網
「……。…………」
唄が聞こえていた。
聞いたことのない唄である。古い、ゆっくりとした調子で、言葉は聞き取れない。ただ、優しい唄だと思った。
目を開けると、唄は消えていた。
見知らぬ天井があった。
小さな部屋である。板張りに、藁と土の匂い。粗末だが、隅々まで掃き清められている。体の下には、乾いた布団があった。
どこかで、水の音がしている。
新左衛門は腕をついて、半身を起こした。それだけのことで、ひどく息が切れた。
縁側の障子が、半分ほど開いている。
その先に、湧き水が見えた。
地面から水が湧いて、小さな池になっている。ほとりには苔が付き、低い木が植えられ、竹の添水が、こん、と鳴った。人の手の入った庭である。
庭の先には、田園が広がっていた。
見渡す限りの平野である。田と畑が、遠くの山なみまで続いていた。
美しい場所だった。北条に囲まれた平井が、嘘のようである。
死んだのか、と思った。
ここは浄土だと言われれば、頷いてしまいそうだった。だいいち、生きてここへ来たのなら、その道筋を何も覚えていない。
がらり、と戸が開いた。
少女が立っていた。十二か、十三か。手桶を提げ、縁に手拭いが掛かっている。少女は新左衛門と目が合うと、そのまま固まった。
「ここは、どこだ」
「あ……あ……の……」
声が、言葉にならない。話すことそのものに慣れていない、そういう口ぶりだった。
「大丈夫か」
少女はびくりと肩を跳ねさせて、手桶を落とした。水が板の間に広がった。
間があった。
どうやら、浄土ではないらしい。
少女は真っ赤になってしゃがみ込み、手拭いで床を拭き始めた。新左衛門は、それが済むまで黙って待った。
それから、少しずつ聞いた。頷くか、首を振るかで答えられるように、一つずつ聞いた。
「名は、なんという」
少女は、自分の胸のあたりを指して言った。
「網……、なまえ」
「アミ…。網か。では網、ここが、どこかは分かるか」
「こ……こ……は、にった」
「にった……新田荘なのだな。そなたは誰かに言いつかって、わしの世話をしておるのか」
網は深く頷いた。
「新田の……、殿様か」
また頷いた。
「そなたの、家の者は」
網は首を振った。それきり、うつむいた。
それ以上は、聞かなかった。
新田の殿様、と聞いて思い浮かぶ顔は一つしかない。平井の控えの間で、水の絵図を覗き込んできた、あの男である。
なぜ、と思った。東毛随一の国人が、どこの家中の者でもなくなった男を、なぜ拾う。
考えは、そこまでしか続かなかった。半身を起こしているだけで、目の前が揺れてくる。
新左衛門は、布団に倒れ込んだ。
その日から、網と二人きりの日々が始まった。
網は無口である。表情も、ほとんど動かない。だが、手は動いた。朝に粥を炊き、汗を拭い、水を替え、日のあるうちに何度も様子を見に来る。夜中に目を覚ますと、枕元の水が新しくなっていた。
礼を言うたびに、網は困ったように下を向いた。
言葉は、少しずつ増えた。
体は、思うように戻らなかった。半日起きていると、目が回る。気ばかりが焦った。
添水の音と、粥の湯気と、日ごとに春めいていく庭。平井の話も、田の話も、する相手がいない。それが、楽だった。
二月ほどがそうして過ぎた。
その朝、新左衛門は明け方に一度目を覚まし、また眠った。
二度目に目を覚ましたとき、腹の上に重みがあった。
幼い女の子が、新左衛門の腹の上に座っていた。
網ではない。ずっと小さい。仕立てのいい小袖を着て、この荘の百姓の子とは思えなかった。
女の子は、にこにこと笑って言った。
「おじさん。どうして寝てるの?」
◆添水/鹿威し 竹筒に水が溜まると傾いて音を立てる仕掛けです。獣除けのほか、庭の景としても用いられます。
◆東毛 上野国東部の通称です。新田・邑楽・山田など、渡良瀬流域を含みます。




