雨
雨が、幾日も降りつづいていた。
開け放した戸の先で、庭の湧き水に雨粒が跳ねている。水面の波紋は絶え間なく、添水の音は、雨に紛れてもう聞こえない。
新左衛門は、その雨を布団の中から見ていた。
息が、荒い。
熱がある。じっとしていても、こめかみが脈を打つ。
額の手拭いが、そっと持ち上げられた。網が桶の水で絞り直して、また載せてくれる。ひんやりとしていた。
「すまんな」
声が、掠れた。
網は首を振る。それから、新左衛門の顔をじっと見ていたが、やがて立ち上がった。
「……お城」
戸口のほうへ半歩下がりながら、途切れ途切れに言う。
「お城なら……薬あるかも……もらってくる」
「網」
新左衛門は、布団の中から手を出して制した。
「大ごとにするな。ただの風邪じゃ。寝ておれば治る」
網は、戸口と新左衛門を見比べて、立ちつくしている。
「この雨じゃ。頼むから、座っておれ」
網はまだしばらく立っていたが、やがて枕元に戻り、座り直した。
濡れた手拭いが、替えられる。
それから、布団の上に出したままの新左衛門の手に、小さな手が重なった。両手で、包むように握っている。
水を使っていた手は、冷たかった。それが、じきに温くなった。
熱のせいか、そのぬくもりだけが、やけにはっきりと分かった。
大丈夫だ、と言うつもりだった。言葉になったかどうか分からぬまま、新左衛門は眠りに落ちた。
……。
…………。
水の音を、聞いていた。
ざざ、ざざ、と絶え間ない音である。
闇の奥から、松の枝が迫ってくる。
そこで、目が覚めた。
「はぁはぁ」
体じゅうが、汗で濡れていた。額から、乾いた手拭いが滑り落ちる。
熱は、下がっていた。体が、嘘のように軽い。
戸の外は、暗い。ずいぶん眠っていたらしい。雨の音は、やんでいる。
そのかわり、外が騒がしかった。
道を人が走っていく。声が飛び交っている。
「蛇川の堤が切れたぞ」
「田に水が入る。急げ」
新左衛門は、半身を起こした。
部屋を、見回す。
枕元に、水を張った桶がそのまま置いてある。手拭いは、絞ったまま使われていない。
「網」
返事がない。
「網。おるか」
外の騒ぎが、聞こえるだけである。
戸口を見た。網の履物がない。
薬だ、と思った。自分が眠ったあと、城へ向かったのだ。
城へ行くには、蛇川を渡らねばならん。
新左衛門は布団をはねのけた。草履をつっかけ、外へ飛び出した。
雨あがりの夜気が、汗に濡れた着物に冷たい。
田のあるあたりが、一面、黒く光っていた。
水である。
城へつづく道を、走った。
少し行くと、道の先に人だかりがあった。松明がいくつも揺れて、若い女の泣き声が聞こえる。
「どうしたのじゃ」
人だかりの端の男に尋ねた。男は新左衛門の顔を見て、松明の明かりの先を指した。
「この先で、堤が切れてるだ。近寄れねえ」
指の先は、ただの闇である。その闇の底から、ざあ、という音が絶え間なく響いてくる。水の音というより、地鳴りに近い。
「巻き込まれた者は、おらんか」
男は、泣いている女のほうへ目をやった。
「あれの子だ。母親の手から離れて、水に落ちてな」
「それを追いかけて、娘っ子がひとり、流れに飛び込んだ」
網だ。
この夜ふけに、あの道を行く娘が、ほかにいるものか。
そして、あの子は、言葉より先に体が動く。
「助けには」
「この暗さじゃあ、どうにもなんねえ」
男は首を振った。
「朝を待つしかねえだよ」
朝まで、あの流れの中で、どうやって。
新左衛門は、闇のほうへ一歩出た。だが、二歩目は、出なかった。
また、何もできぬのか。
と、そのとき――
顔のすぐ横を、小さな光がひとつ、すうっと流れた。
蛍である。
蛍は松明の明かりを離れ、堤の闇へ、まっすぐに飛んでいく。
風にも、あおられない。
誰も、それを見ていない。
「……網」
今度は足が動いた。
新左衛門は、その光を追って、闇の中へ駆け出していた――
◆蛇川 新田荘を流れる河川です。渡良瀬水系に連なり、氾濫や堤の決壊が記録・伝承に残る川です。




