蛍の唄
「もしかして、ごびょうきなの。だいじょうぶ。おかな、いたいの」
腹の上の幼子は、心配そうに眉を寄せている。
新左衛門は、どう答えたものか分からない。
「……どちらさまで、ございましょうか」
我ながら、幼子に向ける言葉ではない。
「病ではなく、弱っておるのだ」
戸口で、声がした。
男が入ってくる。片手に、手拭いの掛かった手桶。後ろから、網がおろおろとついてくる。
見覚えのある顔だった。
「それから翼。おかなではなく、おなかだ。あと、男の布団の上に勝手に乗るな」
「はぁい」
幼子は素直に、新左衛門の上から降りてくれる。
新左衛門は布団を這い出て、板の間に手をつく。腕は震えている。それでも、頭を下げた。
「横瀬様……で、ございまするか」
「久しぶりじゃな」
新田の横瀬成繁である。手桶を隅に置き、どかりと胡坐をかく。
「この子は、儂の娘の翼じゃ。6つになる」
翼と呼ばれた幼子は、父の隣にちょこんと座り直す。
「お助けいただきましたこと、御礼の申しようもございませぬ」
「なに」
成繁は事もなげに言う。
「万事、北条の思いのままには、させたくなくてな。あちらも、同じ絵図を見た者がおったらしい」
それが何の話なのか、新左衛門には分からない。成繁も、それきり言わない。
聞き返すより先に、翼が身を乗り出す。
「ねえ。おじさんは、すごいひとなの?」
新左衛門に向かって聞いたのに、答えるのは成繁である。
「凄いかどうかは知らん。ただ、面白くはあるな」
「おもしろいの? どこが? ねえおじさん、おもしろいおはなし、私も聞きたい」
「翼。外で遊んでおれ」
「えー……」
翼は口を尖らせたが、「わかったよぅ」と言うとすぐに立ち上がり、戸口の網を見上げて手を取る。
「おねえちゃん、あそぼう」
「え……あの……」
網は戸惑った顔で新左衛門と成繁を見たが、そのまま翼に引かれて出ていく。
戸が閉まると、部屋が急に静かになる。
新左衛門は、手をついたまま言った。
「横瀬様。先に、申し上げねばならぬことがございます」
「言うてみよ」
「先ほどのお話です……もし、また田畑のことをわたくしにお命じになるおつもりでしたら……申し訳ございませぬが、いまは、その気になれませぬ」
命の恩人に言う言葉ではない。分かっている。だが、先に言っておかねばならない。
「主家には、役立たずゆえ連れてゆけぬと言われ申した。北条には、要らぬと。……実家は、門を開けませなんだ」
「うむ」
「わたくしには、もう、どこで生きればよいのかが分かりませぬ。使えぬ者は出て行けと仰せくだされば、すぐにも出てまいりまする」
成繁は、遮らずに聞いている。
聞き終えてから、口を開く。
「役人として使えるか、という打算は、確かにあった」
隠さない。
「だが、拾うたわけは別よ。面白い男を、死なせるには惜しい。それだけのことじゃ」
新左衛門は、答えに詰まる。
成繁は、それ以上その話を続けない。庭のほうへ、あごをしゃくる。
「あの娘から、何ぞ身の上の話は聞いたか」
「いえ。名のほかは、なにも」
「あの娘はな、去る年、利根の川べりの漁村で、舟の上にずぶ濡れのまま一人立っているのが見つかった娘じゃ」
「不思議なことに、どこから流れてきたのか、川上を尋ねても分からん。生まれも身寄りもわからぬままよ」
成繁の目は、庭を向いたままである。
「人にも言葉にも慣れておらん。ゆえに、人とあまり関わらずともよい役をと思うて、そなたの世話に宛てた」
外では、翼のはしゃぐ声が続いている。ときどき、網らしい小さな声が、遅れて返る。
「新左衛門」
成繁が、目を戻す。
「いまのそなたに役目があるとすれば、あの娘に、人の生き方を教えてやることじゃ」
生き方なら、こちらが教わりたい。そう思うが、口にはしない。
成繁は返事を待たず、立ち上がる。
「とにかく、追い出しはせん。動けるようになったら、この荘を見て回るがよい。そなたのやりたいことが、見つかるやもしれんでな」
成繁たちが引き上げるころには、空の端が赤く残っているだけだった。
翼の声が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
新左衛門は布団の上に座り、成繁の言葉を考える。
人の生き方を教えてやれ、という。寄る辺のない男に、教えられることなど何があるのか。
そのとき、外から唄が聞こえた。
新左衛門は顔を上げる。
節だけが、胸の奥で先に分かる。目を覚ますより前、夢のなかで聞いた、あの唄だ。
壁に手をつき、ゆっくり立ち上がる。戸を開けると、夜の冷気が足元から入ってきた。
日は落ちている。庭の木々は黒く、水だけがわずかに光る。
湧き水のほとりに、小さな光がいくつも漂っていた。寄り、離れ、また寄る。
蛍である。
蛍には、まだ早いはずだ。
その光のあいだに、網が立っている。
蛍を目で追いながら、低い声で唄っている。節はゆっくりと繰り返され、言葉は、やはり聞き取れない。優しいことだけが分かる。
新左衛門が縁側に立っても、網は唄をやめない。
ひとふし唄い終えてから、こちらを見る。
「なんの唄だ」
「……むかしの唄」
それだけである。
新左衛門は、縁側に腰を下ろす。
月が出ている。月明かりの下、田が山際まで続いている。風がなく、物音ひとつしない。
しばらく、どちらも黙る。
「田は、好きか」
新左衛門が尋ねる。網は、小さくうなずく。
「すき」
網は、蛍に目を戻して言った。
「田は、変わらないから」
少し間を置いて、続ける。
「ふるさとみたいに」
ふるさとはどこだ、とは聞かない。
聞けば、この娘はまた、うつむいてしまう気がする。
網は、また唄い出す。
新左衛門は縁側に座ったまま、動かない。月の下の田と、水のほとりを舞う蛍と、そのあいだで唄う網を、長いこと見ていた。




