帰郷
平井城は、戦らしい戦もなく開いた。
主が去った城に、北条方が入った。
降った者たちは庭に集められ、選り分けられる。
槍働きのできる者は名を控えられ、残される。
呼ばれない者は、それきりである。
北条方の将が新左衛門の前で足を止め、上から下まで見た。
「役目は」
「田畑の奉行を務めておりました。勧農と用水を」
将は、ほう、と息を吐いた。
「田を守る仕事の男が、田一枚守れなかったか」
新左衛門は答えられなかった。
「刀を奪え」
供の兵が手を出す。新左衛門は帯から刀を外し、渡した。
手渡してしまえば、腰が嘘のように軽い。その軽さが、いつまでも消えなかった。
「北条には北条の奉行がいる。上杉の百姓奉行など要らぬ」
将は、もう新左衛門を見ていなかった。
「行け」
新左衛門は一人門を出る。振り返らなかった。
浪人になった、というのとは違う気がした。刀を渡したときに、武士でさえなくなった。そう思った。
行く先は、一つしか残っていない。
生まれは安中の大谷郷である。
実家は郷士の家で、いまは兄が継いでいる。
上杉の禄を食んで平井に出てから、ほとんど帰っていない。
それでも、あそこなら冬は越せる。歩きながら、それだけを考えた。
上州の風は乾いて、切るように冷たい。銭はわずかで、宿は取れない。
夜は納屋の陰や橋の下で風を避け、兄にもらう飯の温かさを思って眠った。
大谷郷に着いたのは、次の日の暮れだった。
見覚えのある坂を上る。垣根の向こうに、家の屋根が見えた。子供のころと同じ屋根である。
門の前に立ち、声をかけようとしたとき、内側で足音がした。が門は、開かなかった。
「新左衛門。悪く思うな」
声は、閉じた門の内側から聞こえた。
「安中の御屋形より、御触れが出ておる。平井から落ちた上杉の旧臣を、匿うてはならぬと」
北条に、安中が残党を集めていると見られるわけにはいかない。
兄には妻子がいる。郎党もいる。弟一人を入れて、家ごと潰すわけにはいかない。
分かってしまった。分かってしまえば、怒ることもできない。
「……分かった」
それだけ言った。
門の内で、しばらく物音がして、やがて脇の潜り戸がわずかに開き、兄の腕だけが出てきた。
古い綿入れと、米の包みと、銭。地面に置くと、腕は引っ込んだ。
「ここへ来たことは、誰にも申さぬ」
新左衛門は綿入れを拾い、米と銭を懐に入れた。
「生きろ」
戸が閉まった。
それきり、家は静かになった。
もはや新左衛門は村を出るしかなかった。
日はとうに落ちて、風だけが吹いている。
行くあてを考えようとしたが、何も浮かばなかった。主家は消えた。
暫く歩くと村外れに、壁板の破れた小さな社があった。
拝殿に上がり、板壁の破れから遠い方の隅で、綿入れにくるまった。
風は破れから容赦なく入ってくる。体を丸め、膝を抱いた。
寒さで眠れないだろうと思った。
だが、夜半を過ぎたころから、寒さのほうが分からなくなってきた。
これはまずい、と新左衛門は思った。寒さを感じなくなったら危ない。冬の行き倒れを、奉行として何人も検分してきた。眠ってはならない。
まぶたが下りてくる。
平井の声が、順に聞こえた。
——田畑もないのに、田の奉行を連れて何になる。
——旧上杉の百姓奉行など要らぬ。
——匿うてはならぬとの御触れだ。
「なるほど」
声に出ていた。
「私は、どこへ行っても要らぬらしい」
言ってしまうと、妙に腑に落ちた。腹も立たなかった。
そこで、意識が途切れた。
遠くで、声がした気がした。
「いたぞ」
土を踏む足音が、いくつも近づいてくる。
「生きているか」
肩に手が触れた。ひどく熱い手だった。
「連れて行け。死なせるな」
誰の声か、考えようとした。考える前に、何も分からなくなった。
◆郷士 郷村に根を持ち、武士的身分や特権を持つ者です。完全な城下士とは限りません。
◆安中 上野国西部(現・群馬県安中市付近)の地名・領主名です。安中氏などが領しました。
◆大谷郷 安中周辺の郷名です。大谷姓の出自として語られる土地です。




