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14.428  作者: 木瓜庵
第2部 水分神
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帰郷

平井城は、戦らしい戦もなく開いた。


主が去った城に、北条方が入った。

降った者たちは庭に集められ、選り分けられる。


槍働きのできる者は名を控えられ、残される。

呼ばれない者は、それきりである。


北条方の将が新左衛門の前で足を止め、上から下まで見た。


「役目は」


「田畑の奉行を務めておりました。勧農と用水を」


将は、ほう、と息を吐いた。


「田を守る仕事の男が、田一枚守れなかったか」


新左衛門は答えられなかった。


「刀を奪え」


供の兵が手を出す。新左衛門は帯から刀を外し、渡した。


手渡してしまえば、腰が嘘のように軽い。その軽さが、いつまでも消えなかった。


「北条には北条の奉行がいる。上杉の百姓奉行など要らぬ」


将は、もう新左衛門を見ていなかった。


「行け」


新左衛門は一人門を出る。振り返らなかった。


浪人になった、というのとは違う気がした。刀を渡したときに、武士でさえなくなった。そう思った。


行く先は、一つしか残っていない。


生まれは安中の大谷郷である。

実家は郷士の家で、いまは兄が継いでいる。


上杉の禄を食んで平井に出てから、ほとんど帰っていない。


それでも、あそこなら冬は越せる。歩きながら、それだけを考えた。


上州の風は乾いて、切るように冷たい。銭はわずかで、宿は取れない。


夜は納屋の陰や橋の下で風を避け、兄にもらう飯の温かさを思って眠った。


大谷郷に着いたのは、次の日の暮れだった。


見覚えのある坂を上る。垣根の向こうに、家の屋根が見えた。子供のころと同じ屋根である。


門の前に立ち、声をかけようとしたとき、内側で足音がした。が門は、開かなかった。


「新左衛門。悪く思うな」


声は、閉じた門の内側から聞こえた。


「安中の御屋形より、御触れが出ておる。平井から落ちた上杉の旧臣を、匿うてはならぬと」


北条に、安中が残党を集めていると見られるわけにはいかない。

兄には妻子がいる。郎党もいる。弟一人を入れて、家ごと潰すわけにはいかない。


分かってしまった。分かってしまえば、怒ることもできない。


「……分かった」


それだけ言った。


門の内で、しばらく物音がして、やがて脇の潜り戸がわずかに開き、兄の腕だけが出てきた。


古い綿入れと、米の包みと、銭。地面に置くと、腕は引っ込んだ。


「ここへ来たことは、誰にも申さぬ」


新左衛門は綿入れを拾い、米と銭を懐に入れた。


「生きろ」


戸が閉まった。


それきり、家は静かになった。


もはや新左衛門は村を出るしかなかった。


日はとうに落ちて、風だけが吹いている。


行くあてを考えようとしたが、何も浮かばなかった。主家は消えた。


暫く歩くと村外れに、壁板の破れた小さな社があった。


拝殿に上がり、板壁の破れから遠い方の隅で、綿入れにくるまった。


風は破れから容赦なく入ってくる。体を丸め、膝を抱いた。


寒さで眠れないだろうと思った。


だが、夜半を過ぎたころから、寒さのほうが分からなくなってきた。


これはまずい、と新左衛門は思った。寒さを感じなくなったら危ない。冬の行き倒れを、奉行として何人も検分してきた。眠ってはならない。


まぶたが下りてくる。


平井の声が、順に聞こえた。


——田畑もないのに、田の奉行を連れて何になる。


——旧上杉の百姓奉行など要らぬ。


——匿うてはならぬとの御触れだ。


「なるほど」


声に出ていた。


「私は、どこへ行っても要らぬらしい」


言ってしまうと、妙に腑に落ちた。腹も立たなかった。


そこで、意識が途切れた。


遠くで、声がした気がした。


「いたぞ」


土を踏む足音が、いくつも近づいてくる。


「生きているか」


肩に手が触れた。ひどく熱い手だった。


「連れて行け。死なせるな」


誰の声か、考えようとした。考える前に、何も分からなくなった。


◆郷士 郷村に根を持ち、武士的身分や特権を持つ者です。完全な城下士とは限りません。


◆安中 上野国西部(現・群馬県安中市付近)の地名・領主名です。安中氏などが領しました。


◆大谷郷 安中周辺の郷名です。大谷姓の出自として語られる土地です。

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