固めた畦の硬さだけを足の裏で探りながら、走った。
水の面に、もうひとつの光が走っている。蛍が映っているのだった。
足がすべって、膝から水に落ちた。手をついて、起きる。光は、待っている。
水の音が、近づくほどに大きくなる。
蛍が、右へ折れた。
新左衛門も折れた。
その先に、黒い盛り上がりがあった。空を背にして、松が一本立っている。田より高い土の上に、小さな宮が建っていた。
水の上に立っているものは、その松のほかに何もなかった。
宮の脇の松に、人がすがりついている。
「網」
呼ぶと、影が動いた。
片手で幹をつかみ、もう一方の腕に子を抱えている。
宮の周りは、ぐるりと水である。田から溢れた水が、盛り土の裾を巻いて流れていた。
渡れなかったのだ。
新左衛門は、水へ入った。
一歩で、腰まで来た。二歩目で、流れが足を横へ払った。踏み替えて、また出す。
松の根に手が届いた。それを掴んで、盛り土に膝をついた。
「無事か」
網は、腕の中の子の顔を見た。
「……無事」
子は目を閉じている。だが胸は動いていた。息はある。
「お前のことだ」
新左衛門は言った。
「堤が破れれば、畦も崩れる。お前が思うておるより、ずっと危ない」
「うかつに水へ入るな」
網はうつむいた。
しばらくして、小さく言った。
「……薬を、貰いに行きたくて」
子を助けたことは、言わなかった。
新左衛門は、言葉に詰まった。
「……そうだったな」
背を向けて、しゃがんだ。
「そうだ。たしかに、わしのせいか」
「乗れ。子は抱いたままでよい」
背に、重みが乗った。細い腕が肩に回る。
新左衛門は、水へ足を下ろした。
足の裏で泥を探りながら、一歩ずつ進んだ。
「このあたりの堤は弱い。雨が降れば、よく破れる」
「これからは近づくなよ」
背の上で、網が口を開いた。
「では――」
新左衛門は足を止めない。
「新左衛門様。破れないものは、つくれますか」
「少しは強いものを、作れるかもしれんな」
「なら、作ってください――」
網の声は、水の音に消えそうなほど低かった。
「だれも、流されないように」
否とは、言えなかった。
岸がどこにあるのかも、まだ見えない。
水が、腰を押していく。
「ここから生きて帰れたらな」
*
日が、白く照っていた。
田は青く伸びて、遠くの山なみまで続いている。
畦の草の上に陽炎が立ち、その先の空に、入道雲が高く盛り上がっていた。
庭の湧き水は澄んでいる。添水が、こん、と鳴った。
蝉が鳴いている。
戸も障子も開け放してあるのに、風は入ってこない。新左衛門は片手で団扇を使いながら、机に広げた紙に線を引いていた。
紙の上には、蛇川が描いてある。曲がりくねった川筋のところどころに、印が打ってあった。水の溜まる場所である。
戸口で、水音がした。
顔を上げると、成繁が手桶を提げて入ってくるところだった。桶の水は、縁までいっぱいに入っている。後ろで網が、おろおろと手を出したり引いたりしている。
「あ……あの……」
「横瀬様。あまり、網の仕事を取らないでください」
「これぐらいはやらんと、体がなまる」
成繁は桶を隅に置き、新左衛門の前にどかりと座った。
「堤を直すと聞いた。それが、その図面か」
新左衛門はうなずいた。
「あの川は、曲がりすぎております。曲がりの内に水が溜まり、そこから抜けまする」
「まっすぐに流し、溜まりを潰す。それならば、できまする」
成繁は紙を上から覗き込んだ。
「それをやるということは」
成繁が顔を上げる。
「普請の役を、引き受けるということでよいのか」
新左衛門は団扇を置いた。
板の間に、両手をついた。
「やりたいのです。是非、やらせていただけませぬか」
成繁は、しばらく黙っていた。
「まずは蛇川を」
頭を下げたままで新左衛門は告げる。
「うむ。して、そのあとの計画は」
新左衛門は、顔を上げた。
「この野は、ひとつの生き物でございます」
「ここだけを直すという形では、水は引けませぬし、止められませぬ」
新左衛門は続けた。
「この土地のすべて作り変えさせてください」
「すべてとは」
「すべてとはすべてでございます。大利根の北をすべて。あの山から、あちらの山までです」
新左衛門は東西の地平線の先にうっすらと見える山の頂を団扇で指し示した。
「はっ……」
成繁が言葉を失う。
「わははははっ」
そして大声で笑い出した。
網が驚いて、戸口で肩を跳ねさせた。
「新左衛門、分かって言うておるのか。あれは榛名と筑波じゃ。お前は三州の野を普請すると言うておるのじゃぞ」
そういって、また笑う。
「それは大きすぎました。ではまず二国で手をうちます。上州から野州の荒れ野を田園に変えて見せましょう」
「面白い。よし。やってみろ」
「はい」
「まずは絵図だ」
成繁は紙のほうへあごをしゃくった。
「儂の郎党に、荒山と熊倉という刀より土いじりが好きな侍がおる。お前と気が合いそうゆえ、お前につける。奴等とともに、お前が考えるこの両毛の地を、あの絵図のごとく描いてみせよ」
「はい、おまかせください」
新左衛門は、もう一度手をついた。
「かならずや、描き上げて献上いたしまする」
その隣で、網も一緒に頭を下げていた。
成繁は、二人を見て、また笑った。
夏の盛りである。
木々は緑を深くし、空は澄みきって青い。
◆榛名 上野国の山(現・群馬県)です。関東平野の北西を限る山塊として知られます。
◆筑波 常陸国の山(現・茨城県)です。関東平野の東縁の目印とされます。
◆三州 ここでは上野・下野・常陸など、大利根以北の広域を見渡す言い方として用いられます。国の数え方は文脈によります。
◆両毛 上野(上州)と下野(野州)にまたがる渡良瀬流域の地域呼称です。




