百姓奉行
大谷新左衛門は、山内上杉家の奉行である。
受け持ちは田畑の一切だった。
勧農、用水、荒れ田の起こし直し、年貢、村同士の水争いの裁き、堰の修築、逃げた百姓の連れ戻し。城の者はひとまとめに「百姓奉行」と呼んだ。
憲政が平井を捨てる、一月ほど前のことである。
そのころも、軍議の席にいた。
議題は北条氏康の動きである。誰もが、来たる戦の話をしていた。
その席で、新左衛門は絵図を広げた。
「昨年の旱魃で、西の郷の堰が傷んでおりまする。直さぬまま人夫を取り立てれば、百姓が逃げまする。田が荒れれば、来年の兵粮が——」
「また百姓の話か」
菅野大膳が遮った。座に笑いが起きる。
「北条勢を、堰で止めるつもりか」
「田など、戦に勝ってから耕させればよかろう」
「百姓奉行は百姓と仕事をしておればよい」
上原兵庫助が続けた。
「戦に負ければ、田どころではないのだ」
それを言われると、否とは言い切れなかった。負ければ、たしかに田どころではない。それでも新左衛門は食い下がった。勝っても負けても、人は米を食う。兵も米で動く。
菅野があくびを噛み殺した。
「お前の話は、本当につまらんな。……ですよな、殿」
上座の憲政は、同意もせず、咎めもしなかった。
「兵庫助。次の議題は」
「はっ。次は御嶽の城の守備強化についてですが――」
それで終わりだった。
新左衛門は絵図を畳み、また軍議の続く広間を下がった。
控えの間で、独り、もう一度絵図を広げた。
誰も見ないと分かっていて、それでも広げた。
「おい、百姓奉行。それは、何の図だ」
戸口に男が立っていた。
声の主を見ると、見覚えのある顔があった。新田の領主、横瀬雅楽助成繁だ。
「こ、これは横瀬様」
成繁は憲政公麾下の内では一、二を争う大領を治める上野の国衆である。
「軍議はどうされましたか」
「はっ。あれが軍議なものか。曲学阿世とはあのことよ。つまらなくて退いたわ。もう平井に来ることもあるまい」
そういってどかりとその場に腰を下ろす。
まだ話す気なのか。
新左衛門は居住まいを正した。
「それで、さっきの問いだが、この図は何の図なのだ」
「これは……用水絵図です。水の流れる高さを書いております」
「水。水の流れを書いてどうする」
成繁は絵図を上から覗き込んだ。
「正しく水が流れるよう、整備をするための手掛かりとします」
絵図の上には、山の稜線も城も描かれていない。
土地の高い低いと、川や用水路によって水が流れていく道筋だけが、細かな線で引いてある。
「この絵には……村境がないな」
「水には、人の領分がございませんので」
成繁は、ふ、と息だけで笑った。
「おぬし、変わっておるの」
それだけ言って、出ていった。名も聞かれなかった。
◆勧農 耕作を奨励し、田畑の維持・再開墾を進める施策です。
◆用水絵図 土地の高低と水路の道筋を示した図です。軍事の城郭図とは目的が異なります。
◆国衆 守護・管領などに属しつつ、自領を自治的に治める有力国人です。
◆曲学阿世 学問や議論が権力や世評にこびるさまを非難する語です。




