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14.428  作者: 木瓜庵
第2部 水分神
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雨

雨が、幾日も降りつづいていた。


開け放した戸の先で、庭の湧き水に雨粒が跳ねている。水面の波紋は絶え間なく、添水の音は、雨に紛れてもう聞こえない。


新左衛門は、その雨を布団の中から見ていた。


息が、荒い。


熱がある。じっとしていても、こめかみが脈を打つ。


額の手拭いが、そっと持ち上げられた。網が桶の水で絞り直して、また載せてくれる。ひんやりとしていた。


「すまんな」


声が、掠れた。


網は首を振る。それから、新左衛門の顔をじっと見ていたが、やがて立ち上がった。


「……お城」


戸口のほうへ半歩下がりながら、途切れ途切れに言う。


「お城なら……薬あるかも……もらってくる」


「網」


新左衛門は、布団の中から手を出して制した。


「大ごとにするな。ただの風邪じゃ。寝ておれば治る」


網は、戸口と新左衛門を見比べて、立ちつくしている。


「この雨じゃ。頼むから、座っておれ」


網はまだしばらく立っていたが、やがて枕元に戻り、座り直した。


濡れた手拭いが、替えられる。


それから、布団の上に出したままの新左衛門の手に、小さな手が重なった。両手で、包むように握っている。


水を使っていた手は、冷たかった。それが、じきに温くなった。


熱のせいか、そのぬくもりだけが、やけにはっきりと分かった。


大丈夫だ、と言うつもりだった。言葉になったかどうか分からぬまま、新左衛門は眠りに落ちた。


……。

…………。


水の音を、聞いていた。


ざざ、ざざ、と絶え間ない音である。


闇の奥から、松の枝が迫ってくる。


そこで、目が覚めた。


「はぁはぁ」


体じゅうが、汗で濡れていた。額から、乾いた手拭いが滑り落ちる。


熱は、下がっていた。体が、嘘のように軽い。


戸の外は、暗い。ずいぶん眠っていたらしい。雨の音は、やんでいる。


そのかわり、外が騒がしかった。


道を人が走っていく。声が飛び交っている。


「蛇川の堤が切れたぞ」


「田に水が入る。急げ」


新左衛門は、半身を起こした。


部屋を、見回す。


枕元に、水を張った桶がそのまま置いてある。手拭いは、絞ったまま使われていない。


「網」


返事がない。


「網。おるか」


外の騒ぎが、聞こえるだけである。


戸口を見た。網の履物がない。


薬だ、と思った。自分が眠ったあと、城へ向かったのだ。


城へ行くには、蛇川を渡らねばならん。


新左衛門は布団をはねのけた。草履をつっかけ、外へ飛び出した。


雨あがりの夜気が、汗に濡れた着物に冷たい。


田のあるあたりが、一面、黒く光っていた。


水である。


城へつづく道を、走った。


少し行くと、道の先に人だかりがあった。松明がいくつも揺れて、若い女の泣き声が聞こえる。


「どうしたのじゃ」


人だかりの端の男に尋ねた。男は新左衛門の顔を見て、松明の明かりの先を指した。


「この先で、堤が切れてるだ。近寄れねえ」


指の先は、ただの闇である。その闇の底から、ざあ、という音が絶え間なく響いてくる。水の音というより、地鳴りに近い。


「巻き込まれた者は、おらんか」


男は、泣いている女のほうへ目をやった。


「あれの子だ。母親の手から離れて、水に落ちてな」


「それを追いかけて、娘っ子がひとり、流れに飛び込んだ」


網だ。


この夜ふけに、あの道を行く娘が、ほかにいるものか。


そして、あの子は、言葉より先に体が動く。


「助けには」


「この暗さじゃあ、どうにもなんねえ」


男は首を振った。


「朝を待つしかねえだよ」


朝まで、あの流れの中で、どうやって。


新左衛門は、闇のほうへ一歩出た。だが、二歩目は、出なかった。


また、何もできぬのか。


と、そのとき――


顔のすぐ横を、小さな光がひとつ、すうっと流れた。


蛍である。


蛍は松明の明かりを離れ、堤の闇へ、まっすぐに飛んでいく。


風にも、あおられない。


誰も、それを見ていない。


「……網」


今度は足が動いた。


新左衛門は、その光を追って、闇の中へ駆け出していた――


◆蛇川 新田荘を流れる河川です。渡良瀬水系に連なり、氾濫や堤の決壊が記録・伝承に残る川です。

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