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14.428  作者: 木瓜庵
第2部 水分神
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蛍の唄

「もしかして、ごびょうきなの。だいじょうぶ。おかな、いたいの」


腹の上の幼子は、心配そうに眉を寄せている。


新左衛門は、どう答えたものか分からない。


「……どちらさまで、ございましょうか」


我ながら、幼子に向ける言葉ではない。


「病ではなく、弱っておるのだ」


戸口で、声がした。


男が入ってくる。片手に、手拭いの掛かった手桶。後ろから、網がおろおろとついてくる。


見覚えのある顔だった。


「それから翼。お(・)か(・)な(・)ではなく、お(・)な(・)か(・)だ。あと、男の布団の上に勝手に乗るな」


「はぁい」


幼子は素直に、新左衛門の上から降りてくれる。


新左衛門は布団を這い出て、板の間に手をつく。腕は震えている。それでも、頭を下げた。


「横瀬様……で、ございまするか」


「久しぶりじゃな」


新田の横瀬成繁である。手桶を隅に置き、どかりと胡坐をかく。


「この子は、儂の娘の翼(たすき)じゃ。6つになる」


翼と呼ばれた幼子は、父の隣にちょこんと座り直す。


「お助けいただきましたこと、御礼の申しようもございませぬ」


「なに」


成繁は事もなげに言う。


「万事、北条の思いのままには、させたくなくてな。あちらも、同じ絵図を見た者がおったらしい」


それが何の話なのか、新左衛門には分からない。成繁も、それきり言わない。


聞き返すより先に、翼が身を乗り出す。


「ねえ。おじさんは、すごいひとなの?」


新左衛門に向かって聞いたのに、答えるのは成繁である。


「凄いかどうかは知らん。ただ、面白くはあるな」


「おもしろいの? どこが? ねえおじさん、おもしろいおはなし、私も聞きたい」


「翼。外で遊んでおれ」


「えー……」


翼は口を尖らせたが、「わかったよぅ」と言うとすぐに立ち上がり、戸口の網を見上げて手を取る。


「おねえちゃん、あそぼう」


「え……あの……」


網は戸惑った顔で新左衛門と成繁を見たが、そのまま翼に引かれて出ていく。


戸が閉まると、部屋が急に静かになる。


新左衛門は、手をついたまま言った。


「横瀬様。先に、申し上げねばならぬことがございます」


「言うてみよ」


「先ほどのお話です……もし、また田畑のことをわたくしにお命じになるおつもりでしたら……申し訳ございませぬが、いまは、その気になれませぬ」


命の恩人に言う言葉ではない。分かっている。だが、先に言っておかねばならない。


「主家には、役立たずゆえ連れてゆけぬと言われ申した。北条には、要らぬと。……実家は、門を開けませなんだ」


「うむ」


「わたくしには、もう、どこで生きればよいのかが分かりませぬ。使えぬ者は出て行けと仰せくだされば、すぐにも出てまいりまする」


成繁は、遮らずに聞いている。


聞き終えてから、口を開く。


「役人として使えるか、という打算は、確かにあった」


隠さない。


「だが、拾うたわけは別よ。面白い男を、死なせるには惜しい。それだけのことじゃ」


新左衛門は、答えに詰まる。


成繁は、それ以上その話を続けない。庭のほうへ、あごをしゃくる。


「あの娘から、何ぞ身の上の話は聞いたか」


「いえ。名のほかは、なにも」


「あの娘はな、去る年、利根の川べりの漁村で、舟の上にずぶ濡れのまま一人立っているのが見つかった娘じゃ」


「不思議なことに、どこから流れてきたのか、川上を尋ねても分からん。生まれも身寄りもわからぬままよ」


成繁の目は、庭を向いたままである。


「人にも言葉にも慣れておらん。ゆえに、人とあまり関わらずともよい役をと思うて、そなたの世話に宛てた」


外では、翼のはしゃぐ声が続いている。ときどき、網らしい小さな声が、遅れて返る。


「新左衛門」


成繁が、目を戻す。


「いまのそなたに役目があるとすれば、あの娘に、人の生き方を教えてやることじゃ」


生き方なら、こちらが教わりたい。そう思うが、口にはしない。


成繁は返事を待たず、立ち上がる。


「とにかく、追い出しはせん。動けるようになったら、この荘を見て回るがよい。そなたのやりたいことが、見つかるやもしれんでな」


成繁たちが引き上げるころには、空の端が赤く残っているだけだった。


翼の声が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。


新左衛門は布団の上に座り、成繁の言葉を考える。


人の生き方を教えてやれ、という。寄る辺のない男に、教えられることなど何があるのか。


そのとき、外から唄が聞こえた。


新左衛門は顔を上げる。


節だけが、胸の奥で先に分かる。目を覚ますより前、夢のなかで聞いた、あの唄だ。


壁に手をつき、ゆっくり立ち上がる。戸を開けると、夜の冷気が足元から入ってきた。


日は落ちている。庭の木々は黒く、水だけがわずかに光る。


湧き水のほとりに、小さな光がいくつも漂っていた。寄り、離れ、また寄る。


蛍である。


蛍には、まだ早いはずだ。


その光のあいだに、網が立っている。


蛍を目で追いながら、低い声で唄っている。節はゆっくりと繰り返され、言葉は、やはり聞き取れない。優しいことだけが分かる。


新左衛門が縁側に立っても、網は唄をやめない。


ひとふし唄い終えてから、こちらを見る。


「なんの唄だ」


「……むかしの唄」


それだけである。


新左衛門は、縁側に腰を下ろす。


月が出ている。月明かりの下、田が山際まで続いている。風がなく、物音ひとつしない。


しばらく、どちらも黙る。


「田は、好きか」


新左衛門が尋ねる。網は、小さくうなずく。


「すき」


網は、蛍に目を戻して言った。


「田は、変わらないから」


少し間を置いて、続ける。


「ふるさとみたいに」


ふるさとはどこだ、とは聞かない。


聞けば、この娘はまた、うつむいてしまう気がする。


網は、また唄い出す。


新左衛門は縁側に座ったまま、動かない。月の下の田と、水のほとりを舞う蛍と、そのあいだで唄う網を、長いこと見ていた。


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